王国歴337年:エルフの森
翌日。
エルヴィスは里帰りすることにした。
100年ぶりほどになる里帰りである。さぞかしリリエあたりが驚くことだろう、と思いつつ、うきうきとエルフの森へ帰る。
……すると、100年前からほとんど変わらない光景がそこにあった。
そう。変わらない光景である。びっくりするほど、変わらない。……人間の国で長く過ごしてきたエルヴィスには、これが異様なことだと理解できる。
エルフの森は、ずっと変わらないのだ。人間の国がどんどん変わっていってしまう一方で、ここはまるで変わらない。勿論、植物は代替わりしていくし、咲く花も実る果物も、時々で異なる。だが……それでも、『変わっていない』と認識できてしまう程度には変わらないのが、エルフの里の特徴なのだ。
「おーい、止まれー!」
エルヴィスが感慨に浸っていると、森の奥から声が聞こえてくる。大方、人間の侵入を警戒する係のエルフだろう。
エルヴィスがわくわくそわそわしながらそれを待つと……。
「ここはエルフの……あれっ!?エルヴィスか!?」
「おう!フェルス、ただいま!」
驚きのあまり木から落ちそうになっている顔馴染みのエルフに挨拶して、エルヴィスは満面の笑みを浮かべた。
「わー、久しぶりだなあ!100年ぶりくらいか!?」
「大体そんなもんだな」
エルフの森の中を歩きながら、エルヴィスは不思議な気分になる。
懐かしさは、ある。『変わっていないなあ』とも思う。『帰ってきた』というような感覚も、無いわけではない。……だが、どうにも、そわそわする。
何せ、ほぼ100年ぶりの故郷だ。何も変わらないはずのエルフの里だが、エルヴィスはこの100年で大分変わった。この100年分の差は、確実にエルヴィスの中で違和感として働いている。
「……懐かしいな」
だが、違和感があろうが、多少そわそわしようが、故郷は故郷だ。エルヴィスはこの森を愛しているし、ここに住む仲間達のことも大好きである。
「なんかお前、結構雰囲気変わったなあ。やっぱり人間の国に居たからか?ん?あれ、えーと、確か、けいむしょ?ってところに居たんだっけ?」
「まあ、そうだな。刑務所っていうのは、まあ、別にいいところってわけでもないんだけれど、えーと、その説明からか……あれっ、よくよく考えたら、ムショ入りしたエルフって俺が初なのか……?」
人間の国のことなどよく知らないらしい仲間に、如何にして『刑務所』の説明をしてやるべきか悩みながら、エルヴィスは歩く。
……森の木々の向こうには、やがて、エルフ達の里が見えてくるようになる。
エルヴィスは自分の家へ向かって、そこに荷物を置く。
……一応、エルヴィスにも家はある。木の上に建てた、小さいながらも頑丈で良いつくりの家だ。エルヴィスが10歳になった時に、先輩エルフ達が建ててくれた。
『100歳ぐらいになったら自分で家を建てたくなるだろうから、とりあえず小さ目に造っておくぞ』と言われていたこの家だが、今のエルヴィスにはこの狭さが丁度いい。……大体、独房ぐらいなのだ。この広さが。
「家に帰ってきたってかんじでもねえなあ……」
そしてエルヴィスは荷物を置いて、ころり、と床に寝転がって、少々そわそわした気持ちでころころと床を転がる。
王都で宿を取って泊まった時の感覚に似ている。つまりエルヴィスは今、家に帰ってきたというよりは、別荘へやってきた、ぐらいの気分になっているということだろう。なんだかんだ、あの独房は落ち着くのだ。狭くて、暗くて。
そうして、エルヴィスが『俺、本当にリリエが言ってた通り、ダンゴムシかも……』と思い始めた頃。
「あっ、本当に帰ってきてる!」
いつかのように、リリエがひょっこり、顔を出していた。
「えーと、何十年ぶりぐらい?」
「大体100年ぶりだな」
「わあー……じゃあ、本当に久しぶりだったわね」
