2話
上空の喧騒が落ち着くや、各々があちこちへと歩き始めた。
美空もまた立ち上がり、今できること、やらねばならないことを始めた。
先ずは、母と再会し、互いの無事を喜んだ。
そして麻衣の死を伝え、協力を仰いだ。
母は彼女の両親を探しに行き、美空は麻衣の下へ戻った。
遺体は道中に晒されたままだった。彼女へ手を合わせる人はいたが、誰も彼女には触れていないようだった。
「麻衣ちゃん、戻ったよ。もう少し辛抱してね」
物言わぬ彼女の遺体へ声をかけつつ、その亡骸を、道路の端へ運ぼうとした。
その時、名前もわからない初老の男性が「担架を持ってくる」と申し出てくれた。続けざまに見知らぬ婦人が数人ほどやってきて、麻衣の世話を手伝い始めた。
世話といっても、飛び散った体の一部を集め、なるべく土埃を払って綺麗にしてあげるのが精々だった。
「麻衣!!」
聞き覚えのある声に、美空が振り返る。
「麻衣ちゃんの...お父さん」
美空の言葉に、麻衣の世話をしていた婦人方がスッと下がった。
美空の母と、麻衣の母が遅れて駆けつけてくる。
麻衣の父は無言で愛娘を抱きしめた。
代わりとばかりに、麻衣の母が慟哭した。
「一緒に逃げてたらグラマンに狙われて...撃たれて...」
「美空ちゃん、麻衣と最期まで一緒にいてくれたんだな」
呟くような小さな声とともに、麻衣の父が顔を向けた。
険しい表情だった。怒っている。だが、それに反して声音は優しい。美空に向けた怒りではない。
「本当にありがとう。」
ズッと胸に突き刺さった。
いよいよ自分が助かったことに対して申し訳なく思い始めていた時、あの初老の男性が担架を担いで来てくれた。
そこからは淡々と進み始めた。
麻衣の遺体を乗せた担架が運ばれて行き、婦人達もいつの間にかいなくなり、気が付けば美空と母の二人だけになっていた。
「美空、いったん帰りましょう」
「うん」
久しぶりに、母と手を繋いだ。
帰り道、辺りを見回しながら歩いた。あちこちに空襲の被害が見受けられる。
町の真ん中を流れる大きな川の土手をトボトボ歩きながら、町の被害を見渡した。
駅の付近から黒煙が昇っている。バスやトラックがよく通る幹線道路のあちこちにも煙が見えた。どこかの家屋に焼夷弾が落ちたのか、まだ消火作業中のようだ。
見知った町が壊れている。麻衣以外にも殺された人がいるのだろうかと、恐怖を覚えた。
「母さんも見たわよ、あのグラマン。とても怖かったわ」
「鬼畜米英の乗り物だもの、可愛いわけがないでしょ」
母の言葉を気強く茶化しつつ、平常を示す。
それでも、まだあの恐怖はまだ美空の身体に強く残っていた。
「グラマン、また来るのかな」
正直に言って、もう二度と出会いたくない。
あんな思いをするのはもうこりごりだったし、また狙われるようでは命がいくつあっても足りない気がした。
「大丈夫よ。また日本の戦闘機が追い払ってくれるわ」
母がニコッと笑って見せた。
美空は、「ああ、そうだった」とばかりに目を大きくした。
麻衣の死で頭がいっぱいになっていた。
日本の戦闘機が迎え撃ってくれたんだ。
脳裏によみがえる、白銀の戦闘機。立派な日の丸のマークに、それとと同じくらい良く目立っていた赤い線。たしか胴体を斜めに引いていたような線だった。
「どこからきたんだろ?」
「県境の北飛行場じゃないかしら。お向かいのお家の次男さんがそこで飛行機の整備をしてるって聞いたわ」
北飛行場なんていわれても、知らない。
少なくとも、町の中にそんな施設はない。
「たしか電車で―――」
その時、凄まじい爆音が会話を遮った。
