18話
「重ね重ねの無礼、なんとお詫び申し上げるべきか...」
「いえ、そんな」
頭を下げる美空の母に、パイロットは慌てて姿勢を正して向き直る。心の中にあった思いを振り払うようにニパッと笑みを見せて「ぼくが美空さんに甘えてしまいました」と明るく振る舞う。頬に残る感触が名残惜しいのか、無意識に自分の手を添えていた。
「こんなに心を温めてもらったのは、何年ぶりでしょうか」
元気で活発な彼の印象とは少し違う、静かでしとやかな表情が母娘の視界に映る。「まあ」と母はパイロットの新しい一面に悦びを覚える一方で、美空はどこか不思議そうに首を傾げた。頭と頬を撫でただけでここまで喜ばれるとは、いささか過剰にも思える。嬉しい気持ち半分に、美空は揶揄うような口調で尋ねてみた。
「そんなに冷えてた?」
「冷えてた...のかな」
茶化し気味に、苦笑いを浮かべてくる。美空は興味を抱いた。少し撫でられただけで癒しを感じる『赤稲妻』と呼ばれるパイロットは、その心に、何を抱えているのだろうか。
無論、生半可なものではないと予想する。あくまで戦地帰りの軍人、グラマンに襲われた時以上の恐怖だって経験しているだろうし、麻衣のように友人を喪った悲しい過去だってあるだろう。
別に彼の心の傷を抉りたいわけではない。ただ、冷え切ったものを中途半端にさせておくのも嫌だ。
久子の助言でいうならば、美空にとって「あの抱きしめたくなるほどの笑顔をもう一度」という気持ちが次の目標なのだろう。少なくとも、彼女はそう自覚していた。
「飛行兵どの」
「はい」
「童貞ですか?」
母の思い切った質問に、美空はギョッとして顔を向けた。男女のあれこれをはしたないと呼ぶのなら、母も娘のこと言えないじゃないかと無言で突っ込む。
それに対して、パイロットは素直に「はいっ」と答えた。聞かなくても、晴れ着やら浴衣姿であたふたする様子で何となく察せる。変に誤魔化さないあたり、潔い。
「女遊びなどは?」
淡とした問いは続く。母なりの面談、お見合い相手の品定めのつもりだろうか。おそらくそれに気付いていないパイロットは、元気よく素直に素性を明かす。
「帝国軍人の荒鷲は、無責任に婦女子を傷つけませんっ」
「遊郭には?」
「行った事ないですっ」
清々しく答えるその様、なんとも天晴れとしか言いようがない。帝国軍人の荒鷲というのは、いわゆるパイロットの職につく軍人の事だろう。そうあれと教え込まれたのだろうか、少し自慢げというか、誇っているようにも見える。
「娯楽は?」
「んー、お菓子とか」
「ぷっ」
子ども丸出しな回答に美空が噴き出した。ニッコニコで甘いものをほっぺ一杯に頬張る彼の姿が容易に想像できる。むしろ派手に女を侍らせて悦に浸る姿が思い浮かばない。酒も得意そうではなかったし、夜遊び全般に馴染みがなさそう。
「...大人でも甘いものが好きなのは良いと思うんです」
拗ねた表情で反撃するパイロットに「そうね」と声を震わせながら返す。片腹抱えて彼を指さして「子どもじゃん」と笑いたいのが本音ではあるが、その心中はすでに彼に勘づかれている。ジトッとこちらを睨む彼の機嫌を損ねさせるわけにはいかない。なんとか必死にこらえる。
「こ、今度お姉さんとお団子たべよっか」
「むう...」
警戒しがちに睨みを利かせつつ、小さく頷く。「からかうのはダメですよ」と釘を刺したつもりの一言を添えてくるが、美空に言わせれば何の効果もない。竹槍にグラマンくらい意味がない。
自分の質問に答えた結果、彼は文字通り清廉潔白。顔ヨシ性格ヨシ。妙な悪癖もない武功者。まさに文句なし。流行りの結婚十訓に当てはめても
一 一生の伴侶に信頼できる人⇒大丈夫
二 心身共に健康な人⇒大丈夫
三 悪い遺伝の無い人⇒ありえない
四 盲目的な結婚を避けなさい⇒大丈夫
五 近親結婚は成るべく避けなさい⇒大丈夫
