自由を歌う鳥*3
それからまた季節は廻り、春は初夏へと変わっていく。
そして、それに伴って小さな花壇は賑わいを見せていた。
「大分色々植わったなあ。ここ、薔薇庭になるぞ」
「随分増えたね。鳥達のおかげだ」
そう。鳥達は、見事にやってのけた。薔薇の枝が何本も、このブラックストーン刑務所へ運ばれてきたのである。中には既に花が咲いている枝もあり、刑務所の外は丁度、薔薇が咲き始める季節か、と、グレンは外を懐かしく思った。
「どうする?ここが盛大に薔薇でいっぱいになったら、流石の看守も驚くだろうが」
「でも許可は得てるんだ。文句は言わせないぜ」
看守達も、さして意味も考えず許可を出したのだろうから、急に薔薇の花が咲き乱れ始めたら大変に驚かれるだろう。間違いなく。
だが、現状、数年後にはそれが実現してしまう見込みだ。薔薇の枝は丁寧に切り戻されて、丁寧に植えられて、そして、エルフの声によって根を張ろうと頑張り……なんと、全てが根付いた。
今まで趣味でやってきた園芸の経験上、これだけの本数があったら流石に数本は根付かずに腐ってしまうだろうと思っていたグレンだったが、エルフと一緒に居ると今までの経験が役に立たないことがままある。
どのみち、喜ばしいことには違いない。いずれ、この殺風景な刑務所が薔薇の花でいっぱいになったら楽しいな、などと思いながら、グレンは他の植物の世話も進めていく。
「ローズマリーと野薔薇は元気だな。イラクサも……ああ、イラクサは植え替えてやった方がいいな。ここで茂るとローズマリーと喧嘩する」
「なら早い方がいいな。よし。今植え替えるか。……おーい、イラクサ。お前、ちょっと歩いてこっちまで……って訳にはいかないな、流石に」
これでイラクサが歩き始めたら流石のグレンも途方に暮れていただろうが、イラクサは人の手が無ければ移動できないらしかった。グレンは大いに安心した。ひょこひょこと歩くイラクサなど、どう考えても、まずい。色々と。
そうして花壇の手入れを進めていく傍ら、ふと、エルヴィスが尋ねてきた。
「ところで、手紙、返事は来たか?」
そう。春先に出した手紙だが、その返事は未だ、返ってこない。
グレンは今日も屋上に居た。
晴れた日は必ず、一度は屋上へやってきた。そして鳥に自分のパンを分け与え、置いていってくれた薔薇の枝や花の種を集めて、それから、そこに手紙が無いことに落胆した。
「鳥がどこかで迷子になったのかもしれない」
呟きながら座っていると、そこに鳥がひょこひょこと近づいてきて、グレンのふくらはぎのあたりにすり寄ってきた。ふわふわと柔らかく温かい生き物を撫でてやりながら、グレンはまた考え始める。
「鳥が手紙を途中で落としたのかもしれないし、行き先を忘れたか、帰り道を忘れたかしたのかも」
今や、多くの鳥がグレンに懐いている。エルヴィスと一緒に居ることが多いから安心されたのか、それともあまりにグレンが頻繁に来るから慣れたのか。
グレンは馴染みとなった手触りを手のひらに感じながら、鳥を撫で、鳥は気持ちよさそうにぴぴぴ、と鳴く。
「いや……そもそも返事は必要ない手紙だったね」
……そうして、グレンは思考を打ち切った。
元々、返事は期待していない。既に愛想を尽かされていたとして、至極真っ当な結末だと思えるし、あの手紙で愛想を尽かされたとして、むしろ願ったり叶ったりだ。
恋人には、自由になってほしかった。
グレンを待っていたら、10年を失うことになる。出所したグレンが冤罪を主張してもどうせ世間には聞き入れられないだろうし、そんなグレンには、真っ当に恋人を養うことはできない。
だから別れを告げた。愛する者が、自分のせいで不幸になるのを見過ごすわけにはいかなかった。
それくらいの誇りと優しさくらいは、まだ、グレンの中に残っているのだ。
「よう」
そこへ、エルヴィスがやってくる。彼は今日ものんびりとして、落ち着いていて、大木のようにも見えた。まるで、彼を包む時間だけはゆっくりと流れているようだ。エルフというもの自体が、本来こういうものなのかもしれない。
「返事、まだ来ないのか」
「ああ……いや、多分、『もう』来ないな」
グレンはため息を吐きながら、そう言った。自らの中にあるものを断ち切るように。
「途中で何かあって届かなかったかもしれないな」
