仲間入り*1
18歳のアイザック・ブラッドリーは王国歴271年の初夏、ブラックストーン刑務所に入所した。
ブラックストーン刑務所へ足を踏み入れて、最初にアイザックが抱いた感想は、『シケた場所だな』と、それだけだった。
特に、絶望はしなかった。何故ならアイザックは、初めから希望など抱いていないからだ。
どうせどこへ行ったって同じだ。何もかも上手くいかないに決まっているし、何をやったってつまらないに決まっている。
アイザックの罪状は、傷害罪だ。口論の末、雇用主をナイフで切り付けた。それで懲役5年を言い渡されている。
反省は無い。『更生』してやる気だって、サラサラ無い。
あんなクソ野郎は切り付けられて当然だとアイザックは思っているし、なんなら、切り付けたことではなく、殺さなかったことを後悔している程だ。
だが、世間はそうは思わない。
アイザックの雇用主は『雇ってやった従業員に切り付けられた哀れな被害者』として見られていたし、アイザックは『学の無い人間はすぐ暴力に走る』と評された。
評判の通り、アイザックには学歴が碌に無い。学校へ行く金は無かったから、魔導機関の部品を作る工場で、13歳から5年間、働いてきた。
運べと言われた場所へ鋼材を運び、磨けと言われた部品を磨き、工場の中の掃除をして、出来上がった製品を運ぶ。そんなような仕事だ。何も面白くない、単調でつまらない仕事だった。
しかし、学歴も無ければ、他に取り立てて能力があるでもないアイザックが就職できる数少ない職場だったから、辞める訳にもいかず、ずるずるとずっと、働き続けていた。決して、真面目とはいえない勤労態度で、ただ、ずるずると。
……そんな生活が、刑務所暮らしになるだけだ。アイザックは楽観も悲観もしなかった。
ただ、今までと同じだろう、と思っただけだった。
何もかも上手くいかないに決まっているし、何をやったってつまらないに決まっている。
アイザックと同時に収監されることになった囚人達は大いに嘆き、或いは怯え、震えている者も居た。その中で最も若くして最も諦観に満ちたアイザックは、少々異質なものとして周囲から見られていた。
それすらくだらないことに感じられた。元より、アイザックは誰かとつるむ気は無かった。誰かと協力して何かをしたことも無い。誰かに頼られたり、誰かを頼ったりすることも久しく覚えがない。そんなアイザックは、遠巻きにされている分には居心地がいい。誰も何も関わらないでくれればそれが一番。或いは……。
「な、なあ。君。名前は?」
アイザックの横に居た、如何にも気の弱そうな男が、卑屈な態度で笑いかけながらそう、尋ねてきた。
アイザックはそれを無視する。看守達は私語を良しとしないだろう。少なくとも、工場長はそうだった。そして、アイザックの勤務態度が悪くとも、私語をせず、言われたことには概ね従うようにしていれば、面倒が無かった。
……そして何より、問われたことについてわざわざ答えてやるのが面倒だった。漫然と苛々している中では、余計に。
「おい。なあ。聞こえてるだろ?」
気の弱そうな男は、無視するアイザックにもめげずに話しかけてくる。おどおどしてる割にねちっこい野郎だ、と思いながら、アイザックは尚も無視する。
「君、なんでここに来たんだ?何をやったんだ?罪状は?」
頭がおかしいのか、更にそう聞いてくる男を見下ろして、アイザックはますます苛立ちを募らせた。卑屈な笑みを浮かべたまましつこく質問を重ねてくる男の姿が、工場の従業員の姿と重なって見えた。
「何歳だ?20歳くらい?ここに居るってことは18歳以上なんだろうけれど」
「うるせえ」
そうしてアイザックは、他の者より長い脚で、突くように蹴りを入れた。卑屈な笑みを浮かべていた男は、腹に一撃入れてやれば大人しくなった。
最初からこうすればよかったな、と、アイザックは思う。人を黙らせるにはこれが一番手っ取り早い。こうした解決方法をよくないことだと言う者も居たが、そう言う連中がアイザックの問題を解決してくれたことは無い。なら結局、アイザックはこうして、煩わしい問題を解決するしかない。
……実のところ、アイザックは暴力を振るうのが、然程得意ではない。それでも、他の者より大柄な体を使えば、それなりに喧嘩もできた。そして、いくらか喧嘩をしていれば、慣れた。
『普通の』人間は、喧嘩に慣れることが無い。だから、慣れている、というだけで十分に『素質有り』ということになる。他者を殴ったり蹴ったり、時にはナイフで切りつけたりすることに対して、他の者より多少、慣れているだけで。決して上手くなくとも。