リリエはエルヴィスの家にひらりと上がり込むと、『ここ、やっぱり狭いわね』と言いつつ適当な床に自分で持ってきたらしい敷物を敷いて座り込んだ。尚、敷物にはエルヴィスが座る隙間は無い。まあ、エルヴィスは床板の上に直接ごろごろしていても気にならない性質なので、特段構わないが。
「それで、今回はどうしたの?えーと、人間の国が一回滅びたっていうのは、聞いてるわよ。それを機会に里帰り?」
「まあ、そんなところだ。滅んではいないけどな。人間の国の王が、ずーっと続いてた系譜じゃなくなったっていうだけで」
リリエはある程度、人間の国の事情を知っているらしかった。まあ、エルフと人間との交易再開に向けてエバニが活動しているはずなので、エルフ側も人間の国の事情を知っていて当然ではあるのだが。……そしてその割には、やはり、人間の国への理解がとてつもなく大雑把なのだが。
「そういうわけで俺は恩赦が出て、終身刑じゃなくなっちまったから里帰り」
「久しぶりの外、ってことね?」
「まあ……奉仕作業で時々外には出てたけれどな。でも、自分の意思だけで外に出て、自分で予定を決めて移動して、っていうのは本当に久しぶりだ」
窓の外、そよそよ、とそよぐ木々の葉の音が耳をくすぐる。開けっ放しの玄関からやってくる風は森の香りをたっぷり乗せていて、実に心地よい。……エルフの森の匂いは、『自由』の香りなのかもしれない。
「好き好んで刑務所に入った奴だから大丈夫だろうとは思ってたけど……元気そうね」
「そりゃあな」
また、ころり、と床に転がってみつつ、エルヴィスは笑う。
……エルフの多くは『刑務所』が何かもよく知らない。エルフの里に刑務所など無いからだ。エルフの里では、罪人はすぐさま追放されるか、殺されるかのどちらかなのである。
だが、リリエはエルフの中では、そこそこ人間の国の事情に詳しい方だ。『刑務所』がどういうところかはエルヴィスが教えたので知っているし、そこにエルヴィスが嬉々として潜り込みに行ったことも知っている。
「で、楽しかったの?」
呆れたような顔のリリエに笑いかけながら、エルヴィスは元気に、心から、言う。
「ああ。楽しかったよ」
本当に、楽しかった。刑務所での100年弱も、その前の人間の国での暮らしも、楽しかった。それは、自信を持って言える。
「……で、俺、これからどうしようかと思ってさ」
さて。エルヴィスは床をころころ転がりながら、目的であった相談に臨む。丁度、エルヴィスの事情をそれなりに知るリリエが来てくれたことだし。床は冷たくて心地よいし。リリエは呆れた顔をしながら、勝手にエルヴィスの家の戸棚を漁って『あっ、このお菓子100年前の!』とやっているし。相談は気軽にやるに限る。
「え?どうしよう、って、どういうことよ」
「ほら、俺、ずっと暮らしてたムショで終身刑じゃなくなっちまったから……クラークには、看守にならないか、って言われてるんだけどな。どうにも今一つ、ピンとこない」
戸棚からエルヴィスへ視線を戻したリリエに、エルヴィスは自分の状況を説明する。
恩赦が出て、釈放されることになってしまった、ということ。だが、まだブラックストーン城に居座りたい、ということ。ならば看守にならないか、とクラークに言われているが……それがなんとなく、しっくりこないということも。
「事務員でも司書でもいい、って言われてる。司書、は、ちょっと惹かれるものがあるな。あんまりピンと来ねえけど、看守よりは、向いてると思う」
自分で自分の心を確かめるようにしながら、エルヴィスはそう話す。
「でも、なんか、違うんだよなあ……」
「ああ、そう……うん」
どうしようかなあ、どうしようかなあ、とエルヴィスが床をころころ転がっていると、リリエは何とも呆れたような……それでいて、少々心配そうな顔で、エルヴィスを覗き込んできた。
「あの……エルヴィス。あんた、ブラックストーンで、人間とエルフの交流の場を作るんじゃなかったの?」
「……そうだった!」
そこでようやく、エルヴィスは、自分が刑務所入りする前、何をしたかったのかを思い出したのである!
