王国歴24年:グレン・ブラックストーン
この5年で、ブラックストーン領には大きな変化が2つあった。
1つは、エルフの里との交流の開始である。
これは人間とエルフの間で初の試みである。
何せ、エルフの森はずっと、人間を排除して生きてきた。人間の生きる速さはとにかくエルフと比べて速くて速くて、彼らが森に入るとエルフの文化が全て消えていってしまうのだ。また、人間の中にはエルフを食い物にしようと考える者が少なくない。よって、エルフは人間を警戒し、人間との交流を絶ってきた。
だが、この度、エルフ達はひっそりと、ブラックストーンの人間達と交流することにした。
エルフ達は人間達にポーションや森の薬草、果物やキノコなどを譲ってやり、人間達は鉄を加工した道具や絡繰り細工を譲る。そしてお互いにお互いの話をして、異なる世界に住む者同士、大いに楽しむ。
……これの実現は、容易ではなかった。
森から出て来たばかりのエルフ達は、警戒心の無い獣のようなものだ。エルヴィスが初めてグレンに会った時、罠にかかっていたのがよい例だろう。そんなエルフ達を安全に保護することは、人間側からして、中々大変なことであった。
また、エルフ達が人間を少しばかりエルフの森に招いたこともあったが、これも中々大変なことであった。何せ、エルフ達はのんびり屋なので、人間達がそれに困惑したのである。『え?5か月くらい滞在していくだろ?』と首を傾げるエルフ達に、人間達はそれはそれは困っていた。
そんな交流が無事、細々と続いているのは、互いの試行錯誤があったからである。
初めに、領主であるグレン・ブラックストーンその人が、エルフの里を訪問した。『今後のブラックストーンとエルフの里の互いの発展と安寧のため!』と言ってはいたが、グレン自身の好奇心による行動である。
そして、その時点で人間とエルフが交流する上での様々な問題点を見つけ出し、エルフ達と協議を重ねて互いに取り決めを作っていった。
そうしていく内に、エルフが人間の国を訪れることも増え、エルフ達には人間がもたらした罠の作り方や鉄の道具が広まっていき、人間達の間にはエルフのポーションが徐々に流通し始めた。
エルフ達は鉄を扱うのが下手だが、実際の道具を触ってみて『まあこれはこれで悪くない』と満足した。また、人間達が作る絡繰り細工は、エルフ達に大変好評で、『人間っておもしろいなあ』『おもしろいなあ』とにこにこ顔のエルフが続出したものである。
また、人間達にとって、エルフがもたらすポーションは奇跡の薬として珍重された。
即座に傷を治し、痛みを和らげ、或いは眠りを齎したり体を温めたりするポーションは、人間達を大いに救ったのである。
そして、エルフという珍しく楽しく、そして不可思議な隣人を得たブラックストーン領には、もう1つ、変化があった。
……それは、領主グレン・ブラックストーンの結婚である。
『エルヴィス、相談があるんだが』とグレンが持ちかけてきた時、エルヴィスはそれはそれは表情を明るく輝かせた。
何と言っても、グレンの手にあったのは見合いのための肖像画だったからである。エルヴィスは人間の国での生活の中で、『人間はこういう風にして番を決めるらしい!』と学んでいたのだ。
……が、そこでグレンは、『この領地と手を結べればブラックストーンはより安泰なのだが』『しかしこちらの娘は王家との繋がりがあって』と相談してきたので、エルヴィスはしょんぼりした。
急にしょんぼりしたエルヴィスを見て不思議がったグレンであったが、エルヴィスが『人間の恋ってもっとウキウキして楽しいやつだと思ってたのに!』と言うのを聞いて、大いに笑った。妙に夢見がちなエルフの姿がグレンには面白かったらしい。
……だが、エルヴィスの言葉も一理ある、と気づいたグレンは、その後、ブラックストーン領の利益より、自分の幸福を重く見て伴侶を探した。
そうしてグレンは、グレンとの見合いに来たというのにエルヴィスを見て『まあ!エルフの方なんて初めて見たわ!素敵!』とエルヴィスの方に興味を示し、エルフの里の話を聞きたがった好奇心旺盛な令嬢を伴侶に選んだのである。
