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赤い稲妻くん。  作者: ぴーす
9/20

9話


その日、美空の母は近所の婦人方と井戸端会議に興じていた。あの空襲以来、何事もなく平穏な日々が戻っていた。いくつかの傷跡は町中に見られたものの、それ以外は戦争とは縁遠い穏やかなものであった。


「今朝ね、勝次から手紙が来たのよ」

「あら、整備の?」


お向かいの家に住んでいる婦人が今日の井戸端を賑わしていた。軍務で家を離れた息子から送られてきた一枚のハガキを自慢気に見せびらかしてきた。近所の若い男性はほとんど軍に入隊し、東西南北各地で課された責務を果たしている。


「お元気そうで何よりです」

「なにかと美空ちゃんのことが気になってるみたいで...ほら、「美空様はお変わりないか、お聞きしておいてください」って!」


「あらあら」とにこやかに応じる美空の母だったが、婿候補としてはあまり勧めたくない相手だった。昔からなんとも下品な視線で異性を見てくるし、見境なく女性の身体を見る子として記憶していた。素直といえば素直なのだが、娘を差し出す相手としては低い評価を付けざるを得ない。


「いいわねえ、ウチなんて手紙なんか来たことがないわ。どこへいるのやら見当もつかないの」

「勝次さんは、たしか北飛行場にいらっしゃるのよね。こないだの迎撃戦でこの町を通った飛行機達も、羽須美さんのご次男様が手掛けているのねえ」


他の婦人が思い思いの言葉を交わすなか、美空の母はそのハガキに興味を抱いた。この宛先に手紙を送れば、少なくとも郵便が送れるのではないか。そう思い、美空の母はにこやかな表情のまま問いかけた。


「こちらに宛てれば、北飛行場へお返事が送れるのかしら」

「ええ、送れるわよ。まさか勝次に?」

「勝次様含め、飛行場にいらっしゃる部隊に感謝の文でもしたためてみようかと思いまして」


もちろんでっち上げだった。本意は、そこにいると思われる一人のパイロットのみ。思うままに会えるわけではないからこそ、手紙が二人を繋ぎ、そして深めていく手段となり得る。

ハガキに書かれた所属部隊名を控え、美空の母は嬉しそうに微笑んだ。


その日の晩、仕事から帰ってきた美空を便箋と封筒、そして鉛筆を並べたちゃぶ台が出迎えた。


「何これ?」

「お手紙よ。ダメ元で送ってみましょう。北飛行場に届くかもしれないわ」


あの人、とは誰を指しているのかは聞くに及ばなかった。あの日以来、親子の団欒は幼顔のパイロットに関する話題が大半となっており、異性の話をすれば美空であれ母であれ、必ずと言っていいほどあの幼いパイロットが出てくるようになっていた。


「えー、そこまでする?」と乗り気でない美空に対し、母は「なら私が書きましょう」と上機嫌で鉛筆を取った。


「羽須美さんのお家、手紙で北飛行場のご次男さんとやり取りしているみたいなの。宛先を伺ったから、北飛行場へは届くはずよ」

「そんな別にいいじゃん。私べつにそこまで好きなわけでも―――。」

「そういえば、羽須美さんのご次男さんが貴女を気にかけてるらしいわよ。縁談でも組もうかしら」


母の言葉に、美空はぐうと口を閉じた。美空も知っている人で、昔から母の胸を見たり、年齢を重ねるにつれて自分の胸や尻をもジッと見てはいやらしく笑う男だ。彼のせいで、サラシを付けるようになった。アレと比べれば、まだあのパイロットの方が可愛げのあるし、格段にマシだ。