「なんで忘れてたのよ」
「それどころじゃなかった……いや、もう、人間と交流してばっかりだったから……?……なんで俺、忘れてたんだ?」
「……まあ、忘れちゃうくらい色々あったってことでしょ。人間の国じゃ、色々ありそうだし」
そう。なんだかんだ、色々あったのだ。本当に、色々。
人間とエルフの交流の場として使いたかったブラックストーン城が勝手に刑務所にされていたのが、問題の始まりだったような気もする。あれのせいで、エルヴィスの目標は『ブラックストーン城に住み着くこと』になってしまって、その前に夢見ていた『人間とエルフの交流の場を作ること』はどこかへ飛んでいってしまったのだ。
「そう、だよな。うん、そうだ。俺、人間とエルフの交流の場を作りたかったんだ!……あー、でも、どうやろうかな。くそ、困った。ブラックストーン城は刑務所になっちまってるし……」
「ブラックストーン城以外の所を使えば?」
「嫌だ!俺はブラックストーンに永住するエルフだ!」
「じゃあ刑務所からただの城に戻してもらえば?」
「でも、刑務所で働いてる人間達が沢山いるんだ。あいつらの食い扶持が無くなっちまったら、あいつらが困るだろ」
「じゃあ、新しく刑務所を建設しなさいよ」
「ううー、そうなるか?やっぱり、そうなるか……?」
エルヴィスも分かってはいるのだ。自分が大分、我儘なことを言っている、と。
エルヴィスはブラックストーンに住んでいたい。あそこが、エルヴィスの永住の地なのだ。
それと同時に、エルフと人間の交流を手助けしたい。ブラックストーンがその場になったら嬉しい、とも思う。
だがそれらの一方で、刑務所は無くしたくない。刑務所は多くの人間達にとって必要な施設であり……そして、エルヴィスにとっては、刑務所もまた、大切な場所になってしまっているのだ。
あそこが刑務所だったからこそ、エルヴィスは多くの人間と知り合えた。そして、生涯の友にも、出会えたのだ。
それを、無かったことにはしたくない。
「どっちも、っていう訳にはいかないの?刑務所やりながら、その一角をあんたの部屋にして、また別の、庭とかをエルフと人間の交流所にすればいいんじゃない?」
「いや、それをやる権利は俺には無いからな……流石に欲張りすぎだろ、それは」
「めんどくさいわね、あんた」
「俺もそう思う。けど俺より人間の方が面倒くさいんだぜ?」
苦笑しつつ、エルヴィスは仰向けのまま天井を見上げる。折角なら流れる雲でも見ていたい気分だったが、天井は特に流れないので、木目を目で追いかける程度しかやるべきことが無い。そうしてぼんやりしながら、さて、どうするかな、と考え……。
「じゃあ、今度こそブラックストーン城への永住許可を認めてもらえればいいんじゃないの?」
……リリエがそう言いだしたので、エルヴィスは飛び起きた。
「で、あんたが城を、人間に貸す!刑務所の場所を、貸す!城内の敷地はあんたのものだから、どうこうする権利はあんたにある!……それでどう?」
……そうして、一か月後。
「リリエ!リリエ!やった!認められた!」
「あっ、認められたの……?」
「ああ!あの城が国のもんじゃなくて俺のものだってことは認められたし、その上で、刑務所と俺の家と、それに、人間とエルフの交流所まで兼ねることが認められた!」
リリエは『人間って、エルヴィスぐらい欲張りなのかしら』と首を傾げていたが、喜ぶエルヴィスは気にしないのだった。
2人は、リリエが持ってきたケーキとエルヴィスが淹れた茶とで休憩しながら、話す。
「いやあ、よかったぜ。まさか、認められるとは俺も思っていなかったから」
話すことは専ら、ブラックストーン城のことである。
そう。ブラックストーン城は、100年越しにしてようやく、エルヴィスのものだと認められたのだ。
ブラックストーン城の権利書である黒い石板は、グレンやユースタスが遺した証文と照合されて、それが有効なものであると証明されたのだ。
この証明には、多くの人が協力してくれた。クラークとオリヴィアが『証文を作成した時の記録がどこかにあるはず』と探してくれ、エバニが『石板が偽物ではないことを証明できる専門家に心当たりがある!』と専門家を連れてきてくれ、そしてタンバリンマスターが『王立図書館にブラックストーン領主が遺した証文なるものがあった気がするぜ!』と教えてくれた。
彼らの働きによって、エルヴィスは無事、ブラックストーン城の城主として認められたのである。
