4話
あの稲妻部隊から助教役として飛行兵を一名もぎ取れたのは、北飛行場に展開する分校の隊長である一ノ瀬浩平少佐にとって大きな戦果だった。
先日、一ノ瀬にちょっとした出来事があった。部隊視察に来た上官が、大切にしていたお守りをどこかで落としてしまったというのだ。一ノ瀬は部下を総動員してそのお守りを見つけ出し、すぐさま飛行機に乗って届けに行った。
なんでも幼い娘が作ってくれた折鶴が入った大切なお守りとのことで、受け取った上官は首を垂れるほど喜んだ。続けて「お礼に何か送ろう」と言うので、断るのもなんだと思い
「機会があれば、米軍機に強い者を一人いただきたい」
と茶化してみたところ、彼が来ることになったのだ。
稲妻部隊といえば陸軍でも伝統ある名門の戦闘機隊。南方作戦を支え、『国軍の最精鋭』としてラバウルで戦い、転出後は大陸戦線で奮戦、今まさに繰り広げられているフィリピン決戦にも参加している。
とくにラバウルでの勇戦ぶりは陸軍内でも評価が高く、彼らが全力を尽くしたから御嘉賞を賜ったのだと言う者すら現れるほど。
その稲妻部隊に所属した彼の戦歴は、もはや熟練と呼んで差し支えない。
開戦時こそ野戦補充飛行隊所属で前線行きを待っていたが、補充要員としていざ最前線へ派遣されるやラバウル・ニューギニアでの激戦地を舞台に初陣を飾り、以来ずっと部隊とともに戦い続けてきた。
階級は曹長で、彼の評価は「戦隊マークを大きく描き直した『赤稲妻』に恥じぬ名手。操縦技量抜群で、撃墜戦果はすべて米軍機。戦法は単機戦なら変幻自在に飛び回り、編隊戦だと二番機に置けばコバンザメのごとく追従し、一番機に据えればまさに電光石火の如く敵を食い破る、まさに戦隊きっての名刀。その撃墜戦果は重爆含めて数十機から70機以上。」とのこと。
多少の尾ひれを勘案しても、間違いなく審査部級の腕前。
一ノ瀬自身も戦歴はあったが、米軍と戦ったことはなかった。
今の戦局をみれば、米軍と戦った者が戦闘機乗りを育てる必要がある。
今日の敵機来襲を受けて、その思いがより一層強いものとなった。
一ノ瀬含めて、実戦経験のある者は教官の一部のみ。ノモンハンでいくつか戦闘を経験したか、南方作戦で戦傷を負って帰ってきた者くらいだが、それでも貴重な要員だった。索敵を命じて、みな今朝出撃に向かわせたが、誰も帰ってこない。
残りはみな学生、戦闘機乗りとして訓練を受けに来た雛鳥だからまだ戦力にならない。戦闘機自体は四式戦を主力に、予備の一式戦と合わせて結構な数を保有しているが、乗り手が役不足ではまともな活用もできない。
限られた時間で卒業してきた若雛たちを、己の部隊で一人前にしてやらねばならないというのに。せっかく『赤稲妻』を手に入れたのに、今度は他の教員が帰ってこないとは。
なんとも思うようにいかず歯がゆい。
後追いで『赤稲妻』も出撃していったが、モールス電信で機体不調の連絡を受けた時は肝が冷えた。最悪の事態すら考えていたところに、不時着機ありの連絡が憲兵から届き、しばらくしてサイドカーに乗って帰ってきた。
戻って来るや否や、学生たちと変わらないあどけなさを印象付ける『赤稲妻』が勢いよく駆け付けに来る。元気というか、活発というか、さすが戦地帰りというか。
「報告します。目的地の東約80キロ付近でF6Fと交戦、2機に命中弾を与えましたが炎上のみで墜落を確認できず。続けて索敵報告いたします。九十九里上空で敵機約100機、すでに他の友軍部隊と乱戦中でした。機内に燃料漏れを認めたため、交戦せず帰投いたしました」
なんと敵機を喰ってきたのか。おまけといわんばかり四人から受けるはずだった索敵報告までも引っ提げて帰ってきた。なんとまあよくできた飛行兵だ。と一ノ瀬は感心した。
「着任早々、苦労をかけてしまったな」
「いえ、そんな。自分はもう一戦やりたいのですが、一式戦を使わせていただけますでしょうか」