六 晩婚を避けなさい⇒美空が危ない
七 迷信や因襲に捉われるな⇒大丈夫
八 父母長上の指導を受けて熟慮断行せよ⇒永瀬家側は決めました
九 式は質素に届は当日に⇒準備します
十 産めよ増やせよ国のため⇒いろいろ娘に教え込めば大丈夫
総論としては、なんとしてでも永瀬家に婿入りしてもらいたい。値踏みを終えた母は、隣に座る美空へそっと耳打ちする。
「美空」
「なに」
「絶対に逃がしてはなりませんよ」
母の言葉に、美空がブッと吹き出す。肘で突いて「うるさい」と小さく怒る。なぜそういう話に持っていこうとするのか。私なりに時間をかけて選ばせてくれほしいと目で訴えるも、その気持ちは届くこともなく尻目へ置き去りにされる。
「飛行兵どののご両親とも、ぜひ親交を深めたいですわ」
「親、ですか?」
母の言葉に、パイロットは少し困った顔になった。なにか問題を抱えているのだろうか、母のみならず、美空もそっと視線を彼へ向ける。
「母はぼくを産んだ時に亡くなって、父も戦死しました」
「...あの」
「母はこんなに立派な身体を授けてくれました。父も戦死も立派だと聞いており、尊敬しております。両親を誇っています」
ニコニコと笑うパイロットだが、孤児と言われれば胸が苦しくなる。見たこともない母への感謝、戦場で散った父への敬意。なんと健気な子なんだと、母の親心が感情を揺さぶった。
「母方のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが親代わりになるのですが、仲良くしていただけますでしょうか?」
「...ぜひお願いします」
「わかりましたっ!お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、きっと喜んでくれます」
亡き両親に代わり、めいっぱい愛情を注いだのだろうか。彼の幼少は、どんなだっただろう。顔や性格は変わらないのかな。もっと小っちゃくて、キャッキャッと走り回っていたのだろうか。母娘の妄想の中ではしゃぐ幼子に、思わず胸が高鳴る。写真とかあれば、見せてもらえるかしら。
値踏みも終え、満足そうに母が立ち上がる。
「さて、飛行兵どのの夕飯を準備しなくちゃ。と、その前に...美空、ちょっと来て」
「私?」
母に連れられ、部屋の外へ。
キョトンとした娘を前に、母は小さな声で指導を始めた。
「いいですか、美空。婚前行為はダメです」
「しない」
「かといって、次お会いできる機会なんてわからない。なので、貴女のはしたなさに見合う技を伝授します」
「ちょっと今イラっときたよ?」
「良いですか。彼は――――」
ボソボソと、美空へ言葉を預ける。直後、美空は顔をボッと赤くして身を固めた。何を言うんだと喚こうとするや、母の手に口を塞がれる。ジタバタと暴れるも、母は一向に解放してくれない。
「んー!」
「静かになさい」
まるで永瀬母娘がかりの一大作戦。娘とパイロットが思いのほか仲が良い様子であることに気付いた母なりの、篭絡作戦が小声となって美空の頭に叩き込まれる。
「30分で戻ります。しっかりやりなさい」
「ぷは! や、やるかどうかは私が決めます」
「...危機感のない子ね」
呆れた様子で娘を解放すると、母は背を向けてスタスタと去っていった。30分後に戻ってくると言っていたが、その間にやれというのか。目的はともかく、手段が正気の沙汰じゃない。美空は頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。
「...。」
襖の向こう側。パイロットはちょこんと正座したまま、ただ一人となった部屋でジッとしていた。いきなり静かになった空間内で、気になることが一つ。
座卓に置かれたお茶と、小皿に盛られた色とりどりの星粒。
(金平糖だ...)
