アイリスの咲く庭*3
……それから、半年。
グレンはブラックストーン刑務所を出所することになった。
驚くべきことに、冤罪が証明されたのだ。決め手はやはりと言うべきか、アイリスの弁護であった。
アイリスはグレンが逮捕された時から既に動いていたらしい。そして、グレンの暴行の被害者だとされていた寡婦と接触し、彼女と親しくなり……そして遂に、寡婦が慰謝料目当てに虚言を吐いていたことを、打ち明けさせたのである。
その事実を引っ提げて、アイリスは意気揚々と裁判所へ乗り込んだ。グレンもそこへ連れていかれたが、これほどまでに生き生きとした恋人の姿を見るのは初めてであった。
そうしてグレンの冤罪が証明され、グレンはそれなりの慰謝料と自由を手に入れることになったのである。
グレンの出所について、気のいい囚人達は大いに喜んだ。無論、『まだここに居てくれ!』と冗談交じりに言う者も居たが、それでも、囚人達はこんな狭い刑務所にグレンが居るべきではないと考えたのだ。籠の中の鳥を憐れみ、自由にしてやりたいと思う心は、まだ、彼らの内から失われていなかった。
一方、グレンの出所を喜ばない者も居た。要は、煙草目的にグレンやエルヴィスに与していた連中である。
だが、彼らとて、刑務所を出ていこうとするグレンをどうこうすることはできない。ニガヨモギの煙草のレシピは、エルヴィスに受け継がれた、ということになっている。そしてエルヴィスは、『グレンに手を出したらお前らには二度と煙草はやらん』と公言しているので、どのみち、彼らは黙ってグレンを見送るしかないのだ。
「ったく、あの連中、お前のことを煙草製造機か何かだと思ってやがるのかな」
「似たようなものかもしれないね」
グレンの出所前夜、『グレンが出所してもエルヴィスが煙草を提供できる。そして、エルヴィスの機嫌を損ねたら煙草は供給されなくなる』と改めて言い含めることになった2人は、ため息交じりの苦笑を浮かべて、夕食を摂る。
……刑務所の中で摂る最後の夕食だ。薄い味のスープも、硬いパンも、刑務所に入ってからの4年間ですっかり慣れてしまったが、今になって、妙に愛おしいものに思えてきた。
「あーあ、それにしても、お前も出所かあ。予定の半分で出て行っちまうとはなあ」
そしてエルヴィスもまた、何か感慨を覚えているらしく、少々感傷的である。
……グレンが出所するにあたって、一番の心残りは、やはり、エルヴィスだった。これからもずっと刑務所に居るであろう彼のことを思うと、どうにも、やるせないものを感じる。
「……あー、グレン。お前、俺より先に出所するのが申し訳ない、なんて思うんじゃないぞ。人間は皆、そうなるのが自然なんだから」
そんなグレンの心を読んだかのように、エルヴィスはそう言って苦笑した。
「何時だって人間の方が先だ。出所するのも、死ぬのも。それはもう分かってるし、分かった上で、俺は人間達の国へ来たんだから」
そう。終身刑のエルフは、人間達と共に在る限り、必ず、置いて行かれるのだ。
終身刑でない囚人達はさっさと出所していき、そして、終身刑の人間だって、エルフからしてみれば極短い寿命を全うして死んでいく。
そんなことは、お互いに分かっている。そう知っていながらエルヴィスはグレンに声を掛けたし、グレンも分かっていながら、エルヴィスと友情を育んだ。
「……そうだね。ここに来る連中は大抵、君より早く出所するだろう。だから、出所しそうな奴に声を掛けておいて、出所後に必要なものを融通してもらえるようにしておくことをお勧めするよ」
結局、グレンはそう冗談めかして言うことにする。どうか、せめて、この友人の暮らしが少しでも良くなっていきますように、と願って。
「あー、そういうのも悪くないかもなあ」
エルヴィスは、ふむ、と考えて……それから、少々寂しそうに、笑う。
「……だが、出所後に友達を融通してもらう、ってのは、難しいよなあ。ははは」
それを聞いて、グレンは寂しさと同時に、喜びをもまた、感じた。
30年以上も刑務所に入っていた癖に、囚人達と特段仲良くなりもしなかったエルフが、一番に友達を望んでいるのだ。そして、その望みを与えてしまったのは、他ならぬグレン自身なのだろうから。
