天使の重さ*2
「何してるんだアイザック!」
「いや、何もしてないな!何もしてないなアイザック!」
「よし!アイザックは何もしていない!」
どどどどど、と音を立ててやってきた囚人達が、次々に医務室へやってきては、アイザックを取り囲む。
そして彼らは状況をなんとなく察したらしく……なんと。
「抱きしめてやる!」
「くっついてやる!」
「撫でてやる!」
何故か、皆でアイザックへぎゅうぎゅうとくっついてくるので大変に気色が悪い。アイザックが殴ってやろうと思っていた例の囚人も、ぽかん、としている始末である。それはそうだろう。アイザックが彼の立場ならそうする。ぽかんとする。間違いなく。
「何すんだやめろ馬鹿!おい!やめろ!やめろっつってんだろうが!おい!放せ!離れろ!おい!聞いてんのか!」
「聞こえない!」
「聞きたくない!」
「そして離さない!このままどさくさに紛れて有耶無耶にするまで、我々はお前を離さないぞアイザック!」
察しのいい囚人達に舌打ちしてやるも、彼らはまるで気にした様子が無い。ただ、アイザックが懲罰房に入れられるようなことが無いように、と、必死にぎゅうぎゅうやってくるのである。
「……なんか、賑やかになったなあ」
エルヴィスは、ぽり、と頬を掻きつつそう言って笑った。ちら、と例の囚人を一瞥してから、気を取り直したようにアイザックへ笑いかける。
「ま、帰ろうぜ、アイザック。寝て、気分はよくなったんだろ?な?」
もう、アイザックは逃げられない。このエルフの手から零れ落ちてやることはできないだろう。
「……今、悪くなった」
彼らを見て、自分の心が穏やかに落ち着いてしまった。それに気づいたアイザックはそれを苦々しく思いながら、せめてもの抵抗として舌打ちして、ため息を吐いて見せるのだった。
アイザックはそのまま、庭へ連れていかれた。囚人に取り囲まれているアイザックを見た他の囚人達は、一体何事かとこちらを見てくる。囚人達に囲まれているのだからそれらが見えなければいいのに、生憎、アイザックは皆より頭一つ分は背が高い。よって、自分が注目を集めている様子もしっかり見えてしまうのだ。
結局、アイザックは庭に着くまでにしっかりあちこちの注目を集めた。すっかり落ち着いたアイザックは、最早怒る気力もなく、ただ疲れて、少々落ち込みさえし始めた。今更自分の評判などどうでもいいが、『他の囚人達に囲まれながら移動している』というのは、流石に少々、沽券に関わる気がする。
「ま、元気がない時は甘いものが一番だからな。お茶も甘いのがいい」
エルヴィスは用意しておいたらしい蜂蜜入りの茶を出してくれた。アイザックはそれを受け取って、黙って飲む。
「……で、何があったんだ」
が、黙ってばかりも居られないらしい。エルヴィスの森色の目が、じっとアイザックを見つめている。只々穏やかに。責めるようでも、諭すようでもなく。正しさなんて求めずに、天気の話でもするかのように。
「……別に、何も」
話しやすい相手ではある。エルヴィスはきっと、アイザックを馬鹿にしない。だが、話したくないことを話せるまでには、アイザックはまだ、他人に慣れていない。だからアイザックはエルヴィスを前にして、口を噤んだ。
「何もなくて誰かを殴ろうとするような奴じゃないだろ、お前は」
それでもエルヴィスはアイザックの隣に座ったまま、尚も聞いてくる。
……このまま黙っていたい。何も話したくない。何かを口に出した途端、自分の中で何かが壊れてしまいそうな気がした。
だがそれと同時に、きっとアイザックを馬鹿にせずに聞いてくれるであろうエルヴィスに、何かを、話してみたい気もした。
何かが壊れることを恐れると同時に、何もかもをぶち壊してしまいたいような、そんな気分なのだ。要は、やけっぱちで、不安で、どうしようもない気分だった。
「……あいつは何も悪くない。俺がただ、どうしようもない野郎だっていうだけで」
もうどうにでもなれ、という気分で、アイザックはそう、話し始めた。
「ただ、殴りたくなったから殴ろうと思ったんだ。それだけだ。元々俺はそういう奴で、今もそうだ。何も変わってない」
アイザックは、エルヴィスの方を見ないまま、ただ茶のカップに視線を落として、話す。
「人を殴ったり蹴ったりして生きてきた。今更変えられる訳がねえ。あいつの言う通りだ。俺は何も変わっちゃいない」
「……あいつ、お前が変わってないって言ったのか」
少しばかり固い声を発したエルヴィスに、分かりやすく肯定するのも躊躇われた。ごく小さく頷いて、アイザックはそれを掻き消すように笑う。
「それに、これから変えたとしても、今までのことが変わるわけじゃねえし」
アイザックが思うのは、これまでのことで……これからのことでもある。
「ここを出たって、俺がやってきたことは全部残ってる。何も変わらない」
過去に犯した罪が消えることは無い。アイザックが暴力を振るってきた事実は変わらない。
だからアイザックはこれから先、生涯『犯罪者』であり、犯罪者である以上、ずっと暴力的に生きていくことになるのだろう。