決して量は多くないが、小さな山を成す甘い菓子に心が揺れる。食べていいのかな。
舌で転がせばジワリと広がるあの甘い味。噛めばポリポリと小気味良い音と共に一気に甘さが伝わる。
軍人となってからも意外と身近な存在だった。非常食用の乾パンと一緒に届くので、いろんな兵隊が持っていたりする。乾パンは古くなったらお酒と一緒に食べてる人を見かけたが、原則は上官の許可のもと使用されるので統制下のもと食べれる品目。対して付属の金平糖は割と自由に使われていた。先に食べてしまう人もいたし、現地の子供に分けている人もいた。
自分は前者であり後者でもあった。自分用のはチマチマ食べて戦時の楽しみとしていたし、なにか褒められるとお菓子をもらえた。金平糖もその一つ。最前線で甘いものを食べる事は、自分にとっては最大の至福だった。
一個くらい良いかな。
ヒョイと一粒つまみあげると、口の中に放り込む。途端に砂糖の甘味が口の中で溶けるように広がり始めた。
舌の上を転がる星粒を奥歯に乗せ、カリッと砕いた。途端に、至上の幸福が口いっぱいに広がっていく。
「んー♪」
ほっぺが落ちるとはこのこと、と言わんばかりに手を添える。喉の奥まで届く甘味に表情が蕩けていく。
こんなちっぽけな粒1つでここまで幸せになれるなんて、このお菓子を考えた人に感謝の念すら抱く。
「そんなに美味しそうに食べてる人、初めて見たなー」
美空の声に、ハッと正気が戻る。隣を向けば、いつの間にやら彼女の顔がこちらを向いてニヤついていた。
「いつお戻りに...?」
「なんか悩んでた辺りから」
美空のニヤけ面に相応しい程度に赤面する。顔が近い。悪戯めいた表情でも、美人の要素はしっかり残っている。目を細めて垂れ気味口にこちらを見やる瞳、ニッと見せる白い歯、うっすらと桜色の唇、そういった『異性』をいちいち意識してしまう距離。口の中に残していた甘さが、生唾と共にゴックンと流し込まれて消えていく。
「金平糖食べるかどうかで悩んでたの??」
無言で頷く彼が、なんとも微笑ましい。一人で食べていいのかな、みんなで食べた方が良いよね、でも食べたい、一個だけなら、とか考えてたんだろう。なんとなく予測できた。このパイロットの思考は誰だって読める気さえする。
「てっきり辛いコトでも思い返しちゃってたのかな、って心配してたのに」
「辛いこと...ですか?」
母にいろいろ吹き込まれても、美空の気持ちは変わらない。
あの笑顔をもう一度見たい。
猶予30分と迫られたが、別に余命ではないし彼の意思もある。私なりに進めて、どうするかは私達で決めさせてもらう。今はただ、自分の気持ちを叶えるために彼と接していく。
「辛いことなんて、思い返せばキリがありません」
「うん」
「さっき、美空さんに温めてもらいました」
「うん」
照れくさそうな表情まで持ってこれた。パイロットの視界の外で、そのままおいで。と美空の両手が浮き上がっていく。
「だから、もう大丈夫です」
「チッ」
妙なところで大人ぶる。じれったい。思わず出た舌打ちに首を傾げるパイロットに、なんとかあと一歩踏み出してほしい。そんなモヤッとした心情に、母の言葉が蘇ってくる。
それはイヤだ。
あくまで上品に。お姉さんらしく。
「稲妻くんが甘えてくれて、嬉しかったよ。男の人にこんな気持ちになったの、はじめて」
「そ、そうですか。よかった...です」
こうして、甘えてもいいんだと思わせる。するとどうだ、思った通りにモジモジし始める。状況は優勢、あとは私の胸に飛び込んで―――。
「あの、どうぞ」
