冷たいシャワー*1
28歳のグレン・トレヴァーは王国歴247年の秋のはじめ、ブラックストーン刑務所に入所した。
ブラックストーン刑務所は王都北部に位置する町の郊外、森に半ば浸食されたそこに存在している。国内最大の刑務所である、ということは教養の内に知っていても、それ以上のことは碌に知られていない。当然だ、刑務所について知ろうと思う者など、然程多くない。
グレンが護送車の鉄格子越しに外を眺めれば、鉛色の空と秋雨に濡れた広葉樹の葉が見える。王都北部は冬の訪れが早い。王都ではまだ秋の気配が漂い始めた頃合いだったが、こちらの方は既に秋真っただ中、下手をすると冬の気配すら見え隠れする有様だ。
刑務所へ続く道は石畳で舗装されているようだが、長らく手入れを放置されて割れてしまっているらしい。罅割れた道を走る馬車は随分と揺れた。
馬車の中、グレンはただ溜息を吐く。
こんなはずじゃなかった、と。
グレンの罪状は、強姦罪だ。町の寡婦の家に押し入り、刃物で脅して抵抗できないようにした上で彼女に暴行をふるったのだという。
だが、グレンにはまるで身に覚えのない話である。要は、冤罪だ。
グレンは訳が分からないまま逮捕され、訳が分からないまま尋問を受け、『私はやっていない』と主張するもそれは聞き入れられず、そして遂に、神が見ているとされる裁判所で有罪判決を受けた。
この世界にはどうやら、神など居ないらしい。グレンはせめてもの皮肉を呪いの呟きと共に小さく吐き出して、だが、それきりだ。神は居ない。グレンの呟きを受け止める者も当然居ない。
そうして連れてこられたブラックストーン刑務所は、酷く威圧的な建物に見えた。
護送車から下ろされ、手枷に繋がれた鎖を引かれて歩いていけば、巨大な建物は益々大きく聳えて見えた。
そして刑務所の中は、酷く冷えた。ここだけ秋ではなく冬が訪れているのではないかと思われるほどである。看守達も厚手のコートを着込んでいる有様である一方、薄着のグレンには寒さが堪える。
そして、歩くグレンや他の囚人達の後ろで、門に鉄格子が下りた。ガシャン、と重々しく響く音に、錆びた鉄の擦れ合う嫌な高音が混じり、それきり、ブラックストーン刑務所は再び、外の世界から隔絶された。
「歩け」
少々乱暴に鎖を引かれて進んだ先は、大きく吹き抜け構造になっている場所だった。
高すぎるほどの天井を見上げている内に、この部屋が何の部屋なのかが分かる。
周囲をぐるりと囲んでいるものは、鉄格子。それら一つ一つが独房であった。そしてそれが、4階建ての高さまで積み重なっている。
ここには随分と多くの囚人が居るらしい。流石は国内最大の刑務所だ。
グレンは只々、自分の潰えた人生の行く先が決して真っ当ではありえないことを知り、その現実に打ちひしがれていた。
寄生虫の検査や手荷物検査、服役年数の確認など諸々の手続きを終えた後、グレン達はシャワールームへと連れていかれる。
ここでは看守が監視する中、服を脱ぐ。こんな場所で囚人に尊厳など与えられるはずもない。文句を言った新入りが看守に鳩尾を突かれて蹲る様子を横目に、グレンは諦めの境地で服を脱ぎ、古びたタイル敷きのシャワールームへと進む。
シャワールームは広く、そこに所狭しとシャワーが並んでいる。ここで行われているのは、入浴というよりは洗浄だ。人間が人間らしく在るためのものではなく、あくまで、生きていると老廃物を生む『物』の清潔を保ち疫病などの厄介を避けるための行為でしかない。
シャワーの蛇口を捻れば、冷水に近いぬるま湯が出てきた。到底、この寒さの中で浴びたい代物ではない。
このシャワーが壊れているのかと思ったが、周囲も似たようなものだ。囚人達は顔を顰めながら水を浴びている。ならば、グレンもそうしなければならない。
すっかり体が冷えたところで、食事を摂る。
食事は大広間に囚人達が集まり、皆一斉に摂る。食事を作るのも囚人らしい。それは先程、手続きの際に説明された。
そんな食事であるので、出来は決して良くない。不揃いに刻まれた野菜が煮込まれたスープには崩壊した肉団子の欠片が入っているがそれだけだ。
それにパンが二切れついて終わり、という侘しい食事である。
食事の際、ちょっかいを掛けてくる囚人も居たが、そんな気分にもなれないグレンは、ただ黙々と、スープをスプーンで掬い続けた。唯一、スープが温かかったことだけが救いであった。冷えた体には数百倍、味気ないスープが美味く感じられる。
それからグレン達は独房へ入る。
鉄格子は風を遮ることが無い。そんな独房の中は酷く冷える。
これでは服役を終える前に風邪をひいてこじらせて、肺炎あたりで死ぬのが落ちかもしれない。
グレンは固いベッドの上、毛布を被って体を丸めて、じっとしていた。
翌朝からは労働が始まる。
朝、起床の合図である鐘が鳴ると、独房の鉄格子が一つずつ開けられて、囚人達は外に出る。
吹き抜けの一番下、ホールに囚人達が集合すると、そこで点呼が行われ、看守から今日の業務を指示され、そのために皆、動き始める。
グレンに割り振られた仕事は、釘の本数を数えて箱詰めする、というものだった。
長机に向かい、背凭れの無い椅子に座り、そこで木箱に入っている釘を数えては厚紙の小箱に入れていく。ただそれだけのことだ。
単調な作業は、グレンに思考する余裕をもたらす。幸か不幸か思考するということを常日頃から行っていた性質のグレンは、この不幸な状況について解の無い堂々巡りの思考を続けることになる。
