天使の重さ*3
アイザックには父親が居なかった。気づいた時には母親と2人きりで生活していた。
母親は裏通りの酒場で働いていた。なので彼女は昼間は寝ていて、幼いアイザックは1人静かに、拾ってきた小石で遊んでいた。
アイザックの記憶に残る母親の姿は、大抵、玄関から出ていく後ろ姿だ。そして珍しくも一緒に並んで歩いた記憶が、公園でアイリスを眺めていた時のそれである。他に思い出そうとしても、碌な記憶が残っていない。
……そして、アイザックが12歳になった頃、母親は失踪した。
置手紙もなく、しかし、しっかり母親の荷物は家から消えていた。母親の職場を訪ねてみたが、誰もはっきりとした行き先を知らなかった。
恋人のところへ行ったんだろうな、と、アイザックは理解した。母親が働いていた酒場の女達も、アイザックを見て『可哀相に』という顔をしながら、恐らく母親の行き先が男のところであろうことだけは、ぼんやりと知っている様子だった。
丁度その頃、アイザックの母親は、『貰った』という指輪をよく眺めていた。小さいながらもルビーが嵌め込まれた指輪で、裏面には『Bへ』とだけ刻印があった。アイザックは『母さんはアニーなのに、どうして刻印はBなの?』と聞いたが、『ブラッドリーだから、だって』と母親は笑っていた。
……母親は愚かだったのだ。誰か別の人のために用意された指輪を貰って喜んで、その男のところへ行ってしまった。もしかしたら、自分が騙されていることくらい分かっていたのかもしれない。その上で行動していたとしても、やはり愚かだと、アイザックは思う。
母親の居場所が分からなくなったアイザックは、途方にくれながら路地裏でなんとか、生きていった。
路地裏にはろくでなしの子供達がいくらでもいて、アイザックに生き方を教えてくれた。時には彼らにも騙されたが、その内、アイザックはそれらにも慣れて上手くやっていけるようになった。
学校に通いながら、路地裏で生きていく日々。道の端で体を縮めて眠って、喧嘩して金を巻き上げて、食べ物を買って、気まぐれに自分より年下の子供に振舞ってやって……そうやって、アイザックはなんとか、路地裏での暮らしを身に付けていったのだ。
尤も、路地裏で上手くやっていけたからといって、表通りで上手く生きていけることにはならない。学校で、『あなた、これからどうするの』と聞かれてようやく魔導機関の工場への就職を決めたが、結局はそれも上手くいかなかった。
寮があったから寝床には困らなくなったし、給料があったから食べ物にも困らなかった。だが、特に楽しくもなく鬱屈とした日々は、確実にアイザックをすり減らしていった。
それでも工場に留まり続けたのは、真っ当な暮らしに憧れがあったからなのかもしれない。転職を考えられるほどの余裕は無かったし、辞めてしまえばもう二度と、『こちら側』へ戻ってこられないような気がした。喧嘩に明け暮れて、寮の門限を過ぎて締め出されて、路地裏で丸くなって眠ることがあっても。それでもまだ、完全に足を踏み外したわけじゃない、と自分に言い聞かせていた。まだ、『まとも』の端っこにしがみ付けていると、思いたかった。
……そうしてアイザックはずるずると働き続けて、18歳になった。……そして、その頃、工場長が自慢げに話しているのを聞いたのだ。
『5年以上前の話だ。ビビアンって女に振られたから、彼女のために買っておいたルビーの指輪が無駄になった。しょうがないからBのイニシャルの女を探したが丁度いいのが居なかったから、適当に言いくるめてアニーって女に渡したんだよ』と。
工場の人間達が笑っていた。『どうやってアニーにBの指輪を渡したんだよ』と。
すると工場長は、『苗字がブラッドリーだったから、もうじき君の苗字はブラッドリーじゃなくなる。Bの刻印の指輪を渡せるのは今だけだから……なんて言って渡したら、喜んで受け取ったよ。俺と結婚できると思っていたらしい!馬鹿な女だった!』とまた笑った。