「うん?」
パイロットが恥ずかしそうに目を瞑って、ピッと姿勢を正す。何のどうぞなのかわからず、美空は困惑する。すると、表情を変えずに彼がポツリと言葉を向けた。
「美空さん、さっきギュッてしたいって」
「う...」
そういうえば言ったなあ、と思い出す。異性に対して初めて抱いた気持ちを尊重して、というパイロットの気持ちを美空は汲み取ることはできない。しかしながら、彼からの厚意は感じる。
おもむろに顔をパイロットの胸元に当ててみる。初めて会った時の異臭はなく、息をするたびに温かい匂いが胸いっぱいに広がっていく。母と違った匂い。だが、心地良い。甘やかすのも良いが、こういうのも中々良いなと、美空は年下の身体に身を預ける。顔こそ幼いが、体付きはなかなか引き締まりのある大人らしさを感じさせる。
頬を擦る肌触りの良い感触。彼のマフラーか。キメのある柔らかい感触が、ずるいほどに気持ち良い。
「...このマフラー、絹?」
「はい、古くなった落下傘を使って作ったものです」
なかなか洒落たものを使っているなあと思うと同時に、スンと鼻を当ててみる。すると、彼の匂いがしっかりと感じられた。だいぶ使い込んでいるのだろうか。
「いーなぁ」
「...欲しい、ですか?」
パイロットが優しい声で囁く。美空が顔を離してへ?と見上げるや、彼の両手はすでにマフラーを解こうとしていた。美空の頭上から、フワリと白い絹布が舞い降りてくる。視界を覆うサラサラの布地から温かい匂いを感じつつ、美空は絹のマフラーを両手で受け取った。
「ぷは...、くれるの?」
「ぼく達のために、銃後の皆様がたくさんの制約を受けていると聞いています。使い古しですが、お使いください」
戦時下での制約はたしかに厳しいが、そんな露骨に施しを受けたいほど困窮はしていない。物乞いのような扱いは勘弁してほしいという反感とともに、ちょっとした悪戯心を芽生えさせた。
「稲妻くん。私ね、物乞いのつもりで言ったんじゃないの。稲妻くん達が全力で戦えるように、私達は生活を切り詰めてでも全力で応援してる。銃後の応援を踏みにじるような行動は、ダメだよ?」
「...軽率でした。ごめんなさい」
「気持ちはありがたく受け取らせてもらうから、お務めを果たしてね」
軽い説教をして、パイロットへ自分の扱いを正させる。今後もこういう事が無いように釘をさす。彼の善意は決して悪い事ではない。ただ、今は戦時。将兵なんだから、マフラーなんて飛行兵の象徴なんだから、選ばれた者にしか着用ができない特別な物を安易にあげてはならない気がする。
「お務め、かあ...。ぼくの務め」
「どしたの?」
どこか切なげな表情を見せるパイロットに、美空は首を傾げた。ちょっぴり不安そうというか、悲しそうな顔付きに、彼女は心配した。
「ぼくのお務めは、本来ルソン島の決戦で果たされる予定でした」
ルソン島、フィリピンだ。彼の背中に残る傷痕を作った戦場。たしか対空砲を受けて怪我をしていたと言っていた。特攻援護の任務の途中だったはず。
「特攻隊の援護?」
美空の問いかけに、パイロットは首を横に振った。
「昔、とても偉い上官に言われたんです。貴様達は一体いつまで生きとるんだ。って」
美空は絶句した。遠回しに「早く死ね」と言っているようなものだ。戦死は誇られるべきだが、それはあくまで必死に戦った結果に対する労いであり、命を捧げたことに対する敬意。少なくとも、決死の想いで戦い続けている者に対して言う言葉ではないことくらい、美空でも理解できた。
「...なんて返したの?」