「おい、何をしている!」
そして看守がすぐさまやってくる。
他の囚人を蹴りつけたアイザックは、すぐさま看守達に捕縛された。
「入所初日でこれか……」
嘆くような看守の声を聞きながら、アイザックはただぼんやり、ああ、めんどくせえなあ、と思った。
そうしてアイザックは、『入所初日にして懲罰房送りになった囚人』として名を馳せることになった。
……否、名は、馳せなかった。ただ、『身長の高い、がっしりした体の若い男が早速囚人を蹴りつけて懲罰房送りになった』という情報だけが出回り、それらには尾鰭が付いて、アイザックが1週間の懲罰を終えて出てきた時には既に、『ああ、あれが噂の』と囚人達に囁かれる状態だったというだけだ。
何せ、アイザックは目立つ。身長は高く、付随して手足も長い。囚人達はそんなアイザックを恐る恐る見上げ、目が合う前にそっと目を逸らしていった。
周囲の囚人達から向けられる視線が煩わしかったが、それを跳ね除ける気概はアイザックには無い。ここで大人数相手に喧嘩をするわけにもいかない。
仕方なく、アイザックはその日から、作業に従事し始めることになった。
刑務所での作業は、工場での作業と然程変わらなかった。主に、つまらなさという点において。
ただマッチ棒を数えて箱に詰めるだけの作業だ。数が数えられれば誰にでもできる。アイザックにもできる。ただ、細いマッチ棒を1本1本数えてつまみ上げて箱詰めしていく作業は、あまり器用ではないアイザックにとって、只々苛立ちを募らせる作業でしかなかった。
……今ここでこのマッチを擦って、全て燃やしてやったらどうだろうか。
破壊と暴力の衝動がアイザックの中で疼く。只々苛立ちと倦怠感だけが募っていく作業中、ずっと、アイザックはそれに耐えて、マッチ棒を数え続けた。
初夏の温い風が、鬱陶しかった。
休憩時間に入っても、アイザックにとってはまるで心休まらない。
ただ時間だけが過ぎていく。つまらなさも倦怠感も苛立ちも、ずっとそのままだ。
他の囚人達は中庭で陽光を浴び、談笑したり運動したり、思い思いに過ごしている。だが、アイザックはそれらのどれに混ざるでもなく、ただ、端の方へ、端の方へと進んでいった。
陽光も人の目も、鬱陶しかった。賑やかな人の声も、生温い風も、只々煩わしかった。だから、それらから逃れるように、ただ、建物に沿って、中庭の端へと進んでいく。
……すると、そこには少々奇妙な光景が広がっていたのである。
「……花?」
刑務所の中だというのに、そこには花が咲き誇っていた。
奇妙だ。実に、奇妙だ。
中庭の、乾いて硬い土と地続きにこんな庭があるなんて、どう考えてもおかしい。
だが、確かにそこに花が咲いていた。初夏の風に少々重たげな花を揺らして、花が咲き誇っている。濃い紫の天鵞絨のような花びらが、上品な光沢を微かに帯びて陽光を浴びているのは、紛れもない現実なのである。
……それらの花を見て、アイザックは妙な気分になった。裏切られたような失望と、思い通りにならない苛立ちとが混ざって、また不快感が込み上げてくる。
こんな花畑を見たかったわけじゃない。何もない、雑草と硬い土だけがある日陰でじっとしていたかっただけだ。なのに、中庭の片隅ですら自分の思い通りにならない。
美しく花が咲く中で1人、アイザックだけが惨めだ。
……そう、ふと思った瞬間、アイザックの足は、花を踏み躙るべく、持ち上げられていた。
「おい、新入り。そこの花壇を荒らすんじゃないぞ」
だが、背後から声を掛けられて、アイザックはその足を止める。
「特に、そこのアイリスに何かしたら、ただじゃおかねえからな」
そこには、枯草色の髪をした男が1人、立っていた。目の前の男は華奢で整った顔立ちをしていた。齢は30より手前に見える。如雨露を手にしているところを見ると、この庭を世話しているのだろう。
その男を見て、アイザックの中にまた苛立ちが募る。
いい子ぶりやがって、と思った。何もかもが憎く見える。今この場で、この男の細い首をへし折ってやりたいとも思う。全てをぐちゃぐちゃに壊してやりたいとも、思う。
「何がアイリスだ。……どれが何かなんて、分かりゃしねえよ!」
「んだと?」
アイザックはいよいよ、花へ足を大きく踏み出す。いかにも瑞々しそうな茎も、柔らかな厚手の花弁も、全て踏み躙って壊してやろうと思った。
……だが、その矢先、アイザックは華奢な男に襟首を掴まれていた。
