アイリスの咲く庭*1
その日から、グレンはそわそわとしながら過ごすことになった。
「ああ……アイリス、何だって、あんな手紙を」
「お前、それ今日何度目だよ」
そんなグレンの様子を見て、エルヴィスはけらけらと楽し気に笑う。落ち着いていて、囚人からも看守からも人望のあるグレンがこの有様なのが、エルヴィスからしてみると可笑しいらしい。
「ま、嬉しいのは分かるけれどな」
だが、可笑しい以上に、嬉しいのだろう。
……グレンの元に届いた手紙。愛しい恋人からの手紙は、グレンを裏切らない内容だったのだから。
「嬉しい……のか?いや、嬉しい。嬉しいんだけれどね、それ以上に……それ以上に、ああ、アイリス、なんだって、人生を棒に振るような真似を……」
グレンとしては、複雑である。恋人がまだ自分を愛しているということは確かな喜びであったし、彼女に待てと言われたならいくらでも待つ。だが……彼女を『待たせる』ことをしたくなかったグレンとしては、只々、複雑なのだ。元々、彼女のためを思って別れ話を鳥に託したのだから。
「いいじゃないか4年くらい。人間の寿命から見ても、そんなに長い時間じゃないだろ?」
「いや、結構長いね……」
エルヴィスはなんとも朗らかであるが、グレンはそわそわと、ひたすらに落ち着きがない。とにかく、落ち着きがない。愛する恋人に愛していて欲しい気持ち半分、愛する恋人に自分を諦めてほしい気持ち半分、最早どうにもならない落ち着きの無さである。
「……というか、そもそも、なんで4年なんだ?お前の刑期、まだあるだろ?」
「あと9年だ。何事もなければ」
「あれ?10年じゃなかったか?」
「もう君と出会って1年経つんだぞ」
そう。更にグレンの落ち着きの無さを加速させているのが、アイリスの手紙にあった『あと4年』という言葉だった。
グレンは懲役10年を科せられている。1年経って、あと9年だ。にもかかわらず、アイリスは『あと4年』と言った。その理由が、グレンには分からない。
「ま、4年待ってみろ。どうせお前ができることは何も無いんだから」
「ああ、そうなんだよ。そうなんだ、私にできることがあまりにも何も無い……」
……どのみち、グレンにできることは全く無い。刑務所の外へ連絡を取る手段はほぼ無いに等しく、そして、グレンの懲役はあと9年ある。
結局のところ、あと9年、ないしはあと4年、待つことになるのだ。……待たせているのか、待っているのか。それも曖昧なところだが。
その日の休憩時間、2人は花壇の手入れをしていた。
もうじき冬が来る。もう朝夕はめっきり冷え込むようになってきた。これがもう少しすると、雪が積もって、去年のように、酷い寒さに見舞われることになるのだ。その時に向けて、2人は花壇に藁を敷いたり、雪で枝が折れないように囲いをつけてやったり、と植物達の世話をしている。
「そういえば、お前の恋人の名前、アイリスっていうんだな」
そんな中、ふと思い出したようにエルヴィスがそう聞いてきた。グレンは咄嗟に、言葉に詰まる。
「……ああ、そうだよ」
「だから『アイリス』が好きなのか。成程なあ」
……そう。グレンが一番好きな花は、アイリスだ。そして、恋人の名前も、『アイリス』。エルヴィスがにやにやと楽し気な顔になることも已む無し、である。
「弁明させてくれ。これについては、卵が先かニワトリが先か、微妙なところなんだ。丁度、公園に咲いていたアイリスを見ていた時に彼女と出会って、彼女の名前を聞いて、彼女も『アイリス』だって知って……それから、どっちのアイリスも好きになったものだから」
「へえー」
グレンとしては最早開き直るしかない。その一方、エルヴィスは只々、楽し気である。
「いや、気を悪くしたならすまなかったな。揶揄うつもりは無いんだ。ただ、人間の恋愛事情は聞いてて楽しくてね。エルフはもっとのんびりしてるというか、怠惰というか……まあ、そういう恋愛事情なもんだから、人間のみたいに面白くないんだ」
「逆に聞くけど、君、人間の恋愛事情が面白いのかい?」
「小説か演劇でも見てるみたいなんだよ。目まぐるしくて、内容が盛り沢山で」
長命なエルフからしてみるとそういう感想になるのかもしれないが、グレンは『ならエルフの恋愛事情ってどんな具合だろう』と気になった。のんびりとしていて怠惰な恋愛事情とは、一体。