「死ぬまで生きますって、ある先輩が答えてくれました。あれ以来、みんなで誓い合ったんです。死ぬまで生きて、戦おうって」
今、私はパイロットの心に触れている。美空は確信した。彼が抱えているものを知りたいと思ったが、すでに想像を超えた凄絶なものを見せつけられている気分だった。彼は遠い過去と向き合うかのように、天井を見上げた。
「稲妻部隊はずっと戦い続けました。戦って、補充と飛行機の更新を受けて、また戦場を変えて空戦に明け暮れました。2年経って、たくさんの隊員が戦死しました。生き残るたびに申し訳なく思う日々でした」
言葉を遮りたい。生きることが罪のように思うのはおかしい。彼はまだ視線を向けてくれない。言葉は続く。
「ルソン島で特攻要員の募集があった時、いよいよ死ぬ時が来たと思って応募しました。結果、ぼくは援護要員。ぼくと同じく生き残った先輩で、戦隊長にお願いしました。ぼく達も特攻に出たいって。でも、お前達はダメだ。失うわけにはいかないと言われました」
いつまで生きているつもりなのかと言われた果てに、死なせないと言われるのは相当辛いだろう。間違いなく彼は生き地獄を歩まさせれている。
戦って死を迫られ。戦って散々に傷ついて。戦って死ぬことを願い出れば、生きて戦い続けろと強要される。どんなに苦しいだろう。会うたびにニコニコと明るく元気に振る舞っている彼が、ただただ痛ましい。私や母の前で賑やかし、揶揄ってきた彼が、金平糖1個を食べるのに悩むほどの純真な彼が、こんなにもつらい思いを抱えているなんて。
「負傷した後、稲妻部隊が保有するすべての可動機は使い果たされました。帰還したのは、余った僅かな飛行兵とぼくみたいな怪我人だけです」
言葉を鵜呑みにすれば、全滅状態。陸軍で最も古い歴史と伝統に飾られたと、宴会で聴いた。稲妻部隊は、天皇陛下から御嘉賞をも賜った名門部隊だと。そんな精鋭部隊が、そこまでボロボロになっているのか。
「...今日初めて、生きててよかったって思えました」
ようやく美空とパイロットの視線が重なった。胸の中で見上げてくる女性に、彼はそっと手を添えた。
「生きてたから、美空さんを救えた。武功より、御嘉賞よりずっと嬉しかった」
ポタリと、温かいものが美空の頬へ伝った。戦い続けて傷だらけになり、死ぬに死ねない立場と化してなお戦い、初めて繋ぎ止めた命。彼女から受け取った「ありがとう」の暖かさに、戦い続ける意義をようやく実感できた。パイロットから流れ落ちる大粒の雨に、美空もまた涙を浮かべた。
「稲妻くんのおかげで、元気に生きてるよ」
美空の涙を交えた笑顔に、パイロットは力強く抱きしめた。固い縛帯と分厚い飛行服も、関係ない。ただ彼の体温と匂いが心地良い。トクトクと聞こえる心音が、くすぐったい。溶けた氷から流れる水が、とても温かい。
「...もう一回だけ、甘えさせてください」
「いつでも、何回でも甘えに来て。たくさん撫でてあげるし、抱きしめてあげる」
カチカチと時計が回る。垂れ流しだったラジオの音が聞こえるくらいに落ち着き、2人は顔を見合わせた。
「稲妻くん、ホント可愛いなぁ」
「子ども扱いは、その、控えめにお願いします」
2人で小さく笑い合っていると、スッと襖が開いた。
「飛行兵どの、お夕食を...。あら、お邪魔だったかしら」
夕飯を並べた盆を抱えた母が、ニヤニヤと笑みを見せる。パイロットは恥ずかしそうにパッと手を離すが、離すまいと美空が抱き付き返す。
「イイとこだったのに。お母さんの作戦なんて、不要だったもんね」
「さ、作戦?」