好奇心旺盛な令嬢は、グレンに忘れかけていた好奇心を思い出させたらしい。グレンは令嬢との見合いの後、少々興奮気味にエルヴィスにそう話して聞かせた。
グレンに選ばれた令嬢……カリーナ・フォスターは『何故私が選ばれたのかしら……?』と不思議がっていたが、グレンが逢瀬の度に『野原の散策』だの『近所の山の鉱窟を見に』だの、およそ普通の令嬢との逢瀬に選ばないであろう場所ばかり選ぶのを見て、『成程!』と目を輝かせるようになった。
ごく小さな領地の次女であったカリーナからしてみれば、今を時めくブラックストーンの領主に見初められたことは正に玉の輿であったが、カリーナは『グレンさんが農民だったとしても大好きになっていたに決まってるわ!』と笑っていた。
グレンとカリーナは、何度も会う内に、すっかり息の合った様子を見せるようになった。互いに変わり者で、貴族としては珍しいほどに好奇心旺盛で、新しいものには忌避感より興味と関心が勝る2人だ。仲良くなるのは当然のことであった。
初めの内、2人の原動力は好奇心であり冒険心であったらしい。だが……そんな2人も逢瀬を重ねていく内に、互いの好奇心以外の面にも惹かれ合うようになっていった。
2人がどこか初々しく、かつ睦まじく、馬に乗って野原へ散策に出ていくのを眺めたエルヴィスは、『こいつらお似合いだ!』とにこにこ笑顔であった。
……そう!エルヴィスはこういう人間の恋模様を見たかったのである!
かくして、グレンはカリーナと結婚した。
結婚式には、耳をフードで隠した謎の集団も参加した。言わずもがな、エルフ達である。
エルフ達は人間の結婚式という、非常にめでたく楽しく珍しい式典を見て、大いに喜び、大いに楽しみ、そして大いに2人を祝福した。
エルフ達が揃って祝福したものだから、グレンとカリーナの結婚式は、大層見事なものになった。
空は美しく晴れ渡り、遠くには虹まで掛かっていた。式場の周りには珍しく美しい花が咲き乱れていた。白い鳥の群れが飛んできたと思ったら、花吹雪が空から降り注いだ。……エルフ達の喜びように、グレンもカリーナも大いに笑っていた。エルフも、笑っていた。事情をよく知らない参列者も、珍しく美しい光景を見て目を輝かせていた。
……こうして、2人の人間は、多くの人間とエルフ達に祝福されて結婚したのである。
そうして……そんな結婚から3年ほどが経過した、今日。
ほわあ、ほわあ、と、柔くも力強い泣き声が、ブラックストーン城に響く。
ブラックストーン夫人となったカリーナは、ついでに母にもなっていた。
「ほわああああああ……赤んぼだあ……赤んぼだあ……」
そして、グレンとカリーナの子が生まれて、数日。エルヴィスも生まれたての赤子を見ることになった。
エルヴィスの目は、人間の赤子に釘付けであった。何せ、赤子など初めて見る。こんなに柔らかく小さな生き物が、その内成長してグレンやエルヴィスと同じくらいの大きさになるのだ。そう思うと、なんとも不思議で不思議で、目が離せない。
「ふふふ、やっぱり!こうなると思ったわ!エルフは赤ちゃんを見る機会があんまり無いでしょう?エルヴィスさんにお見せしたら、きっと新鮮な反応を見られるって思ってたのよ!ほら、かわいいでしょう?」
「かわいい!いや、かわいいっつうか、なんだ!?これ、なんだ!?見てて心配になる!」
産後の疲れもあるだろうに、それでも『エルフに赤子を自慢してみたい』という好奇心が勝ったらしいカリーナに敬意を表しつつ、それでもエルヴィスはやはり、それ以上に赤子に夢中である。
「なんだこれ。ちっちゃい。やわらかい……うおっ握った!」
「落ち着きが無いな、エルヴィスよ」
「落ち着いてられるか!だって、赤んぼだぞ!?こんなにちっちゃくて柔らかい生き物なんだぞ!?」
「まあ、お前は是非そのままでいてくれ。お前の落ち着きのない様子を見ていると、俺は却って落ち着ける」
