果てしない音楽*5
そうしてレナードは、ポーション工場に併設されたブラッドリー邸にて、ピアノの前に座っていた。そんなレナードを、アイザック、エリカの夫妻とエルヴィスが眺めているが、彼らの視線が気にならない程に、レナードはただ、ピアノに集中していた。
どきどきと胸が高鳴る。何せ、久しぶりのピアノだ。
ピアノは古いものだったが、よく手入れされていた。恐る恐る鍵盤に指を載せると、ぽん、と軽やかな音が響く。
その音1つに、ぶわり、と血が騒ぐような思いがする。
ずっと、これを求めていた。レナードの魂の一部が、ここにずっと置き去りにされていたのだと、今、気づいた。
そう気づいてしまったら、もう、止まらなかった。
レナードの指は鍵盤の上で滑らかに動き、音の奔流が溢れ出す。
音に飢えて逸る心は、自然と曲のテンポを上げていった。いっそ暴力的なほどの数の音が宙を舞い、幾多の装飾音符が旋律を飾っていく。
……それを聞いていた者達は皆、息を呑んだ。それだけの演奏だった。言葉にはならず、呼吸さえ忘れかけて、観客は皆、レナードの演奏に聞き入る。
そうして一曲が終わった時、レナードはぼーっとしていた。自分の全てを音楽に注ぎ込みすぎて、言葉も何もかも忘れてしまったような、そんな気分であった。
だが、先程とは一転、静まり返った空間はエリカの拍手によって時を取り戻す。
「すごい……すごい!本当にすごいわ!」
レナードは拍手と歓声で我に返ると、椅子から立ち上がり、舞台の上でそうするように一礼してみせた。それがまた、彼女のお気に召したらしい。エリカは花が咲くように笑って、より一層、一生懸命に拍手を続けた。
「あなたって、あなたって……素敵!本当に素敵な演奏家だわ!素敵!」
「お褒めに与り光栄です!」
レナードはエリカに握手を求められ、その手を握る。小さくて柔らかそうに見える手だったが、案外、しっかりとした握り心地の手であった。
「エリカ」
握手していた2人の間に割って入るようにして、エリカをさりげなく引き戻したのは、アイザック・ブラッドリーである。そっと、それでいてしっかり力強く引き戻されたエリカは、きょとん、としてから、くすり、と悪戯っぽく笑って夫を見上げる。
「あら、妬いちゃった?」
「ああ、ちょっとな」
アイザックはそう言って苦笑すると、エリカに続いて、レナードの手を握る。
「俺は音楽に詳しいわけでもないが、今のは凄かった。いいモン聞かせてもらったよ」
「おお……こちらこそ、あなた方に聞いていただけて、本当に嬉しいですよ」
レナードはエルヴィスの話に聞いて憧れていたアイザックその人から賞賛されて、興奮気味にアイザックの手を握り返した。ぶんぶん、と手を振っていれば、アイザックに苦笑されてしまったが。
「いやー……お前、本当に、変なやつだけどすごい奴だな」
そしてエルヴィスもまた、レナードの演奏を賞賛する。ぱちぱち、と手を叩いて、驚きから未だ立ち直っていないような、そんな顔をする。
「今の、ムショでも聞けたらいいのになあ」
「まあ、流石にピアノを作るわけにはいかないからね。……でも、だからこそ、今日、ここで弾かせてもらえて本当によかった。アイザックさん、エリカさん。あなた方のご厚意に感謝します」
この先、レナードがピアノを弾くことはもう無いかもしれない。少なくとも、刑務所に入っている間にピアノを弾くことはできないだろう。今日のように運よく奉仕作業先でピアノを弾ければいいが、こんな幸運が何度もあるとは思えない。
そう思うと、どうにもピアノから離れがたかった。このままずっと、ピアノを弾いていたいと思ってしまう。レナードにとってピアノは、魂の一部のようなものなのだ。
「ああ……あなたの演奏、もっと聞きたいわ。ね、ね、もうちょっと休憩時間はあるでしょう?聞かせて頂戴!」
「えっいいんですか!?なら喜んで!」
だからせめて、今だけは。今だけは思う存分、弾かせてもらおう。
