王国歴8年:グレン・ブラックストーン
晴れた日だった。からりとした風が夏の終わりの香りを運んで吹き抜けていく。
エルヴィス・フローレイはその香りを胸いっぱいに吸い込んで、空を見上げた。
青く澄み渡った空は、只々広く、美しい。何故なら、ここには空を遮る木々が無いから。
……森の木々に遮られない空は、エルフの森を出たばかりのエルヴィスにとっては随分と新鮮だった。
エルヴィスはこの夏で18になった。それを契機に、エルフの森を飛び出してきたのだ。
エルフの森は悪い場所ではないが、若いエルヴィスには少々、退屈だった。自分がこれから千年近い時を生きるのだと知っているから余計に、息が詰まりそうだった。
他のエルフ達は、エルヴィスの衝動を不思議がった。『何をそんなに慌てることがあるんだ』と。
人間の国へ行くのだ、と言って森を出てきたエルヴィスは、エルフの中では変わり者だった。エルフは生まれてから死ぬまで、千年近い時をずっと同じ森の中で過ごすことも珍しくないのだ。その中では確かに、エルヴィスは変わり者だったかもしれない。
夏の香りがする土地を歩きながら、エルヴィスは周囲をきょろきょろと見回す。
土地は、あちこち荒れ果てていた。
枯れ井戸の残骸。割れ砕けた陶器の破片。家の壁だったのであろう漆喰の塊……そういったものが散らばる中に、微か、静かな死の気配がふわりと広がる。
これが人間の国か、と思いながら、エルヴィスは荒れ地を歩いていく。
エルフは人間の事情に疎いが、それでも人間の国が最近まで内輪揉めしていたことくらいはエルヴィスも知っている。これがその名残であろうことも、分かっている。
「まあ、まだ8年だもんなあ」
エルフであるエルヴィスはそう呟いてみるが、実際、エルヴィス自身には8年がどの程度の年月なのか、まだ、よく分かっていない。
エルフにとって8年とは、ほんの少しの間の時間である。だが、エルヴィスにとっては、人生の半分近くを占める時間だとも言える。エルヴィスにとっての8年は、エルヴィスが長生きすればするほど縮んで古ぼけて、些末な時間へとなり果てていくのだろうと思われる。だが、きっと、人間にとってはそうではないのだろう。
漠然とした思いを胸に、廃墟を歩く。エルヴィスの目は、自然と人間を探していた。
そう。人間だ。
折角、エルフの森を出てきたのだ。人間に会ってみたい。エルヴィスは生まれてからの18年間、人間に会ったことが無いのだ。
いつだったか、今のエルヴィスと同じように森の外を旅してきた変わり者のエルフが、話してくれたことがあった。そのエルフ曰く、『人間は、炎のような生き物だ』ということらしい。
時には風に煽られ一瞬で燃え尽き、時には激しく燃え上がって強く輝く。いずれにせよすぐ消えていってしまう、儚い生き物だ。……だが、だからこそ、その命は温かく輝いて、美しい、と。
そう。エルヴィスは、人間に対する憧れを胸に、森を出てきたのだ。人間とはどんな生き物か、早く見てみたい。会って、話してみたい。命の短い彼らが、何を思って生きていくのか、知りたいと思った。千年を生きる自分にはきっと理解できないものを理解できる彼らと、会って、話してみたかった。
……だが、人間が居ない。
夏の日差しの下、荒れ地にある生き物の気配といえば、小さな虫と、地面にへばりつくように生えている植物のものくらいである。
「この辺りの人間は全員死んじまったのかなあ」
荒れ地をとぼとぼ歩きながら、エルヴィスはしょんぼりと呟く。
この辺りの荒れ果てようを見る限り、ここは放棄された土地なのだろうと推測できる。戦いがあって、ここで多くの人間が死に、そして今尚荒れ果てた土地だけが残っているのだろう。
エルフは植物が無ければ生きていけないが、人間も似たようなものらしい、と聞いたことがある。人間もまた、植物の生きられない土地で生きることは難しいのだ、と。ならばこの土地は早々に抜けてしまった方がいいだろう。人間は居ないようだし、エルヴィスも植物が無い所に長居したくはない。
……そうして、数日ばかり歩いただろうか。エルヴィスはふと、不思議なものを見つける。
「植物だ!」
荒れた土地の中に、緑が見えたのだ。ただ、自然にそこに芽吹いたものではないように見えた。なんだろう、なんだろう、と思いながら近づいてみれば……それは小さな畑であった。
エルヴィスの胸は高鳴った。そこに植物があるということ以上に、人間の気配に喜んだ。
畑があるということは、近くに人間が住んでいるということだろう。こんなに器用に畑を作る生き物は、人間かエルフくらいしか居ない。
エルヴィスはわくわくと、辺りを見回した。畑の周りに家屋でもないだろうか、と見回して……そして。
ぱきり、と枯れ枝か何かを踏んだその時。
ひゅっ、とエルヴィスの上に何かが降ってきた。ぎょっとして逃げようとするも、もう遅い。
「な、なんだ!?」