「羽須美さんとあの飛行兵、どっちがいい?」

「...飛行兵」


不貞腐れ気味な美空を差し置いて、母はすでにサラサラと文字を書き始めた。宛名は空白のまま、本文が次々と連なっていく。


あの日以来、美空は愛しい貴男様を思うと夜も眠れず、卑しくもただただ我が身を慰め―――。


「ちょっと待って!!」

「なによ」


邪魔をするなと言わんばかりに不満そうな表情で母は娘を見やった。今にも爆発しそうな美空は、消しゴムを手に便箋を更地に変えようと身を乗り出す。しかし、母がヒョイと便箋を取り上げてそれを躱す。


「そんなことしてないし!というか、なんで私の名前を使うのよ!?」

「私だと生々しいじゃない」

「ダメダメ!!書き直して!!」


怒り顔で母に迫りつつ、主導権を取られている以上は譲歩しようと消しゴムを母に差し出した。


「こういう情愛の文が男性を惹き付けるのに」

「一日しか会ってない人に、いきなりそんな文章送ったら変態女だと勘違いされるって」


やんややんやと騒ぎながら、少し書いては消し、また書いては消し。結局差出人として名乗る美空の言葉を母がサラサラと書き綴り、ほんのりと気を寄せるかのような文章を添えて仕上がった。



お元気でしょうか。貴男様の勇戦は友人の鎮魂のみならず、銃後の我が身を一層引き締めるものでございました。せっかくのご縁ですので、少しでも貴男様と言葉を交わしたく思い一筆したためてみました。母娘共々、貴男様の安全と武運をお祈りしております。


永瀬美空


「なんだか薄っぺらいわ」

「いいでしょ別に。そもそも届くかわからないんだし」

「まあそれもそうね。次くらいから攻めていきましょう」

「程よく仲良くで充分よ」


母娘で書き上げた手紙だったが、一つ問題が残っていた。宛名が空白のままでは届かない。

軍事郵便の宛名には本来、所属部隊名、隊名、階級、氏名が必要であり、宛先不完全と扱われ、最悪の場合は配達不能となる。


「羽須美さんから聞いた部隊名の飛行隊宛てにしましょう」

「氏名はどうするの?幼顔様?」

「他にも幼い顔付きの人がいたら困るわ。なにか彼の特徴があれば...」


母の言葉に、美空はふとあるものを思い浮かべた。

彼が不時着した時の、あの飛行機。

白銀の機体に描かれた、真っ赤な線。

斜めに伸び、途中でギザっと折れ曲がったあの線。


「赤い稲妻...」


ポツリと呟いた美空に、母は「えっ?」と首を傾げた。


「あの子が不時着した時、飛行機の胴体に赤い稲妻みたいなのが描かれてた...」


「そうだったかしら」と戸惑いながらも、鉛筆はすでに赤い稲妻様と書き始めていた。


こうして書きあげられた一通の手紙は、「この間の迎撃戦のお礼を伝えたいのです」という美空の母の言葉と共に郵便局員へ渡った。



『赤稲妻』の提案した訓練は、なんとも独特だった。一ノ瀬と学生達の前を、『赤稲妻』が自転車に乗ってスイスイと進んでいく。これの何が独特か、それは乗り方だった。

サドルに腰掛けず、ハンドルバーに背を預けるように後ろ向きになってペダルを漕いでいた。奇妙この上ない乗り方だ。


「助教、本当にこれで大丈夫なのか」


しれっと『赤稲妻』に不安を伝えてみたところ「はいっ」と元気よく答えてくる。ニコニコと笑顔を見せる彼に対し、ほんの少し不信を抱いた。それを見てかどうかはわからないが、『赤稲妻』は補足するように、そして学生達にもよく聞こえる大きな声で言葉を紡いだ。


「野戦補充飛行隊でよくやりました。当時は飛行機が少なかったので、これで代用してたんです」

「ほう」


野戦補充飛行隊と言えば、南方に拠点を置いて最前線に補充要員を送り込む専門部隊だ。ここからやってくる要員は、内地から来る新人とは比べ物にならないほどの技量を有していると聞いている。どの飛行戦隊でも即戦力として重宝される。