「俺は悪人だったし、これからも悪人だ。悪人でいる。今更、何が変わるってんだ」
……何も変わらない。
そう。何も変わらない。アイザックは何も、変わらない。ただのろくでなしのままだ。
……実のところ最近、何か少し、自分が変わったような気がしていた。物事をこんなにも楽しめるのは初めてだったし、1つのこと、それも勉強なんかに打ち込んだのも、初めてだった。物を作るのは楽しかったし、こんなに多くの人に好意的に接してもらえるのも初めてだった。
だから、変わったような気がしていたのだ。少し、まともになれたような……これから先、まともになれるような、気がしていたのだ。
それこそ、エリカ・トレヴァーの隣に並んで立てるかもしれない、なんて……そんな気すら、していた。
だが、さっき、罵られて現実を思い出した。
アイザックがしてきたことは変わらない。過去のアイザックの行いが、これから先、ずっと、アイザックの枷になる。全て自分のせいで、自分が悪くて、もう救いようがない。どうしようもない。
「……何も変わらないっていうなら、じゃあ、何のためにムショがあるんだよ」
「クズを少しの間だけでも、社会から取り除いておくためだろ」
他でもない自分自身を嘲笑って、アイザックはようやく、エルヴィスを見る。
「俺が誰か忘れたのか?俺は模範囚なんかじゃない。ろくでなしのアイザック・ブラッドリーだ。みじめに工場の下働きをして、使えねえ使えねえってボヤかれて、それで……まともに働くことすらできずに人を切りつけて投獄された、犯罪者だ!」
エルヴィスに分からせてやらなければならない。妙にアイザックを大切にしてくれる、この親切なエルフに、諦めさせなければ。そんな思いでエルヴィスを見れば、エルヴィスはどこか、悲しみのようなものを表情に浮かべていた。
「……それが俺だ。もう、分かっただろ」
どうか、悲しむことなんてしないでほしかった。ただ、諦めて放っておいてほしかった。罵ってくれても嘲ってくれても構わないが、悲しまれたらどうしていいのか分からなくなる。
これだから、アイザックはこのエルフが苦手なのだ。
「まあまあ、アイザック。すぐそうやって悲観的になるものじゃあないよ。別にいいじゃないか、悪人だって」
アイザックがエルヴィスからまた目を逸らしたところで、別の方向から囚人が1人、やってきた。
「見ろ!我々は悪人だが、楽しくやっているぞ!悪いか?」
……そして何とも返答に困ることを言ってくる。『たのしい!』と笑う囚人達を見ていると、どうも、気が抜けてしまう。
「あ、あんた達は違うだろ。悪いことしようとして悪いことしたわけじゃなくて……その、事故みたいなもんだったんだろうが」
「とは言ってもなあー。世間からしてみたら、俺達だって犯罪者だし、何考えてるか分からない分、アイザックより評判は悪いと思うぞ……」
「むしろ世間からしてみれば、私達の方が余程凶悪犯罪者だろうね。君は傷害罪だが、私達は業務上の過失だ。こっちの方が罪も重い」
『先生』達が揃ってしゅんとしてしまうと、アイザックとしては、困る。
ただこのまま冷たい泥濘に沈んでいきたい気分だったのに、一緒に泥濘に入られては困るのだ。
「でもあんた達はいい奴らだから」
……彼らには、こちら側に来ないでほしかった。世間から見てみればアイザックも『先生』達も皆同じく犯罪者だ。刑務所に服役中の、紛うことなき犯罪者達だ。だが、それでも彼らは自分とは別物で、真っ当な人生を歩めると思いたいのだ。有体な言い方をしてしまえば、彼らには幸せでいてほしかった。
……そう思ってしまってから、アイザックは後悔する。
こんな気分、知らないままで居たかった。常に自分と誰かに苛立っている悪人でいられたらよかったのだ。なのに、誰かの幸せを願ったり、誰かが悲しむのを悲しんだりしてしまっている。
こんな風になったところで、誰かが得をするでもなく、アイザックがただ苦しむだけで……そして、何も物事は良くならないというのに。
「ああ、くそ……」
何も考えたくなくなって、アイザックは首の後ろを掻く。爪を立てて、痛みが少しでも意識を逸らしてくれることを期待して。だが、それもあまり意味が無い。どうしようもなく、どうでもよく、そして性に合わない考えがぐるぐると頭の中を回り始める。
「そもそもお前、どうしてここに来たんだ?」
そんな折、エルヴィスが横からそう声を掛けてきたのは、救いのようなものだったかもしれない。
「人を切りつけて傷害罪、ってところまでしか知らないが、誰を切ったんだ?何か、あったんだろ?」
自分が過去にしたことへ記憶をやれば、少しは落ち着いてくる。
「……話すようなことでも、ねえけど」
もうどうにでもなれ、という気分で、アイザックは精々悪ぶって、ぶちまけてしまうことにした。最早、話してしまうことの是非を考えられない程に疲れ切っていたのだ。
「工場長が……あー、俺が働いてた工場の。そいつが……」
下手な話し方だな、と自分を嘲って、空を仰いで、アイザックは話す。
「そいつが、俺の親父だったって分かったから。だから、殺してやりたくなって、切り付けた」