「なら、もう一通出してみるか?」
「いや……もう、いいかな」
グレンはエルヴィスの提案をそっと押し退けて、ふ、と息を吐く。
「祈るのに疲れたんだ」
見上げた空は、今日も青い。初夏めいて太陽の光は徐々に強まっており、今日も、日向に居ると少し暑いくらいだ。
だが、それだけだ。
空には何も無い。
救いも希望も、何も無い。人が勝手にそれらを見出して、勝手に期待して、勝手に裏切られるだけだ。
「あー……お前は神を信じてないんだったか」
ふと思い出したように、エルヴィスはそう言って、うーん、と唸った。それからたっぷり10秒ほどは悩んでいただろうか。
「えーと、何だ。その、理由を聞いても?」
ようやく切り出された言葉を聞いて、グレンは思わず、笑ってしまった。200年以上生きるエルフでもこのように戸惑うというのが、なんともおかしい。どうせこちらには、大した理由も大した話も、ありはしないのに。
「そうだな……理由、か。まあ……元々は私も、敬虔な信者だったよ。だが……神が居るなら、私はこんなところに居ないからな」
グレンは笑って、努めて何事もなく、そう言った。
「……もしかして、冤罪ってことか」
「ああ。私は何もやっていない」
思い出すのも久しぶりだな、と思いながら、傷を覆う瘡蓋を剥がすような気分で、グレンは話し始める。
「何もやっていないが、強姦罪で投獄されている。取り調べは最初から私を犯人だと決めつけたものだったし、私が何を言ってもまるきり聞き入れられなかった。私の弁護士はまるで仕事をしなかったし、神が正しい裁きを見守っているという裁判所でも有罪判決が出た」
「……そうか」
エルヴィスはなんとも痛ましげな顔をする。
彼自身、エルフと人間との寿命の違いを感じる機会は多いのだろう。それ故に、人間にとっての1年2年、そして10年や20年がどれほど重いかを、よく知っている。
「一度刑務所に入れられてしまえば、もうそれを証明する手段すら講じられない。精々、出所後に足掻くくらいで……そうしたって、失われた時間も若さも仕事も信用も、戻ってはこないが」
グレンは自分に言い聞かせるように、諦めを確かめるようにそう言う。言ってみて、やはり言葉に出すということは特別なことなのだな、と思う。どうも、自分の中で曖昧だったものが、確かなものへと変わっていく。聞いている他者が居るなら、余計に。
記憶の反芻は、痛みを伴いながらもどこかすっきりとした気分にさせてくれた。
無論、それだけだ。
何も解決しはしない。
グレンの冤罪は晴れないし、明日も明後日も、グレンはこのブラックストーン刑務所に居るだろう。
そして10年後、ブラックストーン刑務所を出所した後は、仕事を失い、恋人も失っている。
それは何も、変わらないのだ。
「……なら庭だな」
唐突に、エルヴィスはそう言った。
何のことだ、とぽかんとしている間にも、エルヴィスの話は続く。
「花壇を作ろう。もっと色んな植物を植えよう。お前が好きなやつを、とにかく増やそう。それがいい。そうだな、薔薇か?ガーデニアか?或いは……ええと、お前は何が好きなんだ?」
その表情を見て、グレンは、なんとも不思議な気分になる。
……今、初めてエルヴィスが、十代か二十代の若者に見えた。それくらい、エルヴィスは動揺しているように見えた。いつもは大木のように落ち着いているエルヴィスが。200年を超えて生きているエルフが。動揺している。グレンを励まそうとして、必死に言葉を選んでいる。
『こんなこともあるのか』と、グレンはいっそ感心するような心地である。
「俺が言うのも何だが、碌な目に遭わなくったって、良いことが全くないわけじゃない。どんな荒れ地にだってヒースが咲くものだ。どんな時も、植物は俺達の友だ」
エルヴィスはグレンを励ますようにそう言って、それから、ふと、思いついたように表情を明るくした。
「ああ、そうだ、グレン。前も言った気がするが、お前が出所するときには、紹介状を書くよ。それを掲げて入れば、エルフの里にも入れるだろうから……そこで珍しい植物を手に入れて、花屋でもやったらどうだ」
「えっ?」
グレンは、驚く。
エルフの里、という、本来人間を拒む場所を真剣に勧められたことについても驚いたが……その先の話について。