『赤稲妻』も開戦時はその部隊に所属し、補充要員として稲妻部隊に送り込まれたという彼の経歴を知る一ノ瀬からすれば、その言葉はもう「お墨付きです」としか聞こえない。


「よろしければ、少佐どのも試してみてください!」


一ノ瀬はドキリと胸を打った。まさかやれというのか。ここで。学生たちの目の前で。

この年で転倒して土にまみれるのは御免だ。しかし、陣頭に立たなければ士気に影響が出る。動揺気味の一ノ瀬に対し、『赤稲妻』はニコニコと彼を待っている。


「少佐どのなら、上手くできますよ」


『赤稲妻』の一押しもあり、一ノ瀬は自転車に後ろ向きとなって跨った。見よう見真似でハンドルを握り、姿勢を整えてみる。するとどうだ、すでに腕から負荷を感じた。視界はもちろん後ろ向き、進行方向に対する視界はゼロ。まだペダルを踏んでいないのに、一ノ瀬はキョロキョロと辺りを見回していた。


「こ、これで行くのか」

「はい!」


おそるおそるペダルを踏み込んだ瞬間、いきなりグラリと車体が傾いた。一ノ瀬は思わず足を地面につけて、醜態を回避した。学生達がじっと見ている。もう退けないと悟るや、今度は力強くペダルを漕ぎだした。グラリと傾く車体を、上体の傾きでなんとか支え、踏み込んだ脚とは逆側の腕に力を入れて姿勢を制御する。速度が落ちないうちにもう一漕ぎ。今度は上体を逆側に傾けて、また片腕のみで姿勢を支え―――なんだこれは。


ふと、無意識に首を動かした。周りに障害物がないか、進む先の方向がどうなっているのか。肩ごと振り向いて、前を見やる。すると、腕に対する負荷がさらに増してパンパンに膨らむような感覚に襲われた。一瞬みえた進路にはただ平地が続くばかり。一ノ瀬はすぐに姿勢を戻し、ペダルを漕ぎ続けた。


「少佐どのー!」


遠ざかっていく『赤稲妻』が大きな声で呼んでいた。一ノ瀬は勢いそのままに片腕の肘を曲げて車体を傾け、ゆっくりと重心を片側に寄せてみた。すると自転車はゆっくりと旋回をはじめ、針路を変えていく。


「なるほど」


一ノ瀬は不敵に笑みを浮かべた。旋回時における方向舵の操作と同じ要領で、ペダルを加減気味に踏みこんでいく。すると速度を殺さず、姿勢を制御させたままグルリと反転した。ペダルを漕ぐたびに生じる車体の傾きは機体の滑り、その要領で脚を動かせば、ふらつきもなんとか抑え込める。要領を得た一ノ瀬は、ゆっくりとではあったが一度の転倒もなく学生達のもとへ帰ってきた。


「ふう」

「いかがでした?」


『赤稲妻』が幼顔を覗かせてきた。

操縦桿を操るために必要な腕力、滑りの制御と変わらない要領で攻略する姿勢制御、いちいち実機に乗って燃料を消費せず養える技能を考慮すれば、なんとも効率が良い。


「なかなか良い。操縦の基礎を養えるし、眼の使い方も空中で活かせそうだ」


一ノ瀬の心にあった不信は消え去り、自信に満ち満ちた表情で『赤稲妻』の頭を撫でた。すると彼は照れくさそうにニコッと笑っては、嬉しそうに一ノ瀬を見つめていた。人懐こい子犬のような助教の提案は、すぐに学生達への『訓練』となって採用された。



「ちゃんと後ろを見てくださいねー」


飛行場を右往左往するのは、飛行機ではなく自転車の群れだった。

その先頭を行くのは『赤稲妻』で、スイスイと漕いでいる。しかし、学生達はまともに漕ぐどころか転倒者が続出していた。


「身体全体を使って安定させてくださーい!」


大きな声で学生達を指導しながら、『赤稲妻』が器用にも学生達を掻き分けてグネグネと蛇行していた。ペダルを踏み込むたびに上体を左右に振って、腕力で体重を支えながら車体を傾けて右へ左へ進んでいく。奇妙奇天烈な光景ではあるが、一ノ瀬自身が感じた効果に対する期待は大きい。


