アイリスの咲く庭*2
咄嗟に、グレンの頭の中には様々な言葉がぐるぐると渦巻く。
元気だったか、とか。無実なんだ、信じてほしい、とか。あの手紙は一体何だったんだ、とか。どうかこれ以上私のために時間を無駄にしないでくれ、だとか。
だが、それらは上手く声にならず、結局、どうということの無い台詞が漏れる。
「……どうして、ここに?」
「別れ話をちゃんと聞くために、よ」
グレンとは真逆に、すっかり落ち着いているらしいアイリスは、そう言って、ふん、とばかりに半眼を向けてくる。
「別れよう、ってね、あなた。一方的にそんなこと言われたって、納得できないわよ。最低限、面と向かって話して。しょうがないから私、弁護士になったのよ」
「……は?何て?」
「だから!弁護士資格を取得したの!あなたに面会するために!」
アイリスが何を言っているのか、まるで理解できない。
言葉の意味は分かるのに、それを頭の中で組み直して理解することができないような、そういう感覚だ。茫然として、疑問に埋もれて、感情が溢れて、最早何も考えられない。
「弁護士の資格を取るのに3年で済んだわ。普通は4年かかるんだけれど、うまく飛び級できたのよ。『執念のなせる業』って専らの評判。期待の新人。それが私よ」
自慢げに胸を張るアイリスを前に、グレンはただぼんやりと、『ああ、彼女、変わってないなあ』と思った。
グレンの恋人、アイリス・オールディスは、相変わらずパワフルだった。
「まあ、これでようやく私も弁護士を名乗れるようになったから、面会に来られたっていうわけ。ここまではいい?」
「あ、ああ、うん」
一通り、グレンは状況を理解した。
……どうやらアイリスは、グレンが投獄されてすぐ、面会に来たらしい。
ただ、ブラックストーン刑務所では、恋人の面会は許可していなかった。ついでに言えば、親族であっても断ることがままあったらしい。これについては、グレンも詳しくは知らなかったが。
一応、刑務所側は法に則って、『刑務所の安全を揺るがす可能性がある場合』や『囚人に危害を加えられる可能性がある場合』、或いは『囚人の精神状態が落ち着いていない場合』には面会を許可しないことができる。ブラックストーン刑務所ではそれを拡大解釈して、ありとあらゆる場面で面会を却下してきた、ということらしい。
だが、面会もまた、法によって保護された権利の1つなのである。アイリスはそれを何度も主張したが、刑務所の看守達はアイリスの面会を許可しなかった。
……そこでアイリスは、『頭にきたから文句をつけられないように弁護士資格を取った』らしい。
この飛躍ぶりが正に彼女らしいといえば彼女らしいのだが、ただそのまま別れればいいだけの恋人相手に面会を取り付けるためだけに、弁護士として勉強して、弁護士資格を得てしまったというのだから驚きである。グレンはもう、『すごい』以外の何も言えなくなっている。
「……それで、あの話なんだけれどね」
「ああ、うん、何の話だったっけ?」
「あなたが切り出した別れ話よ!」
そうまでして始めるのが、別れ話なのだからグレンは最早何も言えない。以前の調子そのままのアイリスが『あんな形で別れ話なんて持ち出さないで!』と怒るのを仕切り板越しに眺めて、刑務所に入れられる前の生活に戻ったような気分になる。
不思議な気分だ。だが、悪い気分ではない。前からそうだった。アイリスと居る時、グレンは何故だが、不思議と明るい気分になる。この時間がずっと続けばいいのに、と思う。
アイリスは自信たっぷりで明るくて、少々怒りっぽくて、だが思慮深く、行動的で好奇心を失わず……それでいて2人きりで居る時にはグレンにそっと甘えてくるような人で、グレンはそんなアイリスのことをすっかり愛してしまっているのだ。
「……聞いてる?」
「ごめん。あんまり聞いてなかった。なんだか、無性に幸せで」
半眼のアイリスに大して正直に答えると、アイリスはぽかん、として……呆れたような笑みを浮かべて、言った。
「ああ、グレン。あなた……なんか、相変わらずね」
「君もね」
「さて。で、別れ話だけれど……お断りよ!断固として!」
そして話が一段落したと思ったら、アイリスは途端にそう言いだした。ダン、とテーブルを叩きながらのその言葉の剣幕に、グレンは『うわあ』と思い、後ろの方で監視していた看守も『うわあお』と小さく声を上げた。グレンは看守に奇妙な親近感を覚えた。
「面と向かって言う誠実さくらい持ってないの!?」
「いや、面会の機会が得られるなんて思ってなかったんだ」
「何よ!それでも出所する予定なんでしょう?終身刑なんかじゃあ、ないじゃない!なら面会の機会が無くても、せめて出所後に言いなさいよ!」
「だって、アイリス。10年だぞ?」
アイリスの言葉に少々の異議を申し立てると、アイリスは半眼のまま、黙った。そして、グレンはそんな彼女に、また申し訳なくなる。
「10年……長すぎる。それまで待たせるなんて……君の時間を、奪うなんてこと、できない」
アイリスも、分かってはいるのだろう。手紙を出したグレンの意図くらい。
別れ話を持ち出したのは、グレンがアイリスを縛り付けておくことを望まなかったからだ。せめてアイリスだけは自由に幸せに、と思ったが故の手紙、そして別れ話であったと、アイリスも分かってはいる。
「それに私はもう犯罪者だ。冤罪だって言ったって、誰も聞きはしないだろう。だから……」
「今更ね」