何故、自分は冤罪に巻き込まれたのか。何故、自分はこんなことをやっているのか。
本来なら、今日もいつも通り職場に通って、郵便物の仕分けや金券の処理を行っているはずだった。夕方には帰宅して、趣味の庭いじりをしているはずだった。そして休日には同じく植物が好きな恋人と一緒に花を見つめて笑い合っているはずだったのだ。
それが何故、こんなことになったのか。
ぼんやり考えながら作業をしていたグレンは、『危ない!』という背後からの声に反応するのが遅れた。
振り向いた先でグレンは、釘が詰まった木箱が自分に向かって落ちてくるのを見つけた。だが、咄嗟に動こうとした体は冷えていて、満足に動かない。
結局、グレンは木箱の側面で頭を強打し、金釘をばらばらと浴びる羽目になる。
ジャラジャラジャラ、と金釘が落ちるけたたましい音と、空になった木箱が落ちる空虚な音が響く。
そうして最後の釘まで落ち、すっかり静まり返った室内で、グレンは周囲の注目を浴びながら、ただ椅子に座っていた。動く気になれない。
釘入りの木箱をグレンの頭上に落とした囚人は、グレンに『悪かったよ』と謝りつつ、釘を拾い集めて木箱に戻すと、そそくさと消えていった。故意だったのか過失だったのかは分からない。もうどちらでもいい。
後に残ったグレンは、妙にぴりぴりと痛む頬に触れる。浴びた釘でひっかいたらしく、薄く血が滲んでいた。
ふと見てみれば、シャツが一部、鉤裂きになっていた。こちらも釘か、或いは木箱かでやってしまったらしい。
刑務所内に持ち込めた衣類はそう多くない。その内の一着が早速駄目になったことに、グレンは最早、何を思えばいいのかも分からなかった。
グレンを取り残すように、周囲は元の作業へ戻っていった。物音を聞きつけたらしい看守も、特に何をするでもなく去っていく。
「よう。大丈夫か」
だが、そんなグレンに声を掛けてくる者が一人だけ居た。
それは、20半ばほどに見える男だ。枯草色の髪は男にしてはやや長く、少々楽し気にも見える目は緑色をしている。
そして何より印象的なのは、この寒さにも関わらず、随分と薄着であることだ。彼は大丈夫なのだろうか、とグレンは幾分心配になる。
「こっちに座れ。その席、一番冷えるぞ」
その男は座っていたグレンの腕を引っ張って立たせると、男が座っていたらしい席の隣へと連れていき、そこへ着席させた。
すると、不思議なことにさっきより随分と冷えがマシになった。どうやら、グレンが座っていた席は丁度、隙間風の通り道だったらしい。
冷えが幾分軽減されると、グレンには幾分、思考の余裕が出てきた。人に応対する余裕も、また。
「見たことの無い顔だな。新入りか?」
「ああ。一昨日、収監された」
随分久しぶりに口を開いた気がするな、と思いながら、グレンは一応、愛想笑いを浮かべて応える。
「ま、そういうことなら、ようこそ、新入り。俺はエルヴィス・フローレイ。よろしく」
そしてエルヴィス・フローレイと名乗った男は手を差し出してくる。人間として扱われるのが随分と久しぶりで多少戸惑ったが、グレンは冤罪を掛けられる前の自分を思い出して、その手を握り返す。
「グレン・トレヴァーだ」
グレンは、他の囚人とよろしくやるつもりは無かった。刑務所に馴染んでしまえば、余計に惨めになるように思われたからだ。だが、差し出された手を振り払う程には冷徹になれない。元々、グレンはそういう人間だった。
「グレン?」
そしてエルヴィスは何故か、グレンの名前を聞いて目を瞬かせると、にっ、と笑った。
「へえ、グレン、か。いいね。俺の友人と同じ名前だ」
刑務所の中で見るには随分と明るい笑顔だ。幾分不思議な気分でそれを見ていると、エルヴィスは笑って手を離し、再び作業に戻っていく。
「分からないことがあったら何でも聞いてくれ。寒さがマシな席でも、多少まともな食事にありつく方法でも。俺は色々知ってる。何せ31年もムショに入ってるからな」
そして、釘の本数を数えて箱詰めしていく作業をしながら、エルヴィスはそう、言った。
「……31年?」
最初、グレンは聞き間違えだろうと思った。何せ、自分の隣で釘を数える男は、どう見ても20代に見える。
すると、グレンの視線に気づいたのか、エルヴィスは釘を数える手を止めて、にやり、と笑う。
「とてもそうは見えない、って?」
「……ああ。とても、そうは見えないが」
精々3年の間違いじゃないのか、と思いながらエルヴィスの飄々とした表情を見つめてみるが、彼の言葉が嘘か真実か、まるで読み取れない。その時初めて、グレンはエルヴィスを見て、老獪な老人のような印象を受けた。
「まあ、説明するより見せた方が早い」
グレンに笑いかけて、エルヴィスは、そっと、枯草色の髪を掻き上げ……その下に隠れていた耳を露わにした。
長く伸びた耳朶。それは、噂話にしか知らない存在の証。
「……エルフ、か?」
グレンが呟くと、エルヴィスは笑って頷いた。
「ああ。俺は今年で287歳。終身刑のエルフとは俺のことだ」
振り返るが、今年は王国歴247年である。
王国歴が始まる前には帝国歴があったが、それは340年ほどで終わったらしい。
そして、エルフの平均寿命は1000歳ほどである。
……その時までブラックストーン刑務所は存続しているのだろうか。グレンはどこか的外れなことを考えながら、久しぶりに面白いものに出会ったような気分で、思わず笑いを漏らしていた。