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赤い稲妻くん。  作者: ぴーす
19/20

19話

東京が大空襲を受けた2日後、名古屋へ200機、翌日には大阪へ約500機ものB-29が来襲。そのわずか4日後に神戸が大空襲を受け、本土の主要都市各地がB-29という新型爆撃機に次々と蹂躙され始めた。


日を重ねるごとに増える空襲の被害。それに呼応するかのように、美空達の上空にも変化が生じ始めた。


「もー、今日も訓練お休み?」

「そうねえ」


小さな温泉街の空を飛行機達が舞う。そんな光景がここ最近見られなくなった。朝から晩まで、空は静かなまま。今朝は1機だけまっすぐに飛んでいくのが見えたものの、それっきり帰ってこない。旅館から眺められた訓練も見れず、美空と久子は寂寥感を感じていた。


「今朝みかけた飛行機も帰ってこないし...なにかあったのかしら」

「出張とか?」

「本部が伊勢にあると聞いてますので...可能性はある。かな?」


なんとも遠い所に上司がいるものだ。空を飛ぶ者からすれば、大した距離ではないのかもしれないが、そんな感覚など持ち合わせるわけもなく、美空は大きくため息を吐いた。


「あーあ、会いたいなー」

「ふふっ、待ち遠しい?」


つい先日とかけた言葉と同じ質問を投げてみると、美空はコクンと頷いて返す。まあ随分と進展が速いこと、と久子は感心した。詳細までは知らないものの、かなり仲良くなったと本人が自慢していた。「次はもうメロメロにさせるかも?」などと余裕の笑みを見せていたものの、肝心の次が全く来ない。


「久子さんだって待ち遠しいでしょ?」

「早く会えるなら会いたいけれど、軍人の妻なのだから、じっと待たなくちゃ」


久子も宴会の日から夫と会えておらず、再開が待ち遠しいという気持ちは同じであった。ただ、たかだか1か月や半年くらいで音をあげるほど未熟でもない。本当に我慢できなくなれば、軍事郵便で言葉を送れる。検閲を意識した味気ない返事しか返ってこなくても、彼の文字が届くだけで心の支えになる。


「久子先生から一つ教えましょう。恋愛は長く続くもの。です」

「先生の恋愛も長かったの?」

「まだまだ終わってませんよ。結婚なんて通過点なんだから」


小さく笑う久子に、美空はふうと溜息を吐いた。結婚なんてまだ遠い先のこと。ようやく思うままに向き合えるようになった自分は、まだまだ少し歩き始めたばかりということか。と頭を抱えた。

再会からたった一週間。会いたいと願う気持ちが以前よりも早まり、大きくなっていた。


「最初は辛いけど、じっと待ちましょうね」

「...はーい」


不貞腐れる美空が、微笑ましく映る。青春ねぇ、と眼前の乙女に頬を緩ませる。


「ごめんくださぁい」


玄関から聞こえるか細い声に、頭の中を仕事状態に切り替わる。

時計を見やれば午後5時。空き部屋の数、夕食の追加準備の可否などを一気に巡らせながら、パタパタと急ぎ気味に、即席の笑顔で玄関先へ向かう。


「いらっしゃいま―――。」

「あのぉ、泊めていただくことは可能でしょうかぁ」


玄関をくぐった3人の女性の姿に、2人は言葉を喪った。

全身が煤け、髪も乱れ、衣服もボロボロ。モンペの裾や膝が焦げている。焼き芋が逃げ出したような身なりの3人組が、大きな荷物を背負って互いにギュッと手を繋いで立っていた。


「ちょっと、お客さんならはよご案内...って、どないしはったん!?」


遅れてやってきた女将も、玄関に立つ3人組に仰天して慌て気味に駆け寄る。伏し目がちな他の3人の端に立つ、おそらくこの3人の引率者と思しき年長者が、おっとりした口調で答えた。


「泊めていただければなぁと思いましてぇ」

「そらええけど...なんでそんな真っ黒なん」

「あはは、空襲でやられちゃいましたぁ」


暢気な口調だが、空襲の被災者。それを知るや美空が目を見開いて「怪我は!?」と迫る。この旅館で誰よりも空襲の怖さを知っている身のせいか、お客様だろうと関係なしと言わんばかりに両手を伸ばし、「ないですよぉ」と間延びした返事も無視して胴や腕をポンポンと叩くように触りだす。顔を寄せれば、焦げた臭い以上に妙に生臭い。美空の手で幾ばくかの煤が払われると共に、女将がピクリと反応した。