見上げると、また飛行機がいた。
グラマンじゃない。日本の飛行機だ。
「あれって、さっきの」
間違いない。
白銀の機体に、斜めに引かれた赤い線。
美空の危機を救ったあの戦闘機だ。
しかし、先程とは少し様子が違う。ゆったりとしているというか、弱々しい。フラフラと頼りなく、まるで勢いを失った紙飛行機のよう。
「煙...かしら...?」
良く見ると、母の言ったとおり機体の先から白い煙が伸びていた。
どこからか、他の誰かが「敵にやられたのか」と大きな声を上げた。
やがて機体はやや斜めに傾き、おおきく円を描くように町をぐるりと廻り始めた。
半周ほどした時、聞いたこともない異音を発しだした。
「落ちてくるんじゃないか」
空を見上げる誰もが思った不安を、誰かが声に出した。
すると、その言葉通りに飛行機がみるみる大きく映る。
川岸を這うように、手を伸ばせば触れられるんじゃないかと思うほどの距離で通り過ぎていく。
飛行機は一度遠ざかると、翼を翻して再びこちらへ振り向いた。
「川に降りるつもりだ!」
誰かが大声で叫び、その場にいる住民たちが駆け足で土手から離れていく。
一気に緊張が走る。
川幅は決して広くない、あの飛行機より少し広いかどうかだ。
もう水面スレスレでこっちに向かってきている。ふとグラマンの記憶が頭をよぎった。プロペラを回転させて迫りくる光景に、再び身体が硬直を起こす。が、あの時と違って、殺気のようなものがない。その差が、美空は体を半ば無理矢理ながらも可動させた。
「お母さん!」
美空は母の手を引っ張った。
だが、母が微動だにしない。グッと力を引いてもビクともしない。
飛行機のプロペラが川の水面を叩きつけた瞬間、鈍い音とともに大量の飛沫を撒き散らす。
ふと、その光景が暗転した。同時に、母の暖かい匂いが美空を包む。
バシャバシャと冷たい音が近づいてくる。かなり近い。
急に静かになった。同時に、母の拘束が緩んだので、ヒョコっと顔を覗かせてみる。
すると、土手のほぼ真下に、銀色の飛行機がやや前のめりになって突き刺さっていた。
大きな日の丸。
機体の後ろ羽から斜めに伸びる赤い線。近くで見ると、それが途中で乙に折れて段になっていることに気づいた。線は先細りしていき、日の丸の下まで描かれていた。
ああ、この飛行機だ。あの時、グラマンと戦った日本の飛行機に違いない。
飛行機の前の部分は水面に隠れて見えない。
だが、操縦席を覆う硝子のところはパックリと開き、その中で人がモゾモゾと動いているのがハッキリと見える。
「...お母さん、あの人」
「出られないのかしら」
母の言葉につられて、美空達は機体の方へ歩み寄った。
そして、母からパイロットめがけて大きく声をかけた。
「大丈夫ですかあ!!」
返事よりも先に、パイロットが操縦席から転がり出てきた。主翼の上でフラフラになりながら、こちらへ向かってくる。息を乱しながら何か言っているが、あまりに弱々しくて聞き取れない。
たまらず、美空が駆けだした。主翼の先端へ飛び乗ってパイロットに近寄る。
「こちらへ」と、力無くフラフラとしたままの彼を支えるようにしながら翼端まで案内する。そして、河辺で待っていた母と二人がかりで河辺へ降ろした。
「飛行兵どの、ご苦労様です。お怪我はございますか」
母の問いかけに、パイロットは首を横に振った。
不時着の衝撃が原因か、朦朧とした意識のまま彼を引っ張っていく。
突如崩れた小さな町の平穏。
新聞やラジオの向こう側にいた戦争が、本土にやってきたと報せんばかりに、彼と出会った。