『赤稲妻』が、一ノ瀬にとんでもない提案をしてきた。まだやる気だ。
「疲れてないのか」
「はいっ」
「困ったな。ここは飛行戦隊ではなく、分校の教育飛行隊なんだ」
「では隊長どの、教育するのはいかがでしょう。実戦に勝る訓練なしです!」
これが『赤稲妻』か。
不思議な雰囲気を纏った子だ。いま彼に「100機落としてこい」と命じたら、元気よく飛んでいきそうなほどに活力に満ちている。
こんな者が前線にいてなお勝てぬというのなら、この戦争はもうダメかもしれない。だが、彼の言動は『勝利』を信じて疑わないほどに力強い。
一所懸命に身振り手振り使って提案する『赤稲妻』にポンと肩を置いて、一ノ瀬は苦笑いを浮かべた。
「わかったわかった。君がもう一度出撃したいというのなら許可しよう。ただし『助教』の務めも果たしなさい。若い者たちに空戦を教えに行く、俺と貴様でな」
「ありがとうございます!」
元気な子だ。
実戦に勝る訓練なし。面白いことを言う子だ。この分校にいる学生のほとんどは空戦など経験することもなく死んでいく予定だが、それは敢えて言う必要もない。戦闘機に乗る以上、敵機と戦うのが任務であり、責務である。
それに、彼の勢いに任せたら意外と良い出来事が起こりそうな気がした。一ノ瀬は彼を真似るようにニッと笑みを浮かべて見せた。
「ノモンハンで止まっていた俺の戦歴、いま一度更新してみようか」
一ノ瀬の一声で、すぐに学生たちが集まった。綺麗に整列した彼らを見やると、顔つきだけは『赤稲妻』以上のものもいる。だが、それは緊張のせいか、はたまた恐怖のためか、一ノ瀬の心を勇気づけられる者はいなかった。
「敵機来襲中のため、本日の訓練は変更する」
学生たちは一瞬顔を見合わせるようにざわつく。そのざわつきも、『赤稲妻』が持ってきた大きな黒板を立てかけたと同時に、シンと静まり返った。
黒板には『一撃離脱戦法ノ要領』と書かれていた。隣には丸みを帯びた絵が描いてあり、ところどころに数字や文字が書き込まれている。
「本日着任した助教は、かの稲妻部隊でアメリカ機を蹂躙し続けた猛者だ。今朝の出撃でもすでに2機を火だるまにしている。不幸にも機体不調で不時着したが、いま一度米軍機を喰いに行くらしい。そんな強者と同行したい者は一歩前に出ろ」
一ノ瀬の言葉に、全員が前へ進み出る。総勢30名の学生たちがザッと前へ進み出る光景に少し安堵を覚えた。
「さらに技量甲の者に限り、敵機を撃つ攻撃要員に志願することを許可する。志願者はさらに一歩前へ」
8名がさらに進み出た。
「助教は一式戦、それ以外は四式戦に乗り、学生は二人一組のロッテ編隊で飛行する。攻撃要員は俺が先導する。見学組は助教の指示に従え」
続けて、学生たちの前で空中での要領を説明するよう一ノ瀬は『赤稲妻』にバトンを渡した。さて、助教としてどういう態度を示すのか。
「最初にぼくが突っ込みます。見学の皆さんは5分間、高度6000メートルから空戦をみていてください。5分経ったら増槽を捨てて、針路を北に向けて速度を600キロ以上出しながら降下してください。町が見えたら速度を巡航まで落として1000メートルで航過して、飛行場へ戻ってください。実際の空戦をしっかり目に焼き付けたかどうかで、技量の伸びしろが大きく変わります。決して後に続いたり、独断で空戦をしないようお願いします」
みんなが「はい」と口を揃えて頷いてくれたのは、幸先が良い。戦闘経験豊富ゆえ、やる事なす事に異議を抱くこともないのだろう。
「離陸後、海岸線が見えたら隊長機から旋回を開始、高度6000メートルまで登ります。その時にしんがりの僕が先頭に加わってから進撃を開始します。空戦の合図は、僕が反転して3つ数えたら降下します。発動機が不調になったらすぐに反転して帰投してください」