「久子さん、いったん従業員用の部屋に案内しましょ。他のお客さんもびっくりしはるやろし」

「は、はいっ」


慌て気味の久子に連れられて、3人は誰も使っていない従業員用の部屋へ通された。ここなら多少汚れても客は気付かないし、風呂もある。女将なりに気を回した結果、途中ですれ違った美空の母が絶句するだけで騒ぎは起こらなかった。


部屋に入るや、「お湯なら好きなだけ湧いて出るから、まずしっかり洗ってきなはれ」と女将に勧められて四人ゾロゾロと風呂場へいった。次いで久子に追加の食事を指示し、美空には着替えの浴衣を用意させに行く。


「この辺で空襲、言うたら...東京からやろか?」


初めて見る客に、女将は戸惑いを隠せない。ひとまず、と他の空き部屋から布団を一つ運び込む。さすがに3人分は置けないから、一部屋に2人、もう一部屋に1人でなんとか凌いでもらおう。2つの布団をくっつけてで3人寝てもらえると洗濯の量が節約できて有難いのだが。


「女将さーん、浴衣持ってきた!」

「おおきにー。脱衣所に置いといたって」

「はーい」


言われるまま脱衣所へ駆け込み、手ぶらになった美空が出てきた。何かと思い悩む女将を見たせいか、見真似で女将っぽく話しかけてくる。


「そろそろ配膳やねんけど、どっちがお母さん達の手伝い行くやねん?」

「あー、ウチが行くわ。あと関西弁ヘタすぎ」


「えー、そう?」と一人首を傾げる美空を残して部屋を出ていく。彼女も空襲を受けた身、言葉をかけるなら、同じ恐怖を知る者の方が良い。心ない言葉で心の傷を抉らせるのは勘弁だ。茶化し気味でも気遣ってくれた美空に内心で礼を言いつつ、女将はそそくさと次の仕事へ向かった。


さて、残された美空は畳に付いた黒い痕をぼんやりと眺めた。この煤けた汚れは、戦争による汚れ。あの空襲以来の戦争。まだもう少し遠くにいたはずの、片隅に追いやっていた戦争。


グラマンの空襲も酷いものだったが、あんな汚れ方はしなかった。機銃掃射とは違う、自分の知らない空襲を受けたんだろう。土汚れではない、燃えカスをかぶったような汚れ。爆弾かロケット弾に巻き込まれれば、外傷なく、とはいかない気がする。焼夷弾という燃焼用兵器にやられたのだろうか。生で見たことはないが、引火させた燃料をぶちまけて周辺を焼き尽くす兵器だと聞いている。あのパイロットに会う前、空襲対策のための講習会に連れて行かされたこと時のことを思い出す。


「天ぷら油に水...的な?」


水は油と混ざり合わない。鍋の油が燃えた時に半端な量の水を入れると、水は高温の油により加熱されて一気に気体に変化し、油と火を撒き散らす。料理をする者の基本知識を焼夷弾の構造と照らし重ねていいのかどうかはわからないが、あんな感じなのだろうか。


「あの、戻りました」

「お帰りなさ―――。」


座卓にちょこんと座って待つうちに、風呂場から一人出てきた。振り返れば、先程の煤けた身体が嘘のように白い肌を見せていた。スラリと伸びた肢体に、艶めきを取り戻した黒い長髪。

顔を見れば、玄関で話していた人とは違うと一目でわかった。キリッとした目つき、ツンと立った鼻、美少女の類に漏れない凛とした雰囲気の女性だ。


「あれ?なんで浴衣着ないの??」

「着て、良いのですか?」

「着て着て!」


見た目に反して弱々しい声。空襲で精神が弱ったんだろうか。自分もそうだったなあと思い出しつつ、歩み寄って彼女が抱えっぱなしの浴衣に手を当てる。急かさずにそっと浴衣を羽織らせてやると、美空が帯を締めて着つけてあげる。