「うん、稲妻くんともっと仲良くなるための作戦。私達、もっともっと仲良くなれたもんね」
悪戯っぽく笑う美空に、パイロットは困惑気味ながら小さく頷く。まだ赤みがかった顔ながら、美空の抱擁を静かに受け入れている。仲睦まじい自分達の姿を美空なりに見せつけているつもりだろうが、母のニヤけた顔は変わらない。
「美空なりに、別の手を使ったというわけですね」
「へ?」
「咥えたのですか?それともお乳で挟んだのかしら?」
母の言葉を想像した美空は顔を真っ赤にして「するわけないでしょ!!」と怒鳴る。その隣で、パイロットが真っ赤な顔を突っ伏せてしまった。
「あら、飛行兵どの。知識はおありのようですね」
「...知りません」
「稲妻くん?」
いくら子供っぽいとはいえ、二十歳なのであればそれなりの関心を抱いているだろうし、それに応じた知識もあっておかしくはない。それでも、幼い顔でその反応は少し生々しい。母の標的が自然とパイロットに移っていく。美空も、母譲りの悪戯心を芽生えさせずにはいられなかった。
時計が21時を示す。
とっくに返事の手紙を書き終え、久子は何度も何度も愛しい夫が書き綴った文章を読んでは一人でキャッキャとはしゃいでいた。一言一句に胸をときめかせ、妄想の中で夫と戯れ続ける事はや2時間半。文末に書かれた「21時頃に帰すように」との指示を忠実に守りぬいた彼女は、満を持して美空達の部屋へ向かった。
思いの丈を書き連ねた手紙を仕舞った封筒を片手に、襖を開く。すると、母娘に挟まれたまま正座した『赤稲妻』が涙目で笑顔を向けた。
「あの、お返事が出来たのですが」
「はいっ、お預かりしますっ!」
正座し続けて足が痺れたのか、ズリズリと這うようにこちらへ寄ってくる。それに合わせて美空が四つ足で並びかけてはコソコソと何か囁く。「ぼくはそんな軟派な男じゃないですっ!」と喚いてガクガクと無理やり膝を立たせた。すると、美空は追いすがるように彼の腕に絡みつき、まだ彼に何か囁く。
「美空さんっ!前回もですけど、そういう揶揄いはいけないと思うんですっ!」
「えー?稲妻くんがしたいならしてあげまちゅよー?」
「~~~~ッ!赤ちゃん扱いはイヤです!!!!」
何を吹き込まれているかはわからないが、相当恥ずかしいことを言われているのだろう。顔も耳も真っ赤、日の丸並みに赤い。
「遅くなってしまい、申し訳ございません」
「いえ、すぐに少佐どのへお渡しします。今すぐに」
「お、お願いします」
慣れた手つきでマフラーを巻きなおしたパイロットを、3人で外までお見送りをする。ギャーギャーと騒ぐものの、彼の表情はなんとも楽しそうであり、久子も安心したように微笑んだ。
「お邪魔しました」
「いつでも来てください。夫にもよろしくお伝えください」
「はっ」
ピッと敬礼する『赤稲妻』に、ペコリと一礼して応える。すると、美空の母が「戯れが過ぎまして、申し訳ございませんでした」と続けて頭を下げた。すると、彼はまた顔を赤くして「...次はもう少し手加減してくださいね」と力のない笑みを見せる。
「稲妻くん、また来てね」
美空の元気な声に、『赤稲妻』は負けじと「はいっ」と笑顔を見せた。
真っ暗な夜道をタッタッタ...と走り去る。夫でさえ自転車で来るのに、鍛錬も兼ねているのだろうか。こんな所でも元気な様を見せつけられ、思わず笑ってしまう。
「元気な人ですね」
「ねー」
「若いって良いわねえ」
和気あいあいと旅館へ戻る3人。
3月10日、『東京大焼殺』と呼ばれた大空襲の火がようやく消えた夜のひとときであった。