これにも力強い返事をもらえた。志願した技量甲の航空兵達はいっそう緊張気味の面持ちだった。それもそのはず、彼らにとっては初陣となる。
「敵機を見つけたらバンクして合図しますので、攻撃要員はその時点で増槽を捨ててください。攻撃時は敵群の後ろ側、狙い所は機の先端で、引き金を引いたら操縦桿を倒してすり抜けにかかってください。当てようが当てまいが、一撃かけたら今日はおしまいです。今日の敵はアメリカ海軍機なので、時速610キロ以上で振り切れます。もし追っかけられても、隊長機を追ってまっすぐ飛んでください。こちらのほうが降下距離が長いぶん増速しているので、絶対に振り切れます」
『赤稲妻』は丁寧だな、と一ノ瀬は感心した。やや高めの声はよく通るし、妙に威張る気も見せない。速度や高度も具体的な数字で示すおかげで学生たちにとっても覚えやすい。
攻撃に参加する隊員に対しては、とくに念を押して説明を繰り返した。
①今回は巴戦禁止。一撃離脱の戦いを一度だけ仕掛けるのみ。
②撃つのは照準器いっぱいに敵機を収めてから。
③撃った後は隊長機だけを見て、しっかりと追うこと。
この3点についての説明には声が一層大きくなった。重要なことだぞ。と声量だけで伝わったのか、攻撃要員の学生たちは熱心に返事をした。
「見学組の方達は、敵の動き方に注目してください。敵の戦い方を5分かけて見て、次に活かしてください。もう一度言いますが、空戦は禁止です。ぼくがどんなに危なく見えても、決して手出しはしないでください」
見学組も負けじと大きな返事をしてみせた。
準備を整え、まず隊長機が離陸した。続けて見学役の22機が離陸、2機一組の攻撃分隊が4組、計8機が続く。最後に『赤稲妻』が飛び立ち、道中のしんがりを務めた。
まだ一人前とは言えないバラついた編隊が、縦長に伸びたまま部隊は町を航過した。最後の一機だけが、特に低空を飛んでいった事は、振り返らなければわからない。
やがて隊長機が旋回を始めた。
大きな円を何周も描きつつ、ゆっくりと時間をかけて高度を上げていく。
雲量が多いことに一ノ瀬は気づいた。奇襲には都合がよい。雲間から襲えば気付かれにくい。
高度計が6000メートルを示すころ、『赤稲妻』が一ノ瀬の機に並びかけてきた。機体にそれを示すマークは描かれていないが、風防越しに敬礼をする小さな飛行兵でなんとなくわかった。しんがりの位置にいて先頭に追い付くとは上手いものだ。高度6000メートルで数周ほど旋回を続けたのち、『赤稲妻』を先頭にして先程よりは横に広がった隊形で前進を始める。
1時間ほど飛行を続けた時、『赤稲妻』が機体を左右に傾けた。いわゆるバンクという機動で、何かを合図する時に用いる。今の状況で、彼がバンクで一ノ瀬に伝える合図は一つしか見当たらない。
「敵機発見」
すぐに一ノ瀬もバンクして後続に伝える。『赤稲妻』が風防を開けたらしく、顔を出して後ろを見やっている。ちゃんと後方まで伝わっているかの確認していたのか、しばらくして頭を引っ込めた。
さて、問題は敵機だ。前方はおろか左右、上方にも機影は見当たらない。
下を覗いても、雲が広がっていて何も―――。
「よく見つけたな」
一瞬、雲の切れ間から黒っぽいものが見えた。『赤稲妻』がゆっくり針路を変えていく。少し先で雲が途切れているのがみえた。
「あそこで仕掛けるのか」
果たして学生たちは敵機を捉えているのだろうか。
眼下の雲が途切れたら戦闘開始だと、気付いているだろうか。
一ノ瀬はふと上を見て太陽の位置を確認した。太陽を背にして襲えば、その眩しさで敵に気付かれにくくなる。
雲が切れた。眼下に海が広がる。そして左側下方に敵機の群れが見えた。高度差は2000ほどか。そして太陽の位置は西に傾きつつあるが、我々をしっかりと隠している。文句なし。
『赤稲妻』が反転した。
1。
2。
3。
