仲間入り*5
ふと気づいた時、アイザックは消毒液の香りのする白っぽい部屋に寝かされていた。
大方、医務室だろうと見当がつく。喧嘩沙汰の多かったアイザックは、医務室の世話になる回数もそれなりに多かった。こうした状況にも慣れている。尤も、その上できちんと真っ当な処置が成されていることは稀だったが。
だが、体を起こそうとしてそれに苦労したのは、初めてのことだった。動かそうとした頭が鈍く痛んで、アイザックは思わず呻き声を上げる。
そしてその瞬間、しゃっ、と、ベッドを囲むカーテンが開けられた。
「アイザック……目が覚めたんだな」
案の定と言うべきか、そこに居たのはエルヴィスだった。そう思ってから、アイザックはそれが『案の定』だったこと……つまり、アイザック自身、エルヴィスが居ることをぼんやりと予想していたということに、驚く。
「よかった、本当に、よかった……」
エルヴィスは珍しく疲労の見える顔で、アイザックの脇腹のあたり、ベッドの上へへなへなと突っ伏してしまう。随分と憔悴している様子だ。
「何も覚えてねえ。ここはどこだ?」
「町の病院だ」
アイザックが寝たまま尋ねると、エルヴィスはそう、答えた。それを聞いてアイザックは少々、驚く。
「は?ムショじゃねえのかよ」
てっきり、刑務所の医務室だとばかり、思っていた。囚人が他の医療機関に運ばれるはずはないだろう、と。だが、アイザックが驚いていると、エルヴィスは顔を上げて、『当然だろ』とばかりに頷く。
「……お前、ゴネたんだろ」
そんなエルヴィスを見て、どうせそうだろうなあ、と思いながら言ってみれば、エルヴィスは渋い顔で頷いた。
「頭から血を流してるお前をムショまで連れて帰って、雑な処置しかできねえ医務室に入れるなんて、絶対に許したくなかった」
成程。どうやら自分はこのエルフにまた世話になっていたらしい。上手くいかないものだ、とアイザックは自嘲気味に笑う。
「……なあ、アイザック」
エルヴィスは沈んだ表情で、視線をベッドの上に落としたまま聞いてきた。
「なんで、あんなことした?」
「何の話だよ」
「なんで俺を庇ったんだ、アイザック」
何故、と言われてしまうと、どうにも、アイザック自身、よく分からない。ただ、もやもやとしたものが胸の内にあって、その靄が晴れてしまうのが少々怖くも感じられた。
あまり話したくなくてはぐらかそうとしたが、エルヴィスはどうしてもこの話をするつもりでいるらしい。アイザックはため息を吐く。面倒だ。非常に。
「なあ、アイザック……俺はもう、長く生きた。300年以上生きてる。でもお前はまだ、18年ぽっちしか生きてないんだぞ」
「だがあんたの方がこれから長く生きる。俺はせいぜい50年かそこらでくたばってるだろうが、あんたはまだ何百年も生きるんだろ」
言い返してやれば、エルヴィスは黙った。それが少々いい気味で、アイザックはまた笑った。
「理由なんて単純だ。俺なんかよりあんたの方が価値がある。それで十分だろ」
笑って、そう零した。
「……そんなことは、ない」
エルヴィスが掠れた声でそう言うのを聞きながら、アイザックは妙な気分でいた。
妙に、すっきりした気分だ。珍しくも、荒れていない気分で、すっかり凪いでいて……暴力的ではない分、自棄的でもある。素直、とも言うのかもしれないが。
「あんたは色々できるが、俺は何もできない。あんたはそうじゃないが、俺なんか、生きててもしょうがない」
思い出すのは、学校へ行かず、工場に勤めることを消極的に決めてからの、自分の人生だ。
何もかも上手くいかなかったし、何をやったってつまらなかった。誰からも必要とされなかったから、アイザックも誰も必要としたくなかった。
だからか、いつの間にかアイザックの周りは暴力で満ちるようになっていった。
そうして社会の鼻つまみ者になったアイザックには、非難ばかりが向けられた。そして、社会の中に溶け込めないアイザックは、社会の恩恵なんて受けられないまま、しかしそれでも、社会の規則を守るようにと言われ続けた。
それらを守ったところでアイザックの暮らしはよくならず、どうせ何も良いことなんて無い。それでも、人を殴ったり花を踏み折ったりすれば、責められる。
何も与えられず、奪われてばかりで、それなのに守ることは強要される。失敗したら責められる。その最たるところが刑務所入りだ。
……と、そこまで考えて、アイザックはふと、思い直す。
与えられないのではなく、アイザックが得られないだけだ。奪われたのではなく、アイザックが手放しただけのことだ。
ただ、それだけのことだ。誰のせいでもなく、自分自身のせいなのだ、と。