……そして、工場長は、言ったのだ。
『アニーはその後、俺のところに押し掛けてきやがって、あなたとの子供も居るの、なんて言ってやがった。だからすぐに叩き出したよ。キチガイ女の戯言だって、シャーロットに言ってね。でもシャーロットを宥めるためにまた指輪を買う羽目になったから、今度は刻印はナシにしたよ!イニシャルがSのガールフレンドは居ないからね!』と。
気づいたら、アイザックは荷解き用のナイフを手に、工場長へ切りかかっていた。
殺してやろうと思った。殺してやらなければ、とも。
もう、まともであることなんてどうでもよかった。……分かっていたのだ。自分はもうとっくにまともじゃない、と。だから、ただ、衝動的に怒りと憎しみが沸いた相手を、殺してやろうとした。
だが、殺してやろうと思ったのに殺せなかった。周りの人間達がすぐアイザックを取り押さえにかかって、結局、アイザックは自分の父親であるらしい工場長に対して、一撃、切り付けてやっただけで終わってしまった。
アイザックはその時、自分が何を叫んだかよく覚えていない。
ただ、殺してやる、とだけ言っていたような気もするし、今までの恨みつらみを何か零していたかもしれない。
……アイザックは、別に、母親が好きだったわけではない。嫌いにはなれなかったが、あの母親もまともじゃなかったことくらいは分かる。
だから工場長には完全に同意する。あいつは馬鹿な女だった。適当に押し付けられた指輪に喜んで、結婚できると思ってその男のところへ行って……自分の子供を置き去りにしたまま、帰ってこなかったのだから。
……だから、アイザックは母親のために怒り狂ったわけではなかった。ただ単に、自分の父親がこんなクズで、今の自分の境遇も今までの日々も全てこいつのせいだと思ったら、何もかもが許せなくなった。
そんなようなことを、結局、言ったのだったか、言わなかったのだったか。
気づいたらもう、警察が駆けつけていたし、そうしている間に勾留されていたし、裁判は実に簡単に終わって、アイザックは刑務所入りすることになっていた。
そしてその頃にはもう、アイザックはあらゆることを諦めていた。
まともであることも、なにもかも、もう、諦めたのだ。
……アイザックの話は、決して上手くなかっただろう。だが、エルヴィスも、周りの囚人達も、懸命に聞いてくれた。
誰かがこういう風に話を聞いてくれるという奇妙な経験に、アイザックは戸惑いながらも、結局、全て話してしまった。話せば話すほど惨めになっていくような気がしたが、同時に、何か荷が下りたような気もする。或いは、また一段、自分が段差を落ちたような、そんな諦めにも似た心地だ。
同情されたくは、ない。どちらかと言えば、嘲笑してもらえたらいいな、と思って、アイザックは息を吐く。
だが。
「それは、私でも刺すなあ」
囚人の1人が、何かに納得しながらそう共感してきたのは、予想外だった。
「それだったら僕も刺すかもなあ。いや、僕はアイザックみたいに強くないからね、多分、後で夜道を狙うと思うけれど」
「それ余計に罪が重くなる奴じゃねえか」
「まあ、うん。そうだねえ。あっ、なら、事故に見せかけるとか、どうかな……」
のほほん、とした返事だが、内容が全くのほほんとしていない。殺伐としている。アイザックは『そういえばここは刑務所で、こいつらは全員犯罪者だった』とようやく思い出した。
「まあ、刺しちゃったものは仕方がない。次、気を付けよう。うん」
終いには実に軽やかに、そんなことを言われてしまう始末である。同情されて憐みの目を向けられるより数百倍マシだが、同時に数千倍はまともじゃない。
「いやそれじゃダメだろ……」
「えっ、アイザック、君、やっぱり真面目だなあ……」