「怪我なくてよかったー」

「あ、ありがとうございます」

「いえいえ。どこから来たの?」

「赤坂...です」

「赤坂って...まさか東京!?」


浴衣を纏った女性がコクリと頷いた。


「焼け出されてから、月夜(つくよ)姉様たちと歩いて、歩いて、ひたすら歩いて...。ずっと、彷徨ってました」

「一週間近く歩いてたの!?」


月夜姉様というのは、あの玄関で喋ったおっとりした子の事だろうか。とにかく、こんなところまでよく倒れず辿り着けたものだと感心した。美空は労わる様に座布団へ座らせて、襖をあけて「美空でーす!お夕飯の準備お願いしまーす!」と叫ぶ。すると、遠くから女将が「はいはーい」と返事を寄越してくれる。


「ご飯まで、いただけるのですか?」

「仕込みは私がやったから、めちゃくちゃ美味しーよ」

「えと、その」


モジモジとする彼女に、美空はニコニコ笑みを見せる。過去の自分と向き合えば、自ずと解る気がした。いま何をすべきか。彼女が何を求めているか。


「ここの空には日本の戦闘機がいるから、大丈夫。東京の時だって夜中なのにやっつけに行った」

「そう、ですか」


あの日、東京は大きな被害を受けたと聞いているが、その最中で立ち向かった者達がいる。少なくとも、彼は東京で戦った。被弾して、戦って帰ってきた。ここから、東京のために戦いに行った。私をグラマンから助けてくれたように、地上にいる人達の命や気持ちを背負って戦う人がいる。美空の瞳は熱意に満ち、そして溢れる自信を視線の先へ送り込む。


「誰も死なない。他の2人も、絶対に守ってくれる」


彼女は肩を撫でおろすかのように、ふう。と一息ついた。そして初めて「そうですか」と小さく言葉を漏らした。彼女が何を思っているのかはわからない。しかし、ほんの少し脱力した様子が見て取れる。

これ以上は誰も傷つかない。少なくとも、今この時は気を張らなくていい。


戦いの場から離れた実感。赤い稲妻のパイロットが行動で示してくれたことで得られたものを、なるべく言葉で与える。その目的が達せられるかどうかは相手次第だが、口にした言葉と、それに乗せた感情は嘘ではない。ひとまずは受け止めてもらう。ここは安全だ。ただそれだけを理解してもらえればいい。


「私、輝夜(かぐや)と言います。18です」

「永瀬美空です。25だから、私の方がお姉さんだね」


優しく頭を撫でると、ほんの少し嬉しそうな表情を向けてくれる。あのパイロットより年下か、あまりに凛とした顔つきだから自分と同い年くらいだと思ってたが、と心中で呟いてみた。


「美空ちゃん、入ってええ?」

「あ、女将さんだ」


「どうぞー」という美空の返事に、女将がスッと入ってくる。すると「この度は何とお礼を申し上げれば...」と輝夜が深々と頭を下げた。


「そんな畏まらんでええがな。それにしても大変やったねえ。ご飯やけど、先食べる?みんな揃ってからにしよか?」

「姉様達と、みんなで食べたい...です」

「ほな、もうちょい待とか。温かいお茶持ってきたから、ゆっくりしなはれ」


輝夜は、差し出されたお茶椀をなんとも行儀良い作法で持ち上げて口付ける。そのカッチリとした行儀の良さに、美空は「おー」と声を漏らした。女将は小さく笑みを見せ、「美空ちゃんより行儀ええなぁ」と茶化してみる。すると「私だって」と姿勢を正し、ファサ...と髪をなびかせて対抗する。


「どおよ」

「10点」

「よし満点!」

「100点中や」


日頃のやり取りを見せて、空気を温める。女将なりの気遣いに乗った美空も、普段通りに会話に興じる。それが効いたのか、輝夜も小さく笑った。


「あの、とても美人です」

「美人...うへへ」

「最初は真っ黒さんやったけど、あんたも偉い別嬪さんやなぁ」

「赤坂の人だっけ?行った事ないけど」


美空の言葉に、女将は「はぁ」と何か確信を得たような反応をする。


「美空ちゃん、お母さんとこ行って、ウチ等のご飯も準備してきて。せっかくやし、みんなで食べよか」

「お?りょーかい」


美空はきょとんしつつも、言われるままに部屋を出る。2人きりになった途端、女将は静かに声をかけた。


「...お名前教えて」

「輝夜、です」

「源氏名?」

「えっと、はい。遊女です」


赤坂といえば、今や吉原をも凌ぐ一大花街。他の2人もきっと同じか、同等の身分で生きてきた者達だろう。好んでこの世界を選ぶ者などいない。生きるためにその道を選んだ、選ばざるを得なかった囚われの身分。芸者などとの付き合いもある女将ゆえに、美空が手ではたいていた煤まみれの衣服から見えた衣装の元の色といい模様といい、花魁が着る打掛けと気付くには充分だった。