鋭い角度で急降下し始めた。合わせて一ノ瀬も降下を開始。彼にとっては何年かぶりの実戦だ。ノモンハンの時とは違う、ずんぐりした紺色の機体が群がっている。ざっと見て60機程か。
群れの最後方にいる4機組に機首を向け、先頭に照準を合わせる。周りを見る余裕はないが、攻撃要員も遅かれ早かれ降下を始めているだろう。
見る見るうちに接近し、照準器内に敵機を収めた。一ノ瀬はグッとこらえるように一瞬の間をおいて、引き金を引いた。機体が揺れるほどの振動を感じながら、敵機を横切る。チラッとみやると、黒煙を吹いてぐらついているように見える。
「復帰戦で一機なら、まあ隊長のメンツは守れたな。俺もまだまだやれそうだ」
速度は630キロ、充分な速度だ。速度が落ちないように機首をゆっくり上げ、一目散に北上する。視界の先には本土の海岸線が広がっている。これなら迷子になってもとりあえずは生きて帰れる。わかりやすくて良い目印じゃないか。と一ノ瀬はニヤけていた。
後ろを見ると、学生たちが遠巻きながら自分の後を追っている。2機、4機...。続くあの黒点も味方だとして数えれば、攻撃要員は全機無事だ。
あの黒点のもう少し後方では、『赤稲妻』がその名に恥じぬ凄まじい空戦を繰り広げているのだろう。帰ったら見学組の学生たちに聞いて、それを肴に酒を楽しもうじゃないか。
後に話し手となる見学組達は、時計と外を交互に見ながら眼下の乱戦を独占して観戦していた。
まず攻撃要員組が仕掛けた一撃は、群れの最後方にいた一機が黒煙を吹いて間もなく落下傘が花のように開いた。他にも数機が白い煙を吹いたものの、墜落や落下傘は見られなかった。
そして主役の『赤稲妻』は、初撃で狙った一機目が火を噴き、機首を持ち上げて別の敵機と交差したかと思えば、敵機がグルンとひっくり返って落ちていく。
ここでようやく敵機もこちらの存在に気付いたようで、散開しはじめた。しかし『赤稲妻』は瞬く間に3機目に一撃を加えた。
敵の群れをかき乱すように旋回しては反転し、今度は逆方向に急旋回、すぐに横転して...と目まぐるしく動き回る。そして敵機と交差するたびに、白煙か黒煙を吐き出させていく。
速度の優位がなくなったのか、『赤稲妻』が駆る一式戦の背後に敵機が追いすがり始めた。凄まじい弾幕が見える。曳光弾の雨が彼を追うが、射線が重ならない。ずれているのがよく見える。
敵機が妙な機動を始めた。一機ずつが左右に半円を描いて交差し、反転してまた交差。まるで鎖を描こうとしているような機動だ。『赤稲妻』はそのグッと旋回して、数秒後に生じる交差点めがけて機銃弾を撃ちまくる。初めて彼の射撃がよく見れた。しかし敵は寸での所で機動を止めて被弾を回避する。
いきなり『赤稲妻』の機動が変わった。攻撃的な動きを止めて、雲めがけて飛び始めた。背後の敵機が銃撃を浴びせるが、これまた射線がずれて当たっていない。よくみると、『赤稲妻』の飛び方が妙だ。
右に機首を向けているのに、左に滑るような飛び方をしている。
敵機からみれば、一式戦の進行方向、つまり右側の少し先めがけて照準を合わせるだろう。しかし左に滑っているので、『赤稲妻』を撃つには左側めがけて射撃しなければあたらない。
なんの苦もなかったかのようにすっぽりと雲に呑まれた一式戦と、それをみて諦めたかのように反転を始める米軍機たち。
ここで時計を見た時、すでに5分を過ぎていた。見学組達は次々に増槽を捨てて、再び雲の上に乗って帰投していった。
見学組が帰投する途中、町が見えた。ここで高度を1000まで下げて、速度も巡行まで落としていく。針路を修正し、町を航過―――。
やがて無事に帰ってきた見学組を、一ノ瀬や攻撃要員たちが出迎え、大はしゃぎで今回の空戦を喜び合った。
その後、少し遅れて帰ってきた『赤稲妻』は、戦果報告の猶予も許されず揉みくちゃに出迎えられ、一ノ瀬達に大歓迎を受けた。