16話
その日の深夜、指揮所からマイクが鳴り響いた。
「情報、情報。房総半島上空にB-29多数。命令、可動機緊急出動。東京にて来襲機を迎撃せよ」
就寝中だったが、飛び起きて飛行服を着込みながら急いでピストへ走った。
全力で走って来てみると、すでに稲妻先生が完全装備の恰好で待っていた。手際の良い人だ。学生で一番早かった自分よりも早い。さすが先生だ。
遠くで「回せー!」と怒鳴る声が聞こえてくる。同時に、機械的な音がパッパッと鳴り始めた。
「早いですね。実戦でも褒めてもらえますよ」
先生の声音は、いつもの人懐っこさを纏った明るいものではない。これからの事を見据えた厳しい目つきで、それでも小さなの事を褒めてくれる。心に余裕があるのだろうか。
間もなく2人目、3人目の同期がやってくると、我らが隊長の一ノ瀬少佐が指揮所から飛び出してきた。
「助教と、早く来た者2人は俺と来い。それ以外はここに残って、他の者達とピストで待機だ。」
半月前の初陣と比べると、随分慌ただしい。逼迫した表情の一ノ瀬少佐が、自分達を連れて走り始めた。
「俺と助教が長機のロッテ編隊、長槍戦法でいく」
「はっ」
たったそれだけの説明を頭に刻み込み、走った先で待ち受ける数機の四式戦の下へ駆けつけた。すでに始動し始めている。
「可動機30で状態『甲』12、うち増槽弾薬完装3機。もうすぐで4機目が終わります」
「4機で飛ぶ。助教、今回は四式戦で飛んでくれないか」
整備隊長の淡々とした説明を聞くや、稲妻先生は「了解ですっ」と即答した。一秒も惜しいとばかりに一ノ瀬が時計を見やり、近くにいたもう一人の学生の肩を叩いて「俺の2番機を頼む」と声をかける。
それを見た稲妻先生が、手を握ってきた。顔を寄せて、気迫と自信に満ちた表情で声をかけてくれた。
「一緒にがんばろ。ね?」
この時初めて、自分が緊張していることに気付いた。先生の言葉に甘え、「はいっ」と気合を入れて返事をした。このやり取りを最後に、それぞれ四式戦に乗り込んだ。
普段は真っ暗な滑走路に、最低限の灯りがついている。ぼんやりと伸びる点と点を結んで作られた線を並べた滑走路を走り、充分に加速して羽ばたいていく。闇夜に消えるとはこのことか、空に上がった途端に暗闇が周囲を覆ってしまう。
稲妻先生が乗る四式戦から目が離せない。照準器の円を重ね、距離100メートルを保つ。すると、昼間は余裕すら感じるこの距離があまりに遠く感じた。見えなくはないが、暗がりで見づらい。もっと近寄りたい。
「感明どうですか」
無線電話が、雑音混じりになった助教の声を届けてくれた。いささか緊張気味に「感明良好です」と返事をすると、「良い位置についてます。流石です」と褒めてくれた。心配りのつもりかもしれないが、その些細な一言が勇気をくれる。
さあ、やるぞ。
まだ雛鳥とはいえ、帝国陸軍の戦闘機乗りなんだ。
気合を入れて、「ずっとついて征きます」と声を上げた。
2番機から威勢の良い返事をもらい、『赤稲妻』は方向舵を操作して機体に浴びる風をいなしていた。一ノ瀬も同様に機体を制御しつつ、巡航よりやや急ぎ気味に速度を上げていく。受け取った情報では。房総半島上空にB-29多数とあった。つまり、すでに敵機は房総半島を通過している。帝都を守る防空用の飛行戦隊や本土各地に展開する実戦用の戦隊のみならず、自分が抱える教育部隊にまで通達が届くあたり、この敵襲に大きな不安を抱いていた。先月の艦載機来襲の時と同じく、総力戦になるのだろうか。
やがて、遠方に暗闇を打ち払うほどの明かりがみえてきた。離陸時間と進路から考えて、あの明かりが帝都付近だと気付くとともに、その異様な光景に息を呑んだ。