ついついアイザックがまともらしいことを言ってしまえば、感心されてしまう始末である。まともじゃない。どう考えても、まともじゃない。
「大体……その、俺は、反省もしていなけりゃ、後悔もしてないんだ。あいつを切り付けたことに罪悪感なんて欠片もねえ。殺せなかったことを悔やんではいるけど、それだけだぞ。どう考えてもまともじゃねえ」
「うーん、君がまともじゃなくても、いいんじゃないか?まともな行動ができるなら、まともな考えをしていなくても問題ないと思うよ?」
「それに、君がうじうじしていても誰も得しないしなあ……うーん、難しい話だね、アイザック。君はうじうじしていたいかもしれないが、君がうじうじしても誰も嬉しくないし、嬉しくなる奴が居るとしたらそいつは君の敵だから君が気にしてやる義理は無いし……」
「ま、アイザックがまともな奴でよかったぜ。誰彼構わず切り付けたって訳じゃなかったんだな、やっぱり」
……アイザックは、休憩時間終了の鐘を聞きながら、思った。
とりあえず、考えるのを止めることはできたな、と。
何せ、それどころではない。この囚人達が、まともでなさすぎて……。
あまりにも予想外な受け止められ方をしたアイザックの話だったが、囚人達は特に気にした様子もなく、アイザックに接してくる。
翌日の休憩時間も、アイザックは囚人達に囲まれ、一緒に花壇の世話をしていた。冬の間に草木が凍えてしまわないように、麦藁で布団をかけてやるのだ。
「よしよし。あったかくして過ごせよ」
藁を被せてやった植物に話しかけるエルヴィスをちらりと見て、アイザックは少しばかり、悩む。
どうも、自分は最近、悩んでばかりいるような気がする。エリカのことに始まり、今や、自分のこれまでと出所後について悩んでいる訳だが……こんなに悩まずともいいのではないか、という気がしてきた。
どうせ何も変わらず、犯罪者らしく、底辺を這いずり回って過ごせばいいだけの、ただそれだけの話であるはずなのに、どうしてアイザックはこんなにも悩んでいるのか。
それに加えて、あの囚人達のあっさりのほほん、とした様子を見ていると、どうにも、悩んでいるのが馬鹿らしくなってくる。もっと開き直って明るく過ごしていいんじゃないだろうか、と考えてしまいそうになる。
そんなこと許されないだろう、とも、そんなこと上手く行きっこない、とも思うのに、どこか、希望してしまう自分が居る。
身勝手だ。最低だ。身の程知らずだ。そう、自分のことを思うのに、『そう思ったってしょうがねえだろ』と開き直りたい自分も、居る気がするのだ。
……悪いことをした奴が変わろうとするのは、あまりにも身勝手ではないだろうか。
悪人が悪事を働かなくなったからといって、過去にしてきたことは何も変わらないというのに。
……そうしてアイザックの考えがまとまらない間に、遂に、次の奉仕作業の日がやってきた。
その頃にはもう、ブラックストーン刑務所は、すっかり雪に覆われて真白くなっていた。馬車が雪の上に轍を刻んでいくのを、馬車の中からごく小さな窓を通して、アイザックはぼんやりと眺める。
「ほら、アイザック。元気出せよ。またエリカに会えるぞ」
そこへ、エルヴィスがのんびりとした調子でやってくる。エルヴィスはあの話をしてからも変わらずあっさりとした態度で、こういう冗談だか本気だか分からないことを言ってくる。
「俺なんか会わない方がいいだろ」
「そう言うなって。エリカからしてみれば、お前は模範囚で、暴漢から身を挺して守ってくれた立派な奴だぞ。『俺なんか』なんて言ってエリカの夢を壊しちゃだめだ」
……エルヴィスにそう言われて、『確かにそうか』と思ってしまう。上手く言いくるめられている気もするが、確かにその通りではある。
エリカに、わざわざ小汚い悪人なんて見せたくはない。アイザックは決して立派な人間ではなく、今後も立派になどなれない人間だろうが、エリカには少し、勘違いしていてほしかった。他の囚人達が『素敵なおじ様』と勘違いされているように、アイザックも。