「……まあ、それも考えておくよ」
だからグレンは、笑ってそう言う。このエルフに寂しさを覚えさせてしまったことの責任を、少しばかり果たそうと思って。……何せ、グレンはエルヴィスともう、友達になってしまったのだから。
「……は?え?……ん?いや、ちょっと待て。おい、グレン。お前、誰かを刑務所送りにするつもりか?あっ!?それともお前自身か!?お前自身がムショに出戻りする気か!?やめろよ!?そういうのはやめろよ!?」
「ははは、いや、流石に出戻りする気は無いし、誰かをムショ送りにするつもりも無いよ」
どこまでも他人思いなエルフに、グレンとしてはもう、笑うしかない。そして、エルヴィスが今後、少しでも楽しく、幸せに過ごせるように、力を尽くそうと心に決める。
「まあ、やろうと思えば案外、できるんじゃないかな。そこまで融通が利くわけじゃあないが……半年に一度くらいになるだろうが、会えないことも無い」
もう、グレンはアイリスとある程度相談して、今後のことを決めている。
今後、どうやってこのブラックストーン刑務所と、その中に居る終身刑のエルフとに関わっていくかも、概ね、方法を見出しているのだ。
「長命な君にとっては、半年なんてそう長くないだろう?待っていてくれるかな」
「……なら、その時にエルフの里がどうなってるか、聞かせてくれよ」
エルヴィスは笑って、懐に手を突っ込んだ。そしてそこから、一枚の紙を取り出す。
「ほら。紹介状だ。……エルフの長に、よろしく伝えてくれ。エルヴィス・フローレイは案外楽しくやってます、ってな」
紙には、エルフの言葉で何事か書いてあった。グレンにも多少、読める。『グレン・トレヴァーは俺の友人だ』『大事にしてくれ』『あとこいつは植物が好きだから花を分けてやってくれ』というようなことが書いてあるのを読み取ることができたが、内容には言及せず、グレンはただにっこり笑って、そっと、紹介状を懐にしまった。
「その、待ってるからな。半年に一度じゃなくてもいい。一年か、二年か、もっと間が空いてもいいから……」
「随分しおらしいね。君らしくもないな。……最初は半年に一度になると思う。けれどその後は3か月に一度になる。もっとになるかもしれない。まあ、その時までに、君、寄付された植物の苗を直接受け取れるような地位を築いておいてくれ。こう、囚人の中に備品管理係とかを設けてもらうように働きかけて……」
「えっ、急に難しいこと言うじゃないか」
まあ、難しいだろうなあ、と、グレンも思う。だが、エルヴィスならやってしまうだろう、とも思っている。
器用なエルフにかかれば、看守にそうした働きかけをすることも十分に可能だろう。案外寂しがり屋らしいエルフには、きっと、少し難しい目標が必要だ。きっと。
「それから、奉仕作業には毎回参加しておいてほしい」
「成程!分かった。絶対に参加する」
グレンはエルヴィスに手を差し出した。
初めて会った時と、逆だ。あの時はエルヴィスがグレンに手を差し出してくれた。
あの時のグレンは、ここの囚人達の誰とも……エルヴィスとも、仲良くやるつもりはなかったというのに、随分と変わったものである。
「どうか、元気で」
「お前もな」
2人は固く握手をした。これが最後の挨拶になるわけではない、と、予感しながら。
翌朝、グレン・トレヴァーは他の囚人達が起き出すより前に、ブラックストーン刑務所を出ることになった。
迎えに来てくれていたアイリスと共に馬車に乗り込み、そう多くない荷物を抱え直して、馬車の窓から見えるブラックストーン刑務所を見上げる。
相変わらず、ブラックストーン刑務所は大きく、威圧的な建物だった。だが、少なからず、愛着が湧いている。自身の心境の変化に思わず苦笑を漏らしながら、グレンは遠くなっていくブラックストーン刑務所を見つめ続けた。
「あら?そういえば、グレン。あなた、そのシャツのボタン、どうしたの?」
すっかり刑務所が見えなくなった辺りで、ふと、アイリスが気づいてグレンの胸の一点を指差す。
そこに本来あったのは、白蝶貝のボタンだった。だが、今はその代わりに、木を削って作られたボタンが付いていた。