レナードはエリカの言葉に甘えて、2曲目の演奏に取り掛かることにする。次はもう少しゆったりした曲を、味わいながら弾こうかな、などと考えながら。
帰りの魔導機関車に乗ってごとごとと揺られる間も、レナードはどこか夢見心地であった。
久しぶりに弾いたピアノは、間違いなくレナードに影響を与えていた。レナードにより強く、音楽への渇望を思い出させたのである。
「お前、よかったな。ピアノ弾かせてもらえて」
「ああ……本当に感謝してる。ブラッドリー夫妻にも、それから、君にも。ありがとう、エルヴィス」
「俺もお前の演奏、聞けてよかったよ」
レナードはエルヴィスと握手して、にっこり笑う。実に楽しい一日だった。エルヴィスの話に聞いていた素晴らしい人物にも会えたし、ピアノも弾けた。奉仕作業自体も、中々楽しかった。
「いい一日だったなあ。お前の演奏を聞けたし、友達にも会えたし……」
「ああ、君、アイザックさんと友達なんだったっけ」
そういえばエルヴィスは、アイザックと友達なのである。アイザックはレナードより年上の、中年の男性だ。しかし、アイザックよりずっと若く見えるエルヴィスはそんな彼よりずっとずっと年上なのである。なんとなくエルヴィスと同い年のような気安さで接しているレナードとしては、不思議な感覚であった。
「うん。あと、もう1人な」
「エリカさんとも友達かい?」
「いやー、まあ、エリカも友達か。うん。そうなんだが……」
レナードが首を傾げていると、エルヴィスは少し照れたように笑って、答える。
「エリカの親父がな、友達なんだ」
「……エリカさんのお父さん、というと、ご高齢……?」
「ああ。人間にしちゃ、長生きしてるよ。もう寝たきりになってるけど」
またレナードの感覚を超えた話が出てきて、レナードは面食らう。まさか、目の前の若々しいエルフは、おじいちゃんとも友達とは!
「実は、お前が演奏してる間にちょっと抜け出して、グレンの部屋に行ってたんだ。あいつもお前の演奏、聞いてたよ」
エルヴィスの笑顔は柔らかく、それでいて少しばかり暗い。黄昏時を思わせる笑みに、レナードはエルヴィスの友人だというその人の命が、もうそう長くないことを悟る。
「うん。そうだなあ。やっぱりお前がピアノを弾いてくれて、よかった。グレンに……そのご高齢の奴に、『今のムショにはこれを弾いてる奴が入ってるんだぜ』って自慢できた」
「それ、自慢することかい……?」
レナードは首を傾げつつ、思う。もし、自分の演奏が、エルフと人間との残り少ない時間を彩ることができたなら、それはとてもとても、光栄なことだ、と。自慢するとしたらやはり、自分の方ではないかな、とも。
さて、レナードの演奏は、思わぬ余波を招いた。
まず1つ目に、レナードとエルヴィスと共にブラッドリー魔導製薬へ奉仕作業に出ていた囚人達は、皆揃って窓からレナードの様子を見、その演奏を漏れ聞いていたらしいということが判明した。
彼らは口々にレナードを讃え、そして、中にはより一層音楽への熱を滾らせる者も現れてきた。そうなると、彼らの音楽はより一層熱を帯びていき……看守はより一層、囚人達に手を焼くことになったのである。
そこから、一連の出来事が立て続けに起きていく。
まず、看守の警戒が増し、なんと、抜き打ちでの持ち物検査が行われることになってしまった。
これにより例のタンバリンの囚人がタンバリン没収の憂き目に遭ったが、彼のタンバリンに掛ける情熱は最早並大抵ではなく、なんと、彼は看守からタンバリンを奪い返して逃走するまでに至った。
その結果、タンバリンは守られたが例の囚人は懲罰房に入れられてしまった。これには他の囚人達が大いに委縮した。流石に懲罰房は嫌だ、という囚人が多かったのである。
だが、タンバリンの囚人を入れた懲罰房からは床や壁を叩くリズミカルな音が響いていたらしい。そう。タンバリンの囚人は懲罰房に入れられ、タンバリンの無い状況に置かれても尚、タンバリンを叩くが如く床や壁を打楽器にして楽しんでいたのである!