「いやあ、若いって、いいねえ」
更に、20代に見えるエルヴィスがにこにことそんなことを言い始めるものだから、グレンは最早、考えるのも恥じ入るのもやめるしかない。200歳を超えたエルフを相手に、30年生きていない自分が恋人の話で恥ずかしがっているなんて馬鹿らしくなってきた。
「ところで、君は?故郷に残してきた恋人が居たり?」
「いやあ、生憎、そういうロマンスとは無縁だったんだ」
ついでに反撃とばかり、グレンからも聞いてみるのだが、エルヴィスはこの調子だ。正に、大木か何かを相手にしているような感覚である。
「だが、まあ、友人は居たよ。前にも話したような気がしたが、グレンっていう名前の奴でね」
……だが、そんな話が出てきて、グレンは少々驚く。
エルヴィスと出会って最初に『友人と同じ名前だ』と言われたことは覚えている。あの時は然程気にしなかったし、話の接ぎ穂代わりの嘘か何かだったとしてもおかしくないと考えていたし、そもそも、長命なエルフにはそれはそれは多くの友人がいるのだろうから、その中に『グレン』というありふれた名前の者が1人2人居てもまるでおかしくない、とも思っていた。
「いいねえ。グレンって名前の人間は皆こんなかんじなのか?あいつも、お前に似てるところがいくらかあった。学ぶのが好きで、好奇心があって、そんなに人付き合いは好きじゃなかったみたいだが、いざ人付き合いさせてみたら、上手かった。お前がやってたみたいに、交渉でいろんなことを変えていける奴で……」
エルヴィスはそう、懐かしむように、嬉しそうに話し……それから、ふと、含み笑いを浮かべた。
「まあ、お前の方が幾分、優男だな。あいつは薔薇の剪定よりも樫の木の植え替えとかの方が似合う性質だったから。うん。お前より幾分、荒っぽかった」
「そ、そう……うーん、あの、エルヴィス。それ、僕はどういう反応をすればいいんだい?」
「そりゃ、『へー』でいいだろ。ん?駄目か?」
エルフの感覚は人間にはよく分からない。グレンはまたも、考えるのを止めることにした。
……ただ、少しだけ。
エルヴィスが、かつての友人であったという『グレン』とグレンを重ね合わせて見ていることがあるのではないか、と、思う。
無論、それが悪いとは言わない。エルフが人間と付き合っていく上では、そういうこともあるだろうし、そうだったとして、グレンは別にそれを厭う気持ちは然程無い。
ただ……エルヴィスの気持ちを考えると、幾分、やるせない気分になりもする。
エルフは普通、人間と付き合わない。
エルフは1000年くらい生きる生き物だが、人間は100年も生きずに死ぬ生き物だ。エルフからしてみれば、あまりに短命で、儚い生き物だろう。すぐ死ぬ生き物と友達付き合いをしていても、空しいだけなのかもしれない。
ましてや、人間がそうするように、生涯をかけて築き上げるような友情を手に入れたのなら……その重さと別れまでの時間とが、あまりに釣り合わないのではないか。
「はあ……こんなムショの中で言うのもおかしな話だが、長生きしようと思ったよ」
「唐突だなあ。ま、俺としては嬉しいが。そうだなあ、グレン。お前、200年くらい、生きないか?」
「流石にそれは無理ってものだよ、エルヴィス」
せめて、自分は多少長生きできるように努力してみよう、と、グレンはそう、心に決めた。
真冬になると、朝食の時間中、壁に張り付く囚人が増えた。
……要は、エルヴィスの耐冷魔法の恩恵に与ろうとする者が増えた、ということである。そうして耐冷魔法を得た囚人達は、例年よりずっと健康に過ごし、風邪を引いて肺炎になって命を落とす者も出ないまま、冬が終わっていく。ブラックストーン刑務所始まって以来の快挙であったらしい。
そんな環境であったので、囚人達は皆、エルヴィスに一目置くようになった。
何せ、200年を生きたエルフは博識だ。話していると中々面白いということに気づいた囚人達は、嬉々としてエルヴィスに話しにやってくるようになった。グレンも同じようなもので、概ね似たような状態になっていた。