グレンが提供した白蝶貝のボタンの代わりに、と、エルヴィスが木を削って作ってくれたものだ。糸は、結局隠したまま育ててしまった大麻の繊維で作った。まあ糸としての利用なら悪用じゃないし、いいだろう、とエルヴィスと笑い合ったことを、昨日のことのように思い出せる。
「ああ……そうだ。これ、君から貰ったシャツだけれど、ボタンが役に立ったんだ。あれがあったから、鳥に手紙を持たせることができた」
「え?どういうこと?手紙を持った鳥があなたの庭の木に引っかかってわたわたしてた時も『どういうこと?』って思ったけど……」
どうやら、やはりあの鳥はそういう状態になっていたらしい。グレンは『ああ、やっぱり』と思いながら、例の、警戒心の薄い鳥を思い出す。あの鳥はそろそろ、またブラックストーン刑務所に戻る頃だろう。そして今年も、エルヴィスを囲んでぴいぴいと鳴くに違いない。
「なんというか……あなたの話、聞いてたら飽きなさそうね」
「まあ、そうかもしれない。うん。そうだね。不思議な話には事欠かないな」
グレンは指先で木のボタンに触れながら、5年間を振り返る。
……本当に、不思議な話だらけの、5年間だった。
そして、案外、楽しい5年間でも、あった。
翌日にはグレンの家へ到着した。近所の人間達はグレンを心配するふりをして好奇に満ちた目を向けてきたが、それらを適当にいなして、グレンは真っ先に庭へと向かう。
……そこは、多少、荒れていた。だが、アイリスが忙しさの中でも手入れしてくれた部分が多少あり、予想していたよりもずっとずっと、マシな状態だった。
「全部枯れてることを覚悟してたんだけれどな」
「そんなことさせないわよ。あなたが庭を大事にしてたの、知ってるんだから」
アイリスは胸を張って自信たっぷり自慢げに、そう言ってくれる。グレンはそんなアイリスが愛おしくて、つい、抱きしめてしまう。
「それに、これが枯れちゃったらあのローズマリーポテト、もう食べられないんだもの」
グレンの腕の中、アイリスがそう照れ隠しのように言う。
「今晩、早速作るよ。……勘が鈍ってなければいいけれど」
「あら。もし美味しくできなかったらしばらく毎日作って練習すればいいじゃない」
「ははは。君が食べてくれるなら、それでもいいね」
「ええ!もりもり食べるわ!あなたが驚くくらい食べるから、覚悟しておいて!」
アイリスの腕がグレンの背中に回されて、しばらくそのまま、2人は庭で抱き合っていた。
家の中はアイリスによって時々掃除されていたようで、酷いことにはなっていなかった。そしてグレンは早速台所に立ち、ジャガイモを切って、ベーコンの角切りと共にオーブンの天板に並べ、オイルと塩をふりかけ……そして上に、ローズマリーの枝を乗せてオーブンで焼く。
刑務所の食事当番の時にも度々作っていたローズマリーポテトだ。家で作るのは久しぶりで、グレンはなんとなく、不思議な気分でいた。
ジャガイモの焼ける甘い香りにローズマリーの爽やかな香りが混ざって、オーブンから部屋中へ広がっていく。書類の整理をしていたアイリスはその香りを吸い込んで、『ああ、最高!』とにっこり微笑んだ。
グレンは同時に、チキンを焼く。2人分だからオーブンを使うまでもない。フライパンで、皮目を下にしてパリッと焼き上げていけばそれで十分、美味しく出来上がる。
チキンに掛けるのは、玉ねぎのソースだ。よく炒めた玉ねぎに白ワインを加えて作る、エルヴィスから教えてもらったあのソースである。小鍋でそれを煮ながらチキンを焼いて、そうしている内にローズマリーポテトが焼き上がる。
庭ですっかり元気に野生化しかけていたリーフレタスを洗って千切り、ドレッシングで和えておいてから刻んだ茹で卵を載せて、ミモザサラダとする。こんなところで、本日のディナーはいいだろう。
それからアイリスが外へ出ていき、その間にグレンは料理の仕上げを行い……料理がテーブルに並び切る前に、アイリスが紙の箱を片手に帰ってきた。
「ただいま!はい、グレン!私達の勝利を祝すケーキよ!」
アイリスは、『ほら!』と、グレンに箱の中を見せてくる。中身はどうやら、素朴なキャロットケーキらしい。近所のパン屋がペストリーも扱っているので、そこで買ってきたのだろう。