「帝国陸軍の飛行戦隊を担う者達とは思えんな」


一ノ瀬は苦笑いを浮かべた。

とくに滑りの制御、これが養えるのであれば大きな成長となる。手放しだとプロペラの回転方向に向けて傾いてしまう乗り物ゆえ、操縦席の左右足の部分に取り付けられたペダルを使って垂直尾翼の方向舵を動かして制御してやらないといけない。これを上手くやらないと、機体はまっすぐ飛ばず、斜めを向いて『滑る』ように飛ぶ。

それだけでなく、旋回をするときも方向舵を操作して姿勢を保たねばならない。玄人となれば敢えて方向舵を過度に操作し、機体をスピンさせることもある。


戦闘機を操縦するうえで、上手下手を分けるのは方向舵を操作する脚の使い方次第ともいえる。が、この間抜けっぽい訓練でその技能を養えるのであれば一時の恥など捨ててもらう他ない。整備兵たちが向ける好奇の目も耐えつつ、午前いっぱいをこれだけに費やして帰ってきた『赤稲妻』は、なんとも明るい表情のままで暢気であった。後ろに続く学生達は土にまみれ、自転車一つでなんとも情けない姿だった。


「本番は四式戦だ。自転車での失敗は恥だろうが、実戦での失敗は死につながる。各々が塗れている土は己が血と思え」


学生達にとっては、ノモンハン帰りの一ノ瀬と先日まで最前線にいた『赤稲妻』だけができた事。気合を入れるような返事を返し、それからは自転車を相手に闘志をぶつけた。


こういう奇妙ながら効果のある訓練を提案したかと思えば、いざ座学となれば一ノ瀬も唸るような講義を開いてくれた。



「長槍戦法、これが実戦に向きます」

「長槍?」


聞いたこともない戦法だった。首を傾げる一ノ瀬を見やると、学生達を呼んで大きな円陣を組ませた。その中心で、『赤稲妻』が地面に絵を描きながら説明を始めた。


「2機一体の戦法で、長機の真後ろに僚機がついて、距離を保ちながら同じように動く反復機動戦法です。こーやって...長機が攻撃したら、後続機が同じ標的めがけて攻撃するんです。かなりの火力を投射できるので、小型機でも重爆でもやっつけられます」


なかなか興味を引く戦法であった。

2人がかりで1機を仕留めにかかるのは、今の練度だと妥当、いや相応と思えた。いま学生達が先陣に立ったとして、1対1の格闘戦を制することに期待はできない。

それに、この戦法で発揮できる火力は申し分ない。四式戦は1機につき13ミリ機銃を2挺、20ミリ機関砲を2門装備している。2機の四式戦に襲われるのだから、小型機は言わずもがな、重爆ですらひとたまりもないというのは納得できる。


「稲妻部隊で使ってたのか?」

「四式戦へ機種転換したばかりの頃によくやりました。100メートルくらいの間隔でやる単純な手ですが、一撃必中、二撃必墜の心得で何機もやっつけましたっ」


教本にもない、いかにも実戦仕上げの考えが時間をかけて共有されていく。即席ながら叩き込まれていく戦地帰りの教えは、一ノ瀬の期待に応えるかのように学生達への教育として落とし込まれていった。


学生達が必死に覚えることは、みな実戦で使える。一ノ瀬や死んでいった教官たちが施してきた従来の教育とは一風変わった、それでいて理のある教育。教える者が一人ゆえ、考え方、取り組み方も統一できていた。教育部隊としては充分機能している。