それをノイローゼ気味の看守がぼやいているのを聞いた一部の囚人達……主に、今まで散々看守達に鬱憤を抱いてきたならず者達が、大いに喜ぶことになる。
『懲罰房で音楽をやってやればあいつら嫌がるんじゃねえか?』と。
……そうして、タンバリンの囚人の一件を皮切りに、何人かの囚人が暴れる騒ぎとなった。彼らは皆、懲罰房でも壁や床を叩き、歌い、コーラスを楽しんでいたので、看守達は皆頭を抱えた。
この流れをエルヴィスとレナードは少々危ぶんでいたが……2人の危惧も空しく、遂に、看守達が暴力に走ることになる。
そう。懲罰房から出された囚人達は皆、そのまま救護室へ運ばれることとなったのだ。中には、片目を失う程の怪我を負わされた者も居た。
例のタンバリンの囚人も歯が一本折れており、『俺がトランペット吹きだったら自殺していたかもしれねえ……』と彼は嘆いていた。尤も、彼らはこっそりと、エルヴィスのポーションによって全快してしまったので翌日からまた元気に、かつこっそり歌い始めたが……。
……だが、如何にエルヴィスのポーションがあろうとも、人間というものは、暴力を受け続けていれば意欲が消えていく。
中には、懲罰房で看守から暴力を受けて、音楽を愛する心に蓋をしてしまった者も居た。すると、看守達はこれ幸いとばかり、より一層、取り締まりを強化し始め、囚人達はますます委縮させられることとなったのである。
休憩時間にも看守の監視がつくようになった。更には、『模範的ではない囚人は当然、仮釈放の対象から外す』と、事実上の脅しが掛けられるようになった。
仮釈放を望みにして生きている囚人も多い。仮釈放が引き合いに出されては、結局、彼らは黙るしか無かった。
こうしてブラックストーン刑務所からは、どんどん自由が失われていった。趣味に心を休めることもままならず、看守の監視に怯えながら囚人達は縮こまり、レナードですらも、何も奏でず歌いもせずに過ごす日が増えていく。
そうして秋が終わり、冬真っ盛りとなる頃には、すっかり、刑務所が静まり返っていた。時折、レナードが歌を口ずさみ、エルヴィスが口笛を吹き、タンバリンの囚人がタンバリンを叩く、という程度にまで、刑務所は寂しい静けさに満たされてしまったのである。
「……まあ、仮釈放の対象から外す、って言われちまったら、皆黙るしかねえよな」
エルヴィスは寂しく黙々と庭仕事をしながら、そうぼやいた。
「尤も、俺は黙らないけど」
「あー、君、終身刑なんだっけ」
「そういうわけだ。失うものが無いからなあ、俺。強いぜ?」
囚人達の中でも珍しく、エルヴィスは日々の生活を然程変えなかった。他の囚人達を気遣って変えたものはあっても、自分の保身のために変えたことは何も無い。
それはひとえに、エルヴィスが終身刑のエルフだからである。終身刑は終身刑で、そして、エルフを死刑にする胆力が今の所長にあるとは思えず……つまり、エルヴィスは何をやろうが、どうせ『失うものが無い』のである。
「そういうことなら僕も黙らずにいる方に回ろうかな」
そんなエルヴィスを相手に、レナードはにっこり笑う。エルヴィスは少々、不思議そうにしていたが。
「お前、それ、下手すると刑期、延ばされるぞ?いいのか?」
「うん。まあいいんだよ。僕も君と似たようなものさ。失うものは無い、ってね」
レナードはそう言って笑って、百合の球根を丁寧に花壇へ植えていく。その様子もまた看守に監視されていたが、レナードはめげずに『あなたも折角だし、植え付け作業、どうです?』などと声を掛ける。看守には当然、嫌な顔をされたが。
「まあ、お前がいいなら、いいけどさ」
エルヴィスは少々不可解そうながらも、そう言って頷いた。『もしお前が長く居てくれたら、俺は飽きなくて助かるしなあ』とエルヴィスは笑って、レナードもそれに笑い返す。
看守は何とも言えない顔でいたが、特に口を出すことも無く、2人の囚人が庭仕事をするのを監視しているだけだった。
こうしてブラックストーン刑務所の冬は、寂しく積み重なっていく。
……だが、レナードが起こした2つ目の余波が、この事態をまた大きく変えることになった。
その日、レナードはぼんやりと、庭仕事をしていた。
冬の庭仕事は、然程多くない。だが、何もやることが無いという訳でもない。音楽を禁じられた今でも、庭いじりだけは『視察に来た者に見せるのに丁度いいから』という理由で推奨されていたので、レナードやエルヴィス、その他数名の囚人達は皆で庭に居ることが増えていたのだが……。
「レナード!レナード!来い!急げ!あっ、お前らも!全員来い!」
そこへ急に、エルヴィスが走ってやってくる。随分と急いで、それでいて、随分と嬉しそうに。
なんだろうなあ、とのんびり思ったレナードは、エルヴィスに手を引かれるままに立ち上がり、そして、連れていかれる。
「エルヴィス?一体どうしたんだい?あ、ちょっと待って。呼吸が……走ると、呼吸が……」
あまり体力の無いレナードは、途中からエルヴィスについて走ることができなくなって立ち止まるが、エルヴィスはそんなレナードを鼓舞するように、言うのだ。
「ピアノが来たぞ!」
「……えっ?」