「ま、そういう訳だ。お前、エリカに変な態度取るなよ。仲良くしてやれ。彼女はそう望んでるみたいだから」
「……んなわけあるかよ」
「そうでなきゃ、わざわざお前宛てに手紙なんか書かないだろ」
エルヴィスはにやりと笑って、アイザックの背を叩く。
「ま、結ばれる結ばれないとか、出所後にどうするとか、そういうの全部抜きにして、とりあえず今日のことだけ考えろよ。エリカに悲しい顔、させたくないだろ?」
「……ん」
言いくるめられている、と思うのだが、上手い反論も思いつかないし、エリカに悲しい顔はさせたくない。アイザックは素直に頷いて、ほんのりと浮足立ってきてしまう自分を抑えるべく、目を閉じてじっとしていることにした。
「いらっしゃい!ああ、また会えて嬉しいわ!」
……そして。
「アイザックも!来てくれてありがとう!……ふふ、あの時は本当にありがとう。あの時、きちんとお礼を言えなかったから、あなたにまた会いたかったの!」
エリカがふわふわと笑いながら駆け寄ってくるものだから……アイザックは浮足立つ自分を抑えるのに、大変苦労することになった。
こんなの、どうやって落ち着いていればいいんだ。
それからアイザック達は、樹木の手入れを行った。
刑務所で行っていたように藁で布団を掛けてやったり、雪の重みで樹木の枝が折れないように支えを施してやったりするのだ。
ブラックストーン刑務所があるあたりより幾分暖かいこの辺りでは、まだ、然程雪が積もっていない。雪掻きも手伝ったが、大して積もっていない雪を退けるだけなので、然程大変ではなかった。
そんな作業を一通り終えたところで、休憩時間になる。寒い屋外で作業していた囚人達を気遣ってか、昼食には温かなポトフが供された。根菜や鶏肉をじっくりと煮込んで作られたそれは非常に美味かったし、エリカが『それ、私が作ったのよ。お口に合うかしら』と言っているのを聞いたらますます美味くなった。
……それから、エリカは囚人達にパンを配って、最後にアイザックのところへやってくるとパンの籠をテーブルに置いて、アイザック相手に、楽し気に話す。
アイザックが作った小型魔導機関を常に身に付けていること。学校で付きまとってきていた男が1人、魔導機関を発動させて大層びっくりしてくれたこと。それ以来、学校で気を張らずとも過ごせるようになって非常に快適だということ。
……それらを聞きながら、アイザックはどうにも、穏やかな気分になっていた。
エリカはアイザックのことを、まともな人間だと勘違いしているらしい。それでそのように接してくれるものだから、アイザックもなんだか穏やかな気分になって、エリカの話を聞いてしまう。
また、アイザック自身も、よく話してしまったのだ。性にもなく。
アイザックがブラックストーンの雪の話をすれば、『ちょっと離れるだけで、そんなに雪が積もるのねえ』と目を円くして驚いたし、こっちの雪のように湿っぽくふわふわしていない、サラサラと細かく握っても崩れるような雪の話をすれば、目を輝かせて興味深げにしていた。
魔導機関の話も、エリカは面白がって聞いてくれた。アイザックが『次は1級資格を目指そうと思う』と話すと、それはそれは喜んで応援してくれた。
……エリカは魅力的だった。
美しく、可愛らしく……アイザックを見ても怯えもせず、嫌悪もしない。アイザックの話を楽し気に聞いてくれる。そして、『弁護士になってエルフ達の助けになりたい』と夢を持った彼女の姿は、非常に眩しく見えた。
ころころ変わる表情を見ているのは楽しかった。明るい笑い声を聞いていると自分まで嬉しくなってきた。
……そんなエリカとしばらく話して、アイザックはようやく、認めることにした。
自分とは到底釣り合わない相手を、好きになってしまったと。