「うんざりなんだ。何もかも」
アイザックは自分自身にすっかり失望している。それだけのことだ。
それからエルヴィスは、アイザックの脚の上に突っ伏してしまった。そのままかれこれ、5分以上が経つ。
「おい、そろそろ退けよ。重てえ」
「俺は今、どうやったらお前がうんざりせずに生きててくれるか考えてるんだ……」
そしてアイザックは今、噛み合わない会話を味わっている。ついでに、すっかりショックを受けて打ちひしがれているエルフ相手に、痛む体と凪いだ心で暴力を振るってやる気にもなれず、ただこうして、そろそろ痺れてきた脚の感覚に苛立ちつつも、じっとしている。
「んなこと考えなくていい。つーか、考えるにしても他所でやれ」
「なんか、お前、離したらどっか行きそうで……」
行かねえよ、と言いかけて、やめた。どちらかと言えば、どこかに行きたいところなのは確かなので。
「人間は死のうとしなくたってすぐ死んじまうのに、どうして死のうとするんだ……」
エルヴィスの言葉を聞いて、ああ、そういえばこいつは1000年生きるエルフなんだったな、とアイザックは思い出す。そして同時に、1000年を生きるということは、多くの者に先立たれるということなのだな、とも気づく。
「あー……その、悪かった。悪かったからそろそろ退け」
「嫌だ。退かない……」
「おい、ガキ臭えぞ、300歳」
「311歳だ……」
「なら余計に駄目だろ」
いいかげんにしろ、という思いでエルヴィスの肩を叩くと、エルヴィスはようやく、のろのろと顔を上げた。とんだ311歳である。
「……俺は俺に腹が立ってる。お前に庇われて、お前に怪我させて、それで生きながらえるなんて、絶対に許したくねえ」
それからエルヴィスはそう、少々不機嫌そうに言った。温厚でのんびりとしていつも上機嫌に見えるエルフが、己の内側の苛立ちをこうして表出させているということに、アイザックは少々驚く。そして同時に……初めて、このエルフに対して、親近感を覚えた。
そう。親近感だ。自分なんかより遥か高みに居る存在が、苛ついて、不機嫌になっているのだ。それがアイザックには、妙に近しく感じられる。
「俺はな、18年ぽっちしか生きていない人間が、どうにも、あんまりにも、やけっぱちだから……気になってたんだ」
妙な気分でいるアイザックに、エルヴィスはぽつぽつと話し始めた。
「花を踏もうとしてた割に、悪意が無いみたいだった。お前、あの時アイリスを踏もうとしたのは、自分で自分を傷つけたかったんだろ」
「……何、意味の分からねえこと言ってやがる」
花を踏もうとしたことに、理由なんて無い。アイザックはただ、苛ついて、あまりにも自分が惨めに思えて、それで、何かを壊したかっただけだ。それだけだったはずなのに、エルヴィスの言葉に、妙に動揺している。
「お節介でもなんでも、18年しか生きてない奴が人生に失望してるようなの、ほっとけなかった」
「ほっとけよ、そんなの」
「ほっときたくないんだ。でなきゃ、人間と関わったりするもんか、最初から」
エルヴィスの語調は、少々荒い。それは、エルヴィスの、エルヴィスに対する失望が、苛立ちや怒りとなって表出しているから、ということなのだろう。
落ち着いているはずのエルフがこうなるのだから、全く、不思議なものである。
……そこまで思って、アイザックは、ふと気づく。
もしかして、アイザックの苛立ちも、アイザック自身へと向けられたものだったのではないか、と。
気づいてしまったら、不意に、足元の地面が消えたような、そんな心地がした。短気で暴力的なろくでなしが、惨めな寂しい子供になってしまうような、そんな気がした。急にぞっとするような不安が襲い掛かってきて、アイザックは大いに動揺する。
……だから、それらには、蓋をすることにした。
自分を失いそうな不安にも、惨めさにも、蓋をする。自分への失望も、今は見ないふりをする。そうでもなければ、これからどんな顔をして生きていけばいいのか、分からなかった。
今更、思いやられて、大切にされて、そうして生きていくことを望む勇気など、無い。
「なら、煙草。寄越せよ」
だからアイザックは、そう言う。
「あと、酒。それでいいだろ」
自分の気持ちに折り合いをつけるべく、少々乱暴にそう言えば、エルヴィスはきょとん、として……それから、ぱっと表情を明るくして笑った。
萎れた植物が水と日の光を与えられた時のような変化である。エルフってのは全員こうなんだろうか、とアイザックは呆れながら思った。
「ああ……分かった!煙草な、いっとう丁寧に発酵させた葉っぱがあるんだ。あれを巻いたらお前にやるよ。それから、酒もとびきりのを密造してやる!……いや、その前にお前の痛み止めか?アイザック。お前、どこか痛むところは?」