ぎょっとする。
相手は細っこく、如何にも体力のなさそうな男に見えた。そして何より、アイザック自身は、それなりに戦える自信があった。
……なのに、まるで抵抗できない内に、襟首を掴まれて、睨まれていた。
相対する男の目は、森のような緑色をしていた。じっと自分を睨みつける目から目を逸らさずに睨み返して、しかしアイザックは、冷や汗の伝う背筋の冷たさを、確かに感じていた。
そして。
「なら覚えろ!これがアイリスだ!」
アイザックは、ぐっ、と引き寄せられて、眼前に一輪の花が揺れる。
濃い紫の花だ。アイザックが踏み躙ろうとした。……だが、名前なんて知らない。聞いたこともない。気に留めたことも。
「綺麗だろ」
……こんなもの、と、踏み折ってしまうことも、できる。実際、そういう気分だ。
だが、アイザックはそうしなかった。襟首を掴まれて、睨まれて、ぞっとして、頭が冷えていたからかもしれない。そしてそれ以上に……その花は上等な天鵞絨のような花びらでできていて、綺麗な紫色をしていて……美しかったから。
「ああ、うん」
アイザックは、思い出す。
自分はどうしようもなく惨めな野郎だと。
アイザックは何一つ思い通りにはできず、何をやったって上手くいかない、社会の敗者だ。
……だが、惨めな敗者であるアイザックも、まだ、自分より余程価値のあるこれらの花……アイリスというらしいこれを、見逃してやることは、できる。
単なる気まぐれだ。だが……自分を見透かすような、奇妙な男の目の前で花を踏み躙ったら、余計に惨めになるような、そんな気もしたから。
「綺麗だな」
アイザックがそう零すと、男は、襟首をそっと、離した。
アイザックはすぐに立ち上がって男に反撃することもできたかもしれないが、諦めてそのまま、花を眺めることを選ぶ。
……このように花を見つめるのは、決して、初めての経験ではない。
遠い昔、アイザックがまだ小さな子供だった頃。アイザックを捨てる前の母親と一緒に、公園の花壇に揺れていた花を、眺めた記憶がある。あの花は何という名前なのだったか……もう、それは、思い出せないが。
「……ところでお前、身長、高いなあ」
いつのまにか、男は花ではなくアイザックを見ていた。……そして何故か、目を輝かせている。先程までの鋭い雰囲気はすっかり消え失せて、どこかのほほん、とした気配すら漂わせていた。
何か嫌な予感がして、アイザックはその場を立ち去りかけたが、腰を浮かせた瞬間、がしり、と手を掴まれた。ああ、面倒なことになった。
「お前みたいな奴が手伝ってくれると、すごく、すごく、助かるんだがなあ」
「おい、離せ」
舌打ちしながら凄んで見せても、目の前の男はまるで怯む様子が無い。それどころか、立ち上がったアイザックを見上げて、ますます『これはいい!』と喜ぶばかりである。
「お前、まるで樫の大木みたいじゃないか!いいなあ、お前ならちょっと高いところの枝にも手が届くだろうし、棚の上の方まで簡単に見えるだろうし……なあ!お前、名前は?」
「何で名乗らなきゃならねえんだよ」
「なら名前はいいや。えーと、お前、明日の休憩時間もここに来てくれ。頼みたいことがあるんだ」
勝手に話を進める男相手に、アイザックは途方に暮れる。彼はアイザックを『樫の大木』と評したが、アイザックの方こそ、まるで巨木を相手にしているような気分にさせられている。要は、立ち向かっても無駄、というような、そういう気分だ。
「礼ならするよ。代用品だが、煙草なら融通してやれる」
「は?」
更に続いた話に、アイザックは耳を疑った。刑務所の中で、煙草が融通されるとは一体どういうことだろうか。
「後は……お前が怪我をした時には薬を提供できるよ。医務室でもらえる奴より効く奴だ。それから、可愛い鳥がお前に懐く」
続く話を聞いていると、ますます訳が分からなくなる。こいつは一体何の話をしているんだろう、とアイザックは途方に暮れた。
「ってことで、お前……あー、やっぱり名前が分からないと不便だな。えーと、やっぱり名前、聞いてもいいか?俺はエルヴィス・フローレイだ」
「……アイザック・ブラッドリー」
「そうか。アイザック、これからよろしくな」
差し出された手は、無視する。結局名乗らされたことへの少々の抵抗のつもりでもあったし、そもそもの、これからこの男……エルヴィスとよろしくしてやる気は無い、という意思の表明として。
……これが、アイザックが初めてエルフに会った日のことだった。