そして、2人の知識や穏やかな性格に魅力を感じない類の囚人達の間でも、『あいつらは有用だから攻撃するな』という協定が結ばれるようになった。その見返りとして、エルヴィスとグレンは煙草を提供したり、耐冷魔法の恩恵に与らせてやったり、はたまた出所する者があればどのように職を探せばよいか助言してやったり、と働いた。
……気づけば、グレンが来て1年で、随分と刑務所の中の様子が変わっていた。
囚人達はそれなりに仲良くつるむようになり、かといって足の引っ張り合いが起こるでもなく、そして、荒くれた囚人達も、騒ぎを起こせば『騒ぎを起こした奴にやる煙草はねえ』とエルフに突っぱねられるとなっては中々暴れられない。
そうして、ブラックストーン刑務所は、始まって以来の穏やかさで運営されることとなってしまったのであった。
看守達はこれを大いに喜んだ。今まで、看守に反抗的な囚人には手を焼いていたし、騒ぎが起きる度に胃を痛めていた者もいたくらいなのだから。それが、何時の間にやら模範囚が増え、要注意の囚人すら少々大人しくなったとなれば、看守達が喜ばないわけは無い。
つい最近、看守が看守を告発して『不正を正した』ばかりだ。それと併せて、看守達は本部からの評価も上がって上機嫌であるらしい。
そして、看守が上機嫌であることを、囚人達は大いに喜んだ。理不尽な暴力はすっかり減って、食事の質も多少、向上したのである。
それでも当然、自由に生きられる訳ではないが、それでも、今までより確実によくなっている刑務所の環境に、囚人達も看守達も、大いに満足していた。
冬が終わり春が来ると、花が一斉に芽吹き出す。
グレンとエルヴィスが植えたクロッカスの球根が美しく花を咲かせて紫や黄色に花壇を彩っていたし、ローズマリーには新しい枝が生え出てのびのびと瑞々しい緑色を見せていた。
花壇はすっかり、立派になっていた。ローズマリーの枝を挿し木にして、なんとか花壇を名乗っていた頃とは大違いである。
こうなると看守達も花壇の存在に気付き始めた。『一体何事だ』と今更のように驚く看守も居たが、エルヴィスが言質を取って久しいのだ。誰も文句は言えなかった。
それに、丁度、エルヴィスとグレンによって囚人達が協定を結び、無用な争いが無くなったこともあり、看守達はこの良い変化を『エルフの庭のおかげ』と勘違いしたのである。
看守達は『植物を育てることで囚人達の精神が穏やかになった』と判断し、囚人達の花壇での活動を大らかに見守ることとなったのである。
グレンとエルヴィスは、これ幸いとばかりに看守達に掛け合い、なんと、花壇に植える花の種を僅かながらも購入させることに成功したのである。
……そうして、刑務所が変わっていく中でも、グレンとエルヴィスは最も気の置けない友人として、仲良くやっていた。
グレンはエルヴィスのエルフとしての技術や知識を頼り、エルヴィスはグレンの人間としての感覚や交渉術を頼って、お互いにお互いを助けていた。そして何より、お互いに植物が好きで、花壇作りを楽しんでいた。
気が合い趣味が合う2人は、刑務所での日々をそれなりに楽しく、随分とマシに過ごしていた。
その中でグレンは恋人であるアイリスのことを考えていたし、エルヴィスもかつての友人のことなどを考えていたのだろう。お互いの中にお互いの大切なものをきちんと抱えたまま、2人はよき友人であり続けた。
……そうして一年、二年、と月日が流れ、すっかりエルヴィスとグレンが牢名主のようになった頃。
「グレン・トレヴァー!居るか!」
今日も作業に取り掛かろう、とし始めたグレンが、看守に呼ばれる。グレンは手を挙げて、『私はここに』と立ち上がる。周りの囚人達は、『あのグレンが何かやらかしたのか?』と囁き合うが、グレン本人にもまるで身に覚えがない。
……否、代用煙草の密造はしているし、まだ屋上に上がって鳥と触れあっている。それらを咎められるというのならば仕方が無いが、だとするとどこから情報が漏れたのだ、という話になり……。
だが、グレンの思考は、打ち切られた。
「面会だ。弁護士が来たぞ」
「……え?」
まるで予想をしていなかった言葉に、グレンは只々、ぽかん、とするしかなかったのである。
そして。
「久しぶりね、グレン」
面会室へ連れていかれたグレンは、驚いた。今までの人生において、最も驚いたのがその瞬間だっただろう。
……『弁護士』としてやってきたのは、恋人のアイリスだった。