花屋をやる、というのは、非常に魅力的な案に思えた。少なくとも、出所後、もうとっくに解雇されているであろう郵便局へ戻るよりも、ずっとずっと、いい。
まるで、雷に打たれたような気分だった。そんなことが許されていいのか、と思う気持ちと、『エルフの里の植物があればそれも可能だろう』という算段とが混じり合う。
「植物が好きなら、一度、行ってみてくれ。商売するにしろしないにしろ、お前はきっと、気に入ると思う。気の長い連中ばかりだから、飽きるかもしれないけれど……だが、お前が、その、やり直すんだったら、きっと助けになるだろうから」
不相応ではないか、と、グレンは思う。
グレンは自分のことを、『エルフの里に紹介されるほどできた人間ではない』と評価していた。真っ当に働いて、真っ当に生きてきたが、それだけだ。人間が踏み入ることを許されない場所に踏み入れるほど、特別な人間ではない。そう、思う。
だが同時に、希望を抱いてしまっても、いた。
「……いいのか?私なんかに、紹介状を書いて」
確認するように聞いてしまったのは、もうとっくに、グレンの心が動いていたからだ。
「ああ。お前のためなら、何枚だって書く。……もしお前が植物の友じゃなかったとしても、もう、俺の友だ」
笑うエルヴィスを見て、グレンはようやく、希望を取り戻した。
明日を生きる為の小さな希望ではなく、十年後、二十年後を生きるための、強く眩しい希望だ。
きっと、人間が人間として生きるために必要なそれを、グレンはようやく、取り戻したのだ。
「ありがとう、エルヴィス」
グレンはエルヴィスの手を、固く握った。
「何と言ったらいいか……」
うまく、言葉が出てこない。
伝えたいことは、山ほどある。この刑務所にやってきて、彼の存在は、不幸中の幸いだった。エルヴィスが居たから、腐らずにいられた。小さな庭を作って希望を見つけていられた。明日一日を生き抜くための希望が如何に大切か……日々に小さな楽しみを見出し、絶望せずにいられるということがどんなに素晴らしいことなのか、グレンはよく知っている。
そうしてその日その日を生きていれば、やがて、長い冬が終わって春が来る。
僅かな水と光があれば、植物は芽吹き、育ち、花を咲かせることだってある。石畳の隙間からでも。荒れ果てた土地からでも。刑務所の中でも。
「決めたよ。私はここを出たら、花屋をやる」
「ああ。それがいい。きっとお前に合ってるよ」
エルヴィスが我が事のように喜ぶのを見て、グレンは只々、嬉しく思う。
何故なら、大切な友人のために自分ができることを1つ、見つけたからだ。
「そして……ここへ、花の種や苗を寄付しにくるよ」
ぽかん、としているエルヴィスに、笑いかける。
「鳥よりは私の方が、その手の仕事に長けてるな。ずっと遠いところからも運んでこられるし、重い苗だって、運んでこられる。エルフの森の植物も、いくらか持ってこられるかもしれない。それなら、終身刑のエルフにも、楽しみが増えるだろう?」
「……考えたことが無かった」
エルヴィスは目を瞬かせると、徐々に表情を取り戻していき……やがて、満面の笑みを浮かべる。
「そうだな、最高だ!ああ、もう一度、森の植物に触れられるのか……!」
心から滲み出たような笑みを見て、グレンは心から喜ぶ。友人を喜ばせ、元気づけることができるのだ。これは中々面白く、嬉しいことだ。
「最初に持ってくる花は、エルフの里で仕入れた奴と……そうだな、アイリスにするよ」
ぴぴぴ、と鳥が歌う。その白い羽を撫でてやっていると、鳥はグレンの指を甘噛みした。
「アイリス?」
「ああ。私の一番好きな花は、アイリスなんだ」
恐らく、この刑務所に居る間は手に入らないであろう花でもある。現実的に考えるならば、植え込みに植えられた球根を掘り起こして盗み出すことでしか、手に入れることができないからだ。そしてそんな大仕事は、鳥達には厳しいだろう。
だからこそ、グレンはいつかここを出て、アイリスをエルヴィスに贈りたい。自分がこの刑務所に来た意味が、少しでもあったと思えるから。
「ああ……実のところ、お前が出所するのがちょっと嫌だったんだけどな。ちょっと楽しみにもなったよ」
「気が早いな。まだまだ出所の見込みは無いぞ。懲役10年だから」
「10年だろ?あっという間さ」
笑い合っていれば、鳥の歌が合わさって余計、賑やかになる。
初夏の、暖かな日のことだった。