……勿論、これはエルヴィス側の要望が比較的温和だったこともあるだろう。エルヴィスは、『慰謝料とかはもう要らない。刑務所はこのまま続けてほしいし、俺が管理するつもりもない。場所は無償でずっと貸し出す』と条件を申し出たのだ。
つまり実質、エルヴィスのものになるのはブラックストーン城のおよそ半分程度……囚人が活動する範囲の外、今まで諸々の管理や事務作業が行われていた棟と、所長室や看守達の宿舎がある棟、ということになる。
この案は、アレックスが出してくれた。『看守用の宿舎くれえ、別で建てろ!隙間風がひでえんだよ!んで、もぬけの殻になった城はお前にくれてやるから!』と、自ら所長室を引き払ってくれたのだ。
クラークや他の看守達も、『まあ、この城にこだわりは無いので……』と、即座に城を引き払ってくれた。おかげで、エルヴィスが住み着くための棟は、比較的すぐに開放されたのである。
……そして、交流所も、叶った。
「ブラックストーン刑務所は今のままの、そんなに大きくない規模で運営して、その横で、人間とエルフの為の交流所をやるんだ。今まで所長と看守達が使ってた棟をちょっと改装すれば、場所は十分にある」
エルヴィスが住む場所は、そう広くなくていい。所長室とその近くの部屋を少々改造して使えば十分だろう。……丁度、所長室はかつてグレン達が使っていた執務室で、その近くの客室だった場所が、エルヴィスの部屋だったのだ。
「ところで……刑務所の隣で交流所なんてやって大丈夫なの?」
「……まあ、そこは揉めた」
それからエルヴィスは交渉の時のことを思い出して、少々渋い顔になった。
そう。揉めたのだ。当然である。刑務所はアミューズメントパークではない。勝手に施設を隣接させるな、という声はいくつも聞こえてきた。だが……前例があったため、反対意見をねじ伏せることができたのである。
「ああ。ほら、前、ムショに図書館を併設したって話はしただろ?あれが役に立った。あれで前例ができてるから、今回の案も無事に通ったらしい」
「成程、図書館ね。それなら聞いたわ。ほら、最近まで森の近くに居た、タンバリン叩いてる人間から」
「あいつか……そういえば確かに、あいつの図書館があそこに入ったんだもんな……」
エルヴィスは『おお、タンバリンマスター……』と口ずさみ、リリエもそれに合わせて『そのタンバリンの音が妙に頭に残る、ららららら……』と歌う。……レナードの歌は、エルフの里にまで流行もとい浸食しているようである。
「それで、交流所って、どういうことやるの?」
「最初は利益重視で交易するのがいいだろうと思う。交易だったら、ブラックストーン領とやってたこと、あっただろ?もう100年以上前の話になるけど……」
エルフと人間の交流など、初めから交流の為に行うべきではないだろう。別に目的があって、あくまでも、交流はその副産物であるべきだ。その方がきっと、長続きする。
「ポーションはアイザックが作ったやつが出回ってるけど、相変わらず、エルフ製のポーションは評判がいいみたいだぜ」
「へー。じゃあ、久しぶりに私もポーション、煮込んでみようかなあ。あっ、確か、人間は猫の耳が生えるポーションとか、好きなんだっけ?」
「多分好きだろ。人間って大抵、変なもの好きだぞ」
猫の耳が生えるポーションは、まだ、人間は開発できていなかったはずである。人間の国に持って行けば、きっと楽しんでもらえることだろう。人間はああいう類のものが好きなのだ。多分。
「人間の国からエルフの里へ売りたいものもあるだろうし、そういうもののやり取りをしてたら、自然と仲良くなれるだろ、多分」
「そうねえ。要は、100年くらい前にブラックストーン領とやってたことの繰り返しでしょ?なら、きっと上手くいくわ」
不安はあるが、とにかく、やってみるしかない。エルフ達は100年間、人間達との関わりを減らしてきた。人間達はすっかりエルフの存在を忘れてしまっているかもしれない。
だが、少なくともエルフの方は、まだまだしっかり覚えている。人間達と仲良くやってきた記憶はたった100年前のものだ。それに、つい最近、森のそばに住んでいた人間達と関わり合っていたばかり。人間達の方にも、エルフを受け入れる土壌が多少、できていると期待できる。
……それに、もし上手くいかないことがあっても、エルヴィスはのんびりやるつもりだった。