「焼けてもうたん?」

「はい」

「まあ、なんやかんやで自由になれたわけやな」

「そう、ですね」


言葉を詰まらせる輝夜。身分を恥じているのか、それとも戦災混じりに得た自由をどう向き合えばいいのかわからないからなのか。女将は淡々と「明日はどうするん?」と聞いてみる。すると、予想通りに困り顔で首を傾げ「わかりません」と返してきた。


「得意な事で生きていくか、新しい事に挑戦するか、姉妹みんなで決めてかないとアカンなぁ」

「...今日中に、決めます」

「じっくり話し合ったほうがええやろ。ここで、何日かけてでもしっかり決めてったら?」


女将の言葉に、輝夜はハッと顔を向けた。


「手伝いくらいしてくれると有難いなあ。本音を言えば、正規雇用の従業員も欲しいとこやけど」

「あの」

「ま、皆でゆっくり考えて頂戴」


女将が言い終えると同時に、風呂場から残りの2人が出てきた。女将は知る由もないが、輝夜の時と同様、みな浴衣を抱えたまま全裸で戻ってくる。


「あのぉ...これ、着ても良いのでしょうかぁ?」

「せっかく綺麗になったのに、あんな打掛着たらまた汚れるで?」

「えっ」

「月夜姉様、もう全部お見通しのようです」


湯立った身体に浴衣を纏わせ、あらためて身分を確認する。


最年長の月夜(つくよ)、21歳。

月夜の妹分の一人、次女役の輝夜(かぐや)、18歳。

三女役の小夜(さよ)は16歳。

いずれも遊女、もとい花魁だった。


「全員もれなく別嬪やねぇ」

「みんな人気はありましたぁ♪お客さんの評判も良かったよねぇ♪」

「月夜ねえ様に甘やかされすぎて職場でオムツが必要になった、輝夜ねえ様の反応が余りにも事務的すぎてそういうのでしか興奮できなくなった。アタシのせいで暴言吐かれる度に竿が反応するようになった。ってのは評判良いの?」

「全員もれなく曲者やねぇ」


さっきの提案は撤回しようか。いや、そもそもここはそういう接待は設けていないし、いざここで雇わせたとしても心配はいらない。最低限の釘だけ刺しておこう。あとは危機感を抱いた者がそれ相応の対策を取るはず。

彼女たちがどうするか決めるまでは、空襲の疲れを取ってもらう。それが最優先だ。


「女将どの、夕飯のご用意ができました」


襖越しに美空の母が声をかけてきた。


「ここじゃ狭いし、場所変えよか。みんなでご飯にしましょ」

「はぁい」

「あの、ありがとうございます」

「やべー、もはや天国じゃんもしかしてアタシらもう死んでる?」


女将に連れられた先には、美空たち母娘と久子、そして人数分の食事が待っていた。


「美空特性のニジマス料理でございまーす」

「娘が張り切って作りましたものですので、たくさん食べてくださいな」


「いただきます」の合唱を皮切りに、姿勢よく行儀よく、それでも手と口の動きは止まらず。久々の温かい食事に、胃が活性化する。


「おいしー♪」

「美味しい...本当に美味しい、です」

「なにこれニジマスって最強なん?」

「こんなご時世だけど、ニジマスさんは裏切らないよねー」


舌包みを打つ3人の中でも、輝夜が特別目を輝かせて美空へ視線を送った。素材の味も良いのだが、燻製といい塩焼きといい、その味付けに感動する。とくに真ん中の蒸したものが舌を唸らせた。


「コレ、何という料理ですか」

「これはね、酒蒸し。ゴマで香りをつけるのが美空風ですっ」


戦時という厳しい状況下で、これほど華のある料理を出せるのもまたすごい。一人当たりに何匹分ものニジマスを提供できるなんてまず不可能だ。


「こんな量のお魚、どうやって」

「まあそれは...秘密としか言えんなぁ」


女将の一言で多少の予想はつく。法外の世界から仕入れているのだろう。こんなご時勢でも、大金を積めば買えないものはない。輝夜自身、どちらかと言えばこの世の裏側に近い身分ゆえ、女将の返答についてはこれ以上追求しなかった。この手の『秘密』とやらは聞いて得はない。