エルヴィスはあっというまに、網に絡めとられ、その場でじたばたすることしかできなくなってしまったのである。
それから少しばかり、じたばたしていたが、網が外れる気配は無い。網は珍しいことに、細い細い鉄の線を何本も撚り合わせて作ったらしいもので作られていた。植物由来の糸でできていればエルヴィスにもやりようが色々とあったのだが、鉄相手では、対話もできない。エルヴィスは網に絡まったまま、困り果ててしまった。
だが。
「ふはははは!まんまとかかったな、賊め!」
声が聞こえて、なんとか、エルヴィスはそちらを向く。
……そこにあったのは、太陽の光を背に堂々と立つ姿。
きっとあと数十年もすれば死んでしまうのであろう儚い生き物だ。だが、その儚さをまるで感じさせない佇まいで、それはそこに立っている。
生き生きとした、命の強さを感じさせる瞳で。
エルヴィスはその姿を見た時、旅に出ていたエルフの話を思い出していた。
『人間は炎のような生き物だ』と。
……その通りだ、と思った。眩しくて生き生きと温かい生き物。人間、という未知の生き物を見て……エルヴィスの目が輝く。期待と興奮に、胸が高鳴る。
「さあ、領民から食料を奪い続けた罪!償ってもら、うぞ……?」
そして、こちらを見ていた人間もまた、エルヴィスの様子に気づいたらしい。妙なものを見る目で、エルヴィスを見た。『何故こいつは捕まっていながらこのように嬉しそうなんだ?』とでも言いたげなその表情を前に……エルヴィスは遂に、興奮を抑えきれなくなった。
「……本物の人間だー!やったー!」
「ま、待て!本物の、とは何だ!?偽物の人間でも居るのか!?」
叫んで、笑い声を上げて、網の中でじたばたしながらエルヴィスは大いに喜んだ。
生まれて初めて人間を見たエルヴィスは、最早、自分が網の中に囚われていることも、人間が困惑しながらも槍を構えていることも忘れて、只々喜んだ。
エルヴィスが生まれてから18年の中で、今日が一番刺激的な日だった。
それからエルヴィスは一頻り喜び、そして、その後は只々じっと、人間を見つめることになった。
「おい!お前は何者だ!名乗れ!」
一方、人間はエルヴィスを大いに警戒していた。『何故こいつは笑っているのだ!?』と言わんばかりの困惑と少々の怯えが見て取れる。それすらもエルヴィスには新鮮で、楽しいのだが。
「俺はエルヴィス・フローレイ!今年で18になる!人間の国を見に来たエルフだ!」
だが、これ以上人間を観察していては、印象が悪くなるかもしれない。人間はエルフよりずっとせっかちなのだから。エルヴィスはそう思い出して、慌てて名乗った。堂々とする人間に負けないように、堂々と胸を張って。……堂々としていても、網に絡まっていることには変わりがないのだが。
「……えるふ?」
そして人間は、エルヴィスの名乗りに、またも困惑したらしい。
「ああ!エルフだ!……ん?人間は俺達のこと、そう呼ぶんじゃなかったのか?森の民、って言った方が分かりやすいか?」
もしや、通じなかっただろうか。困惑する人間の様子を見る限り、これは伝わっていない気がする。エルヴィスは困った。
「……実在したのか」
「あ、うん。ここに居るぜ」
だが、人間もまた、エルヴィスへそっと近づいてくると、未知のものを興味深く見るような目で、じっと、網の中のエルヴィスを見つめた。
……正確には、エルヴィスの耳を、見ていた。エルヴィスもそれに気づいたので、髪を掻き上げて、耳が見えるようにしてやった。確か、人間はエルフを耳で見分けるのだと聞いたことがある。
そう思ってエルヴィスも人間の耳を見てみると、そこには丸っこく、可愛らしい耳があった。自分達とは随分と違う耳だ。人間って面白いなあ、とエルヴィスはまた、目を輝かせる。
「ほ、本物か……?」
「本物だって……あっ、ちょ、ちょっと待て!触るな!引っ張るなって!」
人間が恐る恐る、網の隙間から指を出してきて、エルヴィスの耳を、ふに、とつまんだ。エルヴィスはそれに驚き、身を竦め、ついでにやってきたくすぐったさに身を捩る。
「す、すまない。痛かったか」
「いや、痛いんじゃなくてくすぐったい……あれっ、もしかして人間は耳を触られてもくすぐったくないのか!?それとも、人間の間では耳を触るのって普通のことなのか!?」
「い、いや、耳を見る必要があることなど、滅多にないからな、普通ではないが……」
人間は慌ててエルヴィスの耳から手を離し、只々、困惑した顔でエルヴィスを見つめる。エルヴィスも初めての人間との邂逅に、今更ながら少々緊張してくる。
「あー、ええと……うむ、その、なんだ」
人間もまた、困惑しながらも居住まいを正す。そして、何やらよく分からないが、といった様子で、言った。
「俺はグレン・ブラックストーン。この土地の次期領主だ。まあ、よく分からないが……ようこそ、エルフの客人。何もない土地だが、ゆっくりしていかれよ」
エルヴィス・フローレイはこうして人間に出会った。未知への期待に、瞳を輝かせて。