ここまで100年以上かかったのだ。なら、もう100年程度かかったとしても構わない。そんな気分で、エルヴィスは人間とエルフの未来を夢見て、ついつい笑顔になってしまうのだった。
「……と、まあ、そんな具合でやっていこうと思ってる、って報告でした、っと」
一通り話して、エルヴィスは息を吐いた。
これまでのことを話し、これからのことを話し……随分沢山話したような気がする。ここ最近のエルヴィスは、専ら、沢山喋ってばかりだ。
沢山話して、多少、疲れた。だが、エルヴィスを満たしているものは、疲労ではなく、達成感と幸福感だ。
「ま、おめでとう、エルヴィス。ずっと夢だったんだものね」
「うん。やっと……やっと叶った、んだもんな」
そう。夢が、叶ったのだ。やっと。
一度忘れてしまう程に長い時間がかかってしまった。初めての人間の友達は死んで久しく、つい最近の友達ですら、死んでしまったり、老いてしまったり。
それでも……それでもエルヴィスの夢は、叶った。
今までのすべては、無駄ではなかったのだ。
じんわりとした高揚感に包まれながら、エルヴィスはリリエのケーキにようやく手を付ける。
ケーキは素朴なパウンドケーキだった。森の木の実や干した果物を刻んでたっぷりと混ぜ込んだものだ。酒を効かせてあって、どっしりと重厚で豊かな香りが何とも魅力的である。
そんなケーキを一口、口に入れて……エルヴィスは、きょとん、とした。
「あれ、お前のケーキ、世界一美味い気がする」
「そう?……え?ほんとに?」
「うん。祝祭の日にグレンが焼いてくれた奴を超えてきた」
エルヴィスは妙にふわふわとした心地でケーキを味わう。……やはり、妙に美味い。幸せな味がする。
ずっと昔、エリンの誕生日を祝うために焼かれたケーキにも似て、レヴィの結婚式で振る舞われたケーキにも似て、ヴィクターがアイクと共にローズのために作ったケーキにも……グレンが、祝祭の日に焼いてくれたケーキにも、似ている。
そうか、とエルヴィスは、気づいた。
もしかすると、ケーキは……嬉しいことを祝う時、一番美味いのかもしれない。
思えば、人間は祝うためにケーキを用意していた。人間は、節目節目の祝いの度にケーキを焼いて、皆で分け合って食べる。
その時、人間達は皆、楽しくて、幸せで、希望に満ちている。……美味しいケーキは、そんな日々のためにある。
だから、美味しいケーキは……過ぎ去ってしまった、けれど確かにそこにあった、幸せだった日々を、思い出させてくれるのだ。
「……えっ、エルヴィス、どうしたの!?急に悲しくなったの!?」
「え?」
気が付いたら、エルヴィスの膝の上に、ころん、と宝石が落ちていた。
「あ、やべ……」
慌てて、溢れてくるそれを止めようと努力してみるが、どうにも、止まってくれない。
思い出してしまったのか、気づいてしまったのか。とにかく、急に堰を切ったように溢れてくる気持ちが、後から後から溢れてくるのだ。忘れようとしても、思い出さないようにしても、どうにも。
「……まあ、止めなくていいんじゃない?」
エルヴィスが袖で目元を押さえていると、リリエがそう、言い出した。
「見てる人間は居ないわけだし。ね?……里に帰ってきた時くらい、いいじゃない」
エルヴィスは森の色の目を見開く。そこからまた、ぼろぼろと溢れ出た涙が床に落ちては、かつん、こつん、と跳ねて、転がっていく。
……許されてしまったら、いよいよ、止まらなかった。
思い出してしまう。嬉しくて、悲しくて、懐かしくて……只々、幸せだった。全部ひっくるめて、幸せだった。
幸せだった。それらが大切で、心の底からずっと、愛していた。
愛している。
300年以上前からずっと、ずっと、エルヴィスは人間を愛している。
「わあー、綺麗……」
エルヴィスがひたすら宝石を零している間、リリエは床に転がったそれを1粒、大切に拾い上げて、掌に載せてじっと見つめる。
「なんだか、見てると幸せな気分になってくるわね、これ。悲しいけれど、悲しいだけじゃなくて、じんわり温かくて……不思議」
滲んで歪んで碌に見えない視界で、エルヴィスもリリエの掌の上のそれを見る。宝石は、きらり、と小さく光を反射して、煌めいた。それがどうにも、眩しい。
「ねえ、エルヴィス。人間も、こういう気分の時に泣くの?」
「……かもな」
エルヴィスはしばらく、そのままでいた。リリエは黙って微笑んで、床に落ちては転がるそれらを拾い集めてくれた。
宝石が幾粒も幾粒も、ケーキの皿の横できらきら輝いていた。