「言っとくけど、別になんも悪い事してへんからね」

「まぁ、そうなのですか?」

「ちょお永瀬さん、この旅館なんやと思ってるの」

「てっきり極道の筋かと」

「なんか偉い人と癒着してるのかなって思ってた」

「この母娘わりと失礼やな」


やいのやいのと賑わうなかで、もてなされた4人は意を満たしつつ、耳で賑わう声を楽しむ。久子がこの旅館のことを軍の特別利用施設なのでは?と問うたら、女将は「正規雇用になってくれたら教えるで」と返す。すると久子も母娘も目を逸らし、女将が「なんや連れへんなぁ」と頬を膨らませてしょげる。


「ちゃんと給料出すのに」

「お金は別に困ってないし、ねえお母さん?」

「そうねえ。久子どのは?」

「夫の命令であれば、どこへでも働きに行くつもりですが...」


すると、おずおずと月夜が手を挙げて会話に割り込んできた。


「それって、もしかして私達も雇ってもらえるのでしょうかぁ...?」


月夜の問いに、久子と母娘、それに小夜が声を揃えて「えっ」と驚愕する。輝夜だけが大人しかった。


「奉公先が焼けちゃって、行く当てもないんですよぉ」

「さっき聞いた話やと、たしか赤坂の芸者はんやっけ」


遊女とは呼ばず、花の道を歩む芸妓と呼ぶ女将。悪い印象を抱かせまいという女将のわざとらしい問いに、月夜は「はいっ」と嬉しそうに頷く。


「ほんなら最初はお手伝いからやってみて、みんなでどうするか話し合って決めたらええんちゃう?」

「おー、輝夜ちゃん芸者さんだったんだ!」

「赤坂と言えば大花街でしたね。こんなに綺麗な3人が味方になってくれれば、心強いですわ」

「そうですね。とても助かります」


「...月夜ねえ様、どうすんの」


小夜の呟きに、月夜は明るい表情で姉妹たちに顔を向ける。


「小夜ちゃんはイヤ?」

「イヤっつーか...アタシらなんかで良いの?って感じなんだけど」

「輝夜ちゃんは?」

「私は、良い話だと思います」


顔を合わせる3人の脳裏に浮かぶ、燃えた帝都。突然やってきた



あくまで彼女たちの自由意志で決めてもらうことだが、それでも女将にとっては良い流れだった。崩れ者とはいえ、財界や政界の大物も通う大花街「赤坂」を舞台に第一線を張ってきた花魁が3人も手に入るのは大きい。一ノ瀬が歴戦の『赤稲妻』という名刀を得たのであれば、女将の前に転がり込んできたのは名弓。狙った的は必ず射止める、一度でも彼女達を魅入れば何度だって通い金を落としていく客が生まれる。


「まあ、ゆっくり決めたらええやん。せやなあ、明日は自分らの部屋の掃除と...あと服の洗濯だけやってもろうたらええか」


「ありがとうございますぅ」

「まじ神だわ」


「...というか」


女将たちの会話を遮るように美空の母が呟いた。


「赤坂も空襲の標的に?軍事施設なんてなかったと思いますけど...」

「最初の方は城東区とか深川区とか浅草一帯が全部燃えてましたねぇ。ボーッと見てたらこっちにも落とされて、慌てましたぁ」

「爆弾じゃなくて焼夷弾でしたので、木造の民家狙いだと思います」

「炎の竜巻とか生まれて初めて見たし。あー、死んだなって思った」


口々に語られる惨状。新聞やラジオでも敵将のルメーという人物を名指しして猛烈に批判していた。ポツポツと言葉となって、その内容が美空達の耳に届く。


爆撃は空襲警報より早く始まり、城東区、本所区、江東区、浅草区一帯が瞬く間に炎上。火災が風に乗って西に流れ始めると気付いた月夜に率いられて3人は逃げ始めた。数十分後には宮内以西の各区にも焼夷弾が降り注ぎ、月夜と同じ考えを持った逃亡中の都民を含めて赤坂区も炎の一部と化したという。