そんなある日、一ノ瀬のもとに一通の手紙が届いた。

彼は助教を呼出し、それを手渡す。


「赤い稲妻様?」


受け取った本人が首を傾げた。「機体に描いた稲妻のことだろう」と一ノ瀬が添えると、「なるほどっ」と元気な声と共にその場で封を開いた。少しの間だけ静寂が続いたのち「迎撃戦のお礼が書いてありました!」と一ノ瀬に見せてきた。


「赤い稲妻の機体を知っているということは、君が言っていた不時着の時に助けてくれた人からか?」

「はいっ」


ニコニコと微笑む彼が見せてくれた手紙を読んでみる。たしかに迎撃戦のお礼が書いてあるが、一ノ瀬はその続きの文章に注目した。


「どうやら差出人は、君に気があるように思えるが」

「気?」

「少しでも貴男様と言葉を交わしたく思い...というのは、君のことをもっと知りたい。ということだろう。永瀬美空という人は、君と会うか手紙を続けて仲を深めたいんじゃないか?」


『赤稲妻』の脳裏に、あの母娘の姿がよみがえる。特に夜に会いに行った時の、美空が見せてくれた優しい笑顔。思わずドキッと鼓動が高まった、あの綺麗な笑顔が思い浮かんだ。

一ノ瀬の言葉を聞き、少しずつ顔に熱が帯びてゆく。初めて見る『赤稲妻』の表情に、一ノ瀬はなんともいえない心地よさを覚える。


「助教も隅に置けないな」

「い、いえ。その、女性とはあまり縁がなくて...こういうのはよくわかりません」


彼の戦歴を見れば、女性と縁がないというのも頷ける。ラバウル、大陸戦線、フィリピンと常に前線にいた彼にとって、色恋など縁がないも同然だろう。せっかく内地に帰ってきたのだから、一度くらい甘い青春を楽しませても良いだろうと、一ノ瀬は微笑んだ。かつて自分が経験した青春を思い出しながら、眼前の幼顔にも戦争以外の思い出も作らせてやりたいと思った。


「ここから一番近くの町に呼んでみてはどうだ?」

「呼ぶ...ですか?」

「ああ、私も前から妻を呼んでいる」


『赤稲妻』はモジモジとしながら目を泳がせ、判断に困っている。もどかしい姿をしばらく楽しんだ後、一ノ瀬は彼の背中を押すようにもう一声呟いた。


「誘いに応じるかは相手次第だ。それに、誘うならついでに俺も妻と会う機会が一つ増えて嬉しいのだが」

「少佐どのが...ですか」


少し迷った挙句、『赤稲妻』は「彼女のご家族も一緒に...お誘いしてみることはできますか?」と小さな声で返事を寄越した。その日の晩、一ノ瀬は「明日には戻る」と、どこかへ出かけて行った。


一ノ瀬は自転車に乗り、飛行場から最も近い町へ紛れ込んだ。

温泉が湧くことから賑わうようになったといわれる、いわゆる温泉街というべき町。時間帯ゆえに行き交う人は少なく、一ノ瀬はスイスイと目的地に辿り着いた。


自転車から降り、眼前の建物を見上げる。


なでしこ旅館。一枚の立派な看板を掲げた門をくぐり、戸を開ける。

すると、急ぎ足で一人の女性が駆け寄ってきた。


「あら、少佐どのではないですか」


旅館の女将が出迎えてくれた。少し厚めの化粧で端正な顔立ちを彩らせてはいたが、どこか疲労を背負ったような様子だった。それでも無理を押すような声で「久子さーん」と大きな声を後ろに向けた。