だが、アイリスはめげなかったらしい。グレンの言葉を聞いたアイリスは椅子から腰を浮かせると、身を乗り出して、仕切り板に頭突きせんばかりの距離で、グレンにそっと、問う。
「ねえ、愛してるわ、グレン。あなたのために弁護士資格を取って弁護士になっちゃうくらいにはね」
そしてアイリスは、少し不安気でもあった。自信家の彼女らしくもない……それでいて、グレンは幾度も見てきた、アイリスの、弱く柔い部分が見えていた。
「あなたは?まだ、私のこと、愛してくれてる?」
グレンは知っている。
アイリスの自信たっぷりな振る舞いは、彼女を守る鎧なのだと。そして、グレンの庭に小さなベンチを出して、2人で庭を眺めながら話している時、アイリスはその鎧をそっと脱いで、グレンに凭れて、じんわりと嬉しそうにするのだということも。
「……勿論」
グレンは久しぶりに味わう幸福感に満ちて、答える。
「君を想わない日は無かった。毎日毎日、君のことを考えていた。それで……今晩からもまたずっと、君のことを考えることになるね、これは」
それから2人は、これからの話をすることになる。別れ話を乗り越えてしまったら、その先にあるのは別れずに共に居る未来だ。……グレンとしては、彼女を付き合わせてしまうのがひたすら申し訳ないのだが、アイリスはそれすら楽しいらしく、まるで気にした様子もなく予定を話してくれた。
「まあ、そういうわけで、私が弁護するから冤罪を主張しましょう。上手くいけば10年なんて待たずに出られるわ」
「ああ……本当にすごいな、君は」
アイリスから今後の裁判やそれにまつわる手続き、グレンがすべきことなどの諸々を聞いて、グレンは別の世界の話を聞いているような気分になった。一体どうしてアイリスはこんなにもパワフルなのだろうか。
「それから……まあ、出所した後のことなら、大丈夫よ。私の稼ぎで十分、食べていけるわ。多分ね」
「そうだね。君は優秀だから」
「そう。私は優秀だから!」
胸を張るアイリスを見て笑って、それから……グレンは、また少し申し訳なく思いながら、提案してみる。
「そのことなんだけれど……私も、就こうと思っている職があってね」
きょとん、としたアイリスに、さて一体どう言われるだろうか、と思いながら……グレンは、それを口にする。
「エルフの里とやりとりしながら、花屋をやりたい」
「……へっ?」
「ああ、うん、そういう反応を貰えると思ってたよ」
心底申し訳なくなりながら、ぽかんとしたアイリスを見つめる。立場が逆だったら、自分の恋人は刑務所暮らしで頭がおかしくなったのだろうか、と疑うかもしれない。
「ええとね、友人ができたんだ。エルフの」
「エルフの!?」
「うん。エルフの」
実在するエルフを初めて見たグレンとしては、アイリスの驚く気持ちがよく分かる。今やすっかりグレンはエルヴィスに慣れたが、本来、エルフは人間達を嫌い、人間達の前に姿を見せない生き物なのだから。
「そう。そういう、エルフの友達ができたんだ。こんな刑務所の中で、だけれど。……彼も植物が好きでね。刑務所の中庭で、花を育ててる」
それからグレンは、少々自分の話をした。
刑務所の中庭の小さな花壇の話もしてみると、アイリスは感心と呆れが混じった顔で笑う。
「……あなた、投獄されたっていうのに、相変わらずなのねえ」
「君もね。相変わらず、太陽か虹か、そういうパワフルさだ。見ていて気分が明るくなる」
お互いに笑い合って、さて、いよいよ、グレンは切り出す。
「それで、まあ……彼が、出所する時に紹介状を書いてくれるっていうから。それを見せれば、エルフの森の植物も取り扱えるかもしれない、って。だから……エルフの森の花も取り扱う花屋を、やりたいんだ」
突拍子もない話だろう。アイリスからしてみれば、実に突拍子もない話であるはずだ。グレン自身、随分とメルヘンチックなことを言っているな、という自覚はある。
……だが。
「素敵ね!なら私、エルフ専門の弁護士になるわ!」
そう言って、アイリスは笑うのだ。素敵な宝物でも見つけたかのような、眩しい笑顔で。
「ええ、いいじゃない!ふふ、ビジネスチャンスでもあるわ。エルフと人間の裁判って、担当したがる弁護士が少ないのよ。ほら、エルフの里は人間が立ち入れないから、連絡も取り合えないでしょう?そこに人間の弁護士が1人居たら、便利だと思うのよね。お互いに!」
アイリスの、希望に紅潮した頬を見て、期待に煌めく瞳を見て……グレンは、何か、込み上げてくる感情に押し流されそうになる。こんなに幸福なことがあっていいのだろうか、と思う。
「だから、あなたが花屋をやるって言うなら、私も連れていってね?」
そしてアイリスの言葉を聞いた途端、どうにも、溢れてくるものを留めておけなくなった。
「……アイリス。愛してる」
この硝子の仕切り板が無かったら、今すぐにでも、アイリスを抱きしめていただろう。
「やだ、泣いてるの?」
アイリスはくすくすと笑っていたが、グレンには答える余裕も無い。アイリスはしばらく、グレンを見てくすくす笑っていたが、やがて、グレンがようやく少しばかり落ち着いてきたところで、にっこり笑って、言うのだ。
「帰ってきたら、ローズマリーポテト、作ってね。私が作ると、どうにもあなたが作った味にならないの」
「勿論。いくらでも作るよ」
「プロポーズはその時にお願いね」
……最早、グレンも泣いてなどいられない。目の前でにこにこと笑っているアイリスには負けるが、それでもなんとか笑顔を浮かべて……幸福の奔流に戸惑いながらも、それに身を任せてしまうことにした。
「とびきりのを考えておくよ」