「とりあえず走り回ってたら、日本の戦闘機が川口市でB-29を食い止めてるって聞こえてぇ」

「戸田橋めざして、ひたすら走りました」

「右も左も前も後ろも火事火事火事。煙いし臭いし地獄でした」


そんな地獄でも、繋いだ手は絶対に離さなかった。

奇跡的に目的地付近まで辿り着いた頃には、空に飛行機はいなかった。それでもほんの少し安心できたらしい。人混みに圧し潰されかけながらも、3人は生き延びれた。


「火が治まって、一旦戻ったんですけど。焼け野原すぎてビックリ仰天」

「2日後になって、私達が使う防空壕を見つけて...入りました」

「中にいた人はみんな、苦しかったろうなぁ」

「使える物全部集めて、北に行こうって決めたんです」

「日本の戦闘機も北の方へ帰ってったって話だったんで、ついて行こー的な感じ。んでここまで来ました」


「アメリカ機、めっちゃ怖いっすよ」と小夜が茶化す。すると、美空が「うん、すごく怖い」と静かに返した。せめて苦笑いくらいになればと思ったが、美空達は重い表情で3人の話を受けとめた。

彼女たちが纏っていた煤は、東京の煤。帝都を成した幾千もの建物と、そこで生きていた幾万もの人たちの命が焼けて浴びた煤。言葉だけでは伝えきれないだろう惨状の中で、美空は命を繋ぎ止めた彼女達に言葉をかけた。それは、輝夜にとっては二度目の言葉。


「ここの空には日本の戦闘機がいるから、大丈夫」


すぅ。と一呼吸おいて、美空は3人に力強い視線を送った。彼女の気持ちもまた、言葉では伝えきれないものを秘めていた。力強さの根拠は、彼女の知る戦闘機?それとも防空任務に就く人?


「帝都防空隊とやらは期待外れっしたよ」

「私の知る飛行兵は、一人で60機のグラマンを相手できたよ」

「...そんな人いんの?」

「ここに居れば、会えるよ」


だからここにおいで。とは言わない。でも、小夜はニッと笑みを見せて「へぇ」と興味を示した。もともとこの旅館で働くことに賛成する輝夜と、それを提案した月夜。近いうちに答えは出せそうだ、と女将は確信した。


「ちなみに美空が片思い中の人です」

「あらぁ♪」

「私も興味、あります」

「良い男だったら獲って良い?」

「は?」


小夜の小悪魔じみた笑みに、美空はハッとした。よく考えれば、3人とも格上の美女。月夜という人に至っては胸の大きさすら負けているように見える。

美空が感じた危機感よりも早く、久子が先手を打ちにいった。


「私の夫もいるので...手を出したらボコボコにします。思い違いでもボコボコにします」

「え、こっわ」

「具体的にはぁ?」


久子は微笑み顔のまま、燻製になったニジマスの頭を箸で持ち上げて、小さな八重歯でグシャリと噛み砕く。物騒な音を立てながら咀嚼を終えると「こんな感じで頭グシャグシャにしてやります」と静かに警告する。


「...月夜姉様、これは本気のやつだと思います」

「ぽいわねぇ。なら逆手となるのが良いかなぁ」


震え声の輝夜に対して、おっとり口調のままの月夜が「奥様との仲をより深めれるように応援するというのは、いかがでしょうかぁ?」と提案する。すると、ポッと顔を赤くして「そ、それならば...」と頬に手を添えた。要領を得た月夜は「いろんな技、学んでますのでぇ♪」とすり寄る。ひとまずニジマスのような事にはならないよう、手早く立ち回り始めた。


「で、片思いの方はどーなんの?」

「ボ、ボコボコにする!」

「むしろボコボコにされなさいな。のんびり屋の美空には良い刺激になります」

「へへっ、楽しみ♪」


挑発する小夜に対して、諫めるように「小夜、慎みなさい」と輝夜が止めにかかる。月夜も「どっちも応援しますよぉ♪」と場に加わるが、小夜は表情を変えずニヤニヤしていた。


「輝夜ねえ様も月夜ねえ様も、好みだったらどーすんの?」

「その時は...真っ向勝負?」

「そうなるわねぇ」


3人とも、幾分か表情は和らいでいるように見えた。一方で、美空の表情は固くなりつつあった。


「えっ、なんで久子さんと全然違うの!?」

「そらもう桁違いの暴力性――――。」

「女将さん?」

「...桁違いの愛情やな」


翌朝、旅館に新たな仲間が加わった。美空にとっては、初めて潜在的脅威というものが身近に現れた。


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