そして一方のグレンは、大らかに落ち着いていた。いつの間にやら、グレンは領主であり、父である生き物になっていたのである。好奇心は持ちつつも、それ以上にどっしりと落ち着いて、まるでブラックストーン城をそのまま人間にしたかのようであった。
「……お前が落ち着いてると、なんか悔しいなあ」
一方、エルヴィスはそんなグレンを見て、少しばかり、寂しさを覚える。
グレンはもう、立派に大人であった。落ち着いていて、頼りがいがあって……あの頃あんなに困りながら執り行っていた政治も、今や慣れた様子で悠々とこなしている。
そんなグレンの成長は、エルヴィスにとって喜ばしく……同時に、寂しいものでもあった。
エルフは何時だって、人間に置いて行かれるものだと、分かってはいた。
人間とエルフの寿命は大きく異なる。だから、エルフは人間に置いていかれる。グレンの父が死んだあの日、その実感はより強く、はっきりとした形を成した。
だが、それ以上に……死でもない、ただ流れていく日々、その生活の一片一片でさえ、人間はエルフよりずっと早く生きていくのだ。
領主になり、夫になり、父になって……かつて、少年からようやく青年になったばかりであったグレンも、34歳の人間として立派に生きている。
34歳の人間は、立派に一人前であるらしい。だが、エルフにとって、34歳と言えばまだまだ子供である。エルヴィス自身、18の頃からほとんど見た目は変わっていない。もう少し身長が伸びたらいいなあ、と思ってはいるのだが、一度グレンに離された身長の差は、未だ、埋まる気配がない。
……エルヴィスも、人間の国に来て様々なことを学び、成長した自覚はある。
だが、グレンの進む速度に、ついていけない。
……それがどうしようもないことも、分かってはいる。分かってはいるが……その事実は静かに、エルヴィスの胸の内に影を落としている。
「ところで、この子の名前、何にするんだ?」
胸の内に落ちた影からそっと目を逸らして、エルヴィスはそう、尋ねる。目の前には人間の赤子という、どんなエルフでも一目見た途端に『なんだこれ!』となる生き物がいるのだ。こんなに珍しいものが居るのに、1人沈んでいるのはあまりに勿体ない。沈んでいるくらいなら、祝い、喜んでいたい。
「名、か。ふふ、そうだな……」
エルヴィスが尋ねると、グレンとカリーナは含み笑いを浮かべながら、互いに目配せした。そして。
「エリン、と名付けようと思っている。俺と、カリーナと、あと、お前の名から文字を貰ったぞ」
「……そっかあ」
エルヴィスは目を輝かせて、エリン、と名付けられた小さな人間を見る。
不思議なものだ。本当に、不思議だ。こんなに小さな生き物が、あと30年もすれば立派に大きな人間になっているのだから。
エリンから顔を上げてみれば、寝台の上、エリンを抱くカリーナと、その傍らで穏やかな笑みを浮かべているグレンの姿が、窓から差し込む淡い光に照らされて、酷く美しく見えた。
そう。100年後にはもう居ないであろう人間達が、酷く、美しい。
「人間って、綺麗な生き物だなあ」
だから、エルヴィスはぽろりとそう零す。ついでに涙まで零れそうになって、慌ててそれを抑える。エルフは簡単に泣いてはいけないのだ。
「どうした、急に」
「エルヴィスさん、大丈夫?どこか具合が悪いんじゃ……」
「いや、大丈夫だ。なんか、不思議な気分になっちまって」
俯いて、感情の波をやり過ごす。喜びなのか、悲しみなのか、寂しさなのか。よく分からない感情の波は、エルヴィスが数度瞬きして数度呼吸をする中で、次第に落ち着いていった。
……そうして改めて、人間達の姿を見る。
美しい人間達を見て、笑みを浮かべる。
沈んでいる時間はない。彼らの時間は、短い。ならば、共に在る間、共に楽しいことや嬉しいことだけを探して生きていようと思う。
「よろしくな、エリン」
赤子の手をつつけば、赤子の柔い手が、思いの外強く、エルフの指を握る。
その力強さに励まされるようにして、エルヴィスは笑みを浮かべた。
……エルヴィスはこの時ようやく、人間とエルフが付き合うということがどういうことかを、知ったような気がした。