「全部」
「成程なあ。じゃあ、お前をエルフ特製の薬でべったべたにして、ぐるぐるに包帯で巻いてやろう」
「やめろ」
エルヴィスの話を聞いていると、どうにも余計に頭痛が増してくるような気がしたが、悪い気分では、ない。
「で、お前の怪我が良くなったら、また色んなもの作って、楽しくやろうぜ」
このように凪いだ気分でいると、ああ、自分は荒れていたかったわけではなかったんだな、と思う。
……まだ、自分が蓋をしたものに向き合う気にはなれない。
だが、自分が蓋をしたそれらを、目の前のエルフが、救ってくれるような気がした。
否……もしかすると、既に少しずつ、救われているのかもしれない。
ガラにも無く、そんなことを漠然と思った。
それから、5日後。
アイザックはエルヴィスと共に、ブラックストーン刑務所へ戻った。
……この間、エルヴィスは囚人でありながら怪我もなく病院に入り浸っていたことになるわけだが、エルヴィスは『奉仕作業中って扱いで5日だけ逗留させてもらったんだ。その分、見返りを要求されたけどな』と笑っていた。
どうやらエルヴィスは、看守相手に何か取引をしたらしい。アイザックは『俺なんかのために随分とご苦労なことだな』と思いつつ、この奇妙なエルフの、妙に器用なところを面白く思う。
刑務所に戻るとすぐ、アイザックは作業に従事させられることになった。ひとまず傷が塞がったとはいえ、まだ完治はしていないのだが、看守達はアイザックに容赦する気が無いらしい。
内心で悪態をつきながら、アイザックは今日もちまちまと、何かのバネを箱詰めする作業を進め……そして、休憩時間を迎えた時、それは起こった。
「よお、アイザック・ブラッドリー」
見知らぬ囚人達に、声を掛けられたのである。アイザックが工場の外でつるんでいたような、要は『あまり社会的ではない』連中に見えた。
「何の用だ」
今喧嘩になったら面倒だな、とアイザックは思う。まだ傷は完治していない。傷が開いたらまた、頭から血を流す羽目になるし、痛みや疼きを味わう羽目になる。それに相手は複数だ。アイザックには武器も無い。不利は免れないし、最悪の場合、袋叩きにされて酷い目に遭うことも覚悟しなければならない。
……だが、アイザックのそうした警戒を他所に、囚人達は親し気にアイザックの肩を叩き、にやり、と笑うのだ。
「お前、やるじゃねえか。あのエルヴィスを助けたんだって?」
「俺達もあいつは大切にしてるんだ。あいつがいないと煙草が手に入らねえからな」
「そういう訳で、礼を言うぜ、アイザック」
アイザックがぽかんとしている間に、囚人達は『快気祝いだ』と言って、一本ずつ、紙巻き煙草を置いて去っていった。
残されたアイザックは、自分と同じく残された煙草の小さな山を見て、ぽかん、とするしかない。
「あー……アイザック?君、僕らのこと、覚えてるかな。奉仕作業で一緒だったんだけれど」
更に続いて、大人しそうな囚人達がやってきて、にこにこと笑いかけてくるのだ。
「これ、僕らから退院祝いだ。傷が痛むようだったら、作業を肩代わりするから。いつでも言ってね」
彼らもアイザックの前に小さな包みを置いていく。これにもアイザックはまた、ぽかんとするしかない。
「どうも、君を見ているとね。僕自身の若い頃の……まあ、暴れ回ってた頃を思い出すものだから。なんだか、放っておけなくてね」
「どうか、あまり自棄にならないでくれ。案外、君の周りには君に好意を持っていて、君を助けてくれる人が居るもんだ。……私も、そうだったよ」
彼らはアイザックの肩を叩き、手を握り、そして、にこにこと去っていく。……アイザックはすっかり思考というものが止まってしまっていて、只々、ぼんやりと彼らを見送った。
「アイザックー……ん?お前、人気者だなあ」
「うるせえ」
その後からやってきたエルヴィスはアイザックの悪態にも動じず、紙包みを開いて『ああ、菫の花の砂糖漬けだな!』と笑った。
「ま、他の連中もお前のこと、気にしてたんだろ。……こういうことなら、俺もお前に礼をしなきゃあなあ」
そんなもんいらねえ、と言いたかったが、エルヴィスは煙草や紙包みを素早くアイザックのポケットに詰め込むと、アイザックを引っ張っていくのである。
「アイザック、来てくれ。これからポーションを作るぞ!お前の傷、さっさと完治させないとな!」
ポーション、というものがどういうものかは朧げにしか知らなかったが、アイザックは諦めて、エルヴィスに連れていかれることにする。
……まあ、悪い気分ではなかった。