「素敵だ!よし、席へ着いて!丁度できたところだ!」
グレンは笑って、アイリスを席へエスコートする。そしてすぐ、残りの皿も運んできて、随分と久しぶりに2人のディナーが始まった。
食事は美味しくできていた。グレンは内心、ほっとしていた。何せ、4年も刑務所に居たのだ。料理の腕が鈍っていないか、心配だった。だが、アイリスの反応を見る限り、その心配は杞憂だったらしい。
「ああ、これよ、これ!ずっとこれが恋しかったのよ!」
「それは嬉しいね」
アイリスはカリッと焼けたジャガイモをフォークでつついては口に運んで、幸せそうな顔をしている。グレンとしても、ずっとこの美味しそうに食べる顔が恋しかったので、ようやく得られた充足感に笑みが零れるばかりである。
「さて、そろそろケーキにしましょうか。お茶、淹れるわね」
「ああ、ありがとう」
そうしてディナーもいよいよデザートを残すのみとなった。アイリスが茶を淹れに台所へ立ったのを見て、グレンはそっと、懐からあるものを取り出して、手の中に握り込む。
やがて、かちゃかちゃとティーセットの音をさせながらアイリスが戻ってきて、2人分の茶が用意された。切り分けておいたケーキの皿と茶が注がれたティーカップが2人の前にそれぞれ置かれて……そこで、グレンはようやく、切り出す。
「アイリス。これ、受け取ってくれるかな」
開いた手の中にずっと握っていたそれは、指輪である。
グレンは刑務所の中で、指輪を一つ、作っていた。
勿論、一つの指輪を作るまでに失敗した指輪がいくつもあったわけだが……そうしてなんとか、今手のひらの上にあるこれを作り上げることに成功したのである。
指輪は、木でできていた。2年目の奉仕作業で手に入れた菩提樹の枝を削り出して作ったものだ。
木の加工方法は、エルヴィスが詳しかった。そしてグレンはエルフの教えを身に付けられる程度に器用で、細かな作業が苦にならない性質だった。そうして、緻密な彫り模様が入った指輪が出来上がったのである。
「えーと、婚約指輪。金でも、プラチナでもないけれど、受け取ってくれるだろうか」
グレンは内心で恐ろしく大きな不安を抱えながら、アイリスに指輪を差し出す。
刑務所暮らしだったものだから、金やプラチナの指輪を用意することはできなかったし、ダイアモンドも手に入らなかった。良く言えば素朴で、悪く言えば安物の、そういう指輪しか用意できなかったのである。
……だが。
「……綺麗」
アイリスの目を見て、グレンはまたも自分の心配が杞憂だったことを知る。アイリスはグレンの手の上の指輪をそっと拾い上げて、じっと見つめて、感嘆のため息を吐いていた。
それからアイリスはようやく、自分の指に指輪を嵌めようとして……そこで、ぴたり、と動きを止めると、そっと、グレンの手の上に指輪を戻した
だが彼女は、指輪が気に入らなかったから返したわけではない。
「ねえ、あなたが嵌めてよ」
心底嬉しそうにそう言って左手を差し出すアイリスを見て、グレンは只々、幸福感を味わっていた。
「似合う?」
「うん。似合う。……君が気に入ってくれたなら、よかった」
木の指輪は、アイリスの指に収まった。自画自賛になるが、こうして見ると中々よくできているな、とグレンは思う。指輪がいいのか、アイリスがいいのか最早分からないが。
「ふふふ……じゃあ、明日はこれを着けたまま、物件探しを始めるわ」
アイリスは嬉しそうにそう言って、恥ずかしそうにティーカップを持ち上げる。
「エルフの森の近くに、物件を見つけなきゃ。2階建てがいいわ。そこであなたは花屋さんを開くし、私はそこの2階に弁護士事務所を開くんだから!」
そしてアイリスは茶を飲んで……輝くような笑顔で、言った。
「……それで、弁護士事務所の名前は、『トレヴァー弁護士事務所』になるわね」
「これから夫婦揃って頑張りましょうね、グレン」
「ああ。君に負けないくらい頑張るよ。これからもよろしく、アイリス」
改めて挨拶した後、2人はようやく、ケーキに手を付け始める。素朴な甘さのキャロットケーキが、すこぶる美味く感じられる夜だった。