同じものを感じたのか、無線機越しに『赤稲妻』が呟いた。
「東京が、燃えてます...」
赤々とした明かりはみるみる大きくなって一ノ瀬達を待ち受けていた。ひときわ明るい部分が数か所。一つ、二つ、三つ、四つ。それを起点とするかのようにボウと明かりが広がる。灯火管制を解除してるわけでも、探照灯の灯りでもない。一ノ瀬はスロットルを開き、最大速度で急行した。
振り返ると、右脇をしっかりと『赤稲妻』が追従している。後続機もなんとか後方を追っていた。迫りくる危機に怯えている場合ではない。一ノ瀬はあくまで冷静に戦闘準備に移った。
「東京を通って南下。いったん高度を稼ぐ」
「了解」
「了解」
「了解」
機首を上に向きつつ、紅蓮の業火に焼かれていく大日本帝国の首都の上空に近づいていく。あの明かりは町の灯火ではない。間違いなく火災、B-29による爆撃で生じたものだ。4点を結ぶかのように大きく広がっていく明かりの中は、炎熱、いや灼熱の地獄絵図。地上の人達は暗闇から一転したこの惨状の下で、必死に耐えている。
突如、空中で一閃した。大きな声で無線で一ノ瀬に話しかける。
「前下方に敵機!」
「なんだと」
目を凝らしてみれば、不気味な物体が一列になって飛行している。地獄と化した地上の火災が、その姿を示してくれていた。これまで聞いていた空襲とは全く異なることに、一ノ瀬は当惑せずにはいられなった。B-29は高度9000-10000メートルという高高度から来襲するはずなのに、目下を遊弋するB-29は3000メートルより低い所を飛んでいる。夜間に爆撃を受けるというのも今回が初めてだ。
完全な奇襲。迎撃の様子は見受けられず、完全に後手を踏んでいる。我々ではあの炎は止められない。
だが、それでもやらねばならない。一ノ瀬は一呼吸おいて、静かに闘志を燃やす。
「助教を先頭に突撃する。みんな、仇を取るぞ」
「了解!」
「了解!」
学生達の返事に少し遅れ、『赤稲妻』が「了解」と静かな返事を寄越す。同時に一ノ瀬を追い越して先頭に立った。空中に年齢や階級は関係ない。経験豊富な練達者が戦法を一番槍となり、ひたすらに敵を突き穿つ。実戦経験のない即席の贋作など無価値だ。四発重爆との交戦経験を持つ彼を刃先に据えれば、長槍は確実に真作と化す。一ノ瀬は胸を借りる思いで彼の機体の左斜め後方を占位した。
先頭に立った『赤稲妻』は上昇を止め、帝都を蹂躙したB-29の隊列を見据えながら突入の準備に入った。
頭を過ぎる過去の戦闘。B-17やB-24を相手に苦闘した記憶が蘇ってくる。
「落ちない飛行機などない」と示すために、体当たりをして敵もろとも散華した先輩の姿。数機がかりで丁寧に防護機銃を一つずつ潰したのに逃がしてしまった時の悔しさ。その果てに生まれた、たった一つの戦法。
しっかり狙わなければ、12.7ミリ機銃を1000発命中させても落ちないだろう頑丈な機体。決して満足とは言えない火力で最大限の打撃を与えるため、比較的手薄な前方向からの攻撃が考案されて以来、迎撃のたびにそれを何度も何度も繰り返した。
工夫を凝らして敵を惑わす術を『策』と呼ぶなら、編み出された対進攻撃という戦法は『策』と呼ぶには単純すぎる。だから、相手に見透かされていても絶対に通用する『技』へ昇華させるしかなかった。皮を切らせ、肉を斬る。肉を抉らせて、骨を断つ。被弾を前提に敵へ攻撃する精神を武器に、ひたすら戦った。何度も被弾して、時にはプロペラをへし曲げて、単機一撃でエンジンに煙を吐かせられるようになるまで経験は積んだ。
『国軍の最精鋭』とまでいわれた稲妻部隊。炎を映す彼の瞳が、ギラリと輝いた。
「一番槍、『赤稲妻』。征きます!」
勇