「だいぶお疲れのようだな」

「人手が足りんのですわ。久子さんにはよおけ苦労かけさせてもうて、ほんま申し訳が立ちまへん」

「そうか」


いきなり良い話を聞いた。そこへ、パタパタと別の女性が駆け寄ってくる。


「アナタッ!」

「おう、久子」


ノモンハン出征の時に契りを交わした愛しき君が、勢いよく抱き着いてきた。自分より幾ばくか若い妻をしっかりと抱きしめて、無言で再開を喜ぶ。


「ご無事で何より...」

「お前こそ、元気そうでよかった」


言葉から伝わる温もりが、互いの心を溶かしてゆく。戦況ここに至りても再開できるのは、なんと幸せ者か。一ノ瀬夫妻の姿に、女将は微笑ましそうに声をかけた。


「今日はお泊りに?」

「そのつもりだ。あと、一つ相談事を」

「なんやの。けったいなのはごめんやで?」


苦笑いを浮かべる女将に、一ノ瀬はニッと笑みを返した。


「新しい部下ができてな。どうやら彼に気のある女がいるらしい。ここに誘ってみたいのだが」

「ウチの手伝いをしてもらえるなら、何人でも歓迎ですわ。男衆はみんな赤紙で征ってもうたし、従業員用の空き部屋ならまだありますえ」

「久子、手紙で誘ってやってくれないか。送り先も持ってきたから、今夜にでも」


胸の中で上目に一ノ瀬を見つめる妻は明かる気に「勿論です」と心地よい声で返事をくれた。

そして、幸せが滲んだような表情をポッと朱に染めつつ、耳元に唇を寄せた。


「書きましたら、その、ご、ご褒美を...」


モジモジと身体を寄せて囁く甘えた声に、一ノ瀬は顔を赤くして頷く。女将はニヤニヤしながら「はよお部屋行きなはれ」とせっついた。



はたして数日後、美空達のもとへ一通の手紙が届いた。差出人は一ノ瀬(いちのせ)久子(ひさこ)という、母娘ともども知らぬ名前だった。


永瀬美空様

突然のお手紙、失礼いたします。

夫の同僚のお知り合いとのことで、本書を送らせていただきました。

私は今、東町の「なでしこ旅館」というところで住み込みで働かせてもらっております。現在人手が足りず困っております。もし住み込みで働きに来ていただければ、大変助かります。大きな部屋ですので、ご家族でお越しになっても問題ございません。同僚様は赤い稲妻の飛行機にお乗りのお方で、近く宴席も予定しております。ご訪問の際に「久子の紹介で」と申していただければ、私みずからご案内いたします。お断りの際は、お手数ですが手紙にてご一報を頂けますでしょうか。


久子


手紙の内容に、美空の母娘は驚いた。

あのパイロットに会えるかもしれない機会が巡ってきた。なんとなくの気持ちで送った手紙がこのような形で返ってくるとは思いもよらず、美空の母はあっけらかんとしていた。


「まあ、準備しなきゃ」

「えぇ...」


美空は呆れた顔で、話が大きな事になりつつあると実感した。美空自身すでに勤め先もあるし、辞める理由も思いつかない。とはいえ、この手紙にどこか惹かれるものがあった。惹かれる先には、あの幼顔のパイロットの姿が浮かんでいた。


あの飛行兵にまた会えるかもしれない。


正直なところ、恋慕感情はなかった。だが、あの人懐っこそうな笑みを見せる彼にもう一度会いたいかと聞かれれば、首を横に振ることはない。少なくとも、向かい家の次男よりも心象はずっと良い。


「美空、どうする?」


変わり映えのない日常か、一人のパイロットを追ってみるか。どちらを選ぼうか。この時勢、気になる一人の男を追うなどということはまずできなかった。結婚は親同士でトントンと進むし、いざ結婚となっても、夫はすぐに戦地へ征く。美空にもいくつか縁談はあったが、自分の気持ちを察してくれてか、母のおかげでうまく回避できていた。


「美空。あなたはあの飛行兵のこと、嫌い?」

「ううん」


正直に返事した。自分の命を救ってくれたばかりか、友人の仇を取りに征ってくれた彼に、嫌いになる要素はない。


「初めて会って嫌いなところがなければ、必ず好きになれますよ」

「いや、そういうつもりは...」


困り顔の娘を引っ張るように、美空の母は準備を始めた。

もうどうにでもなれ。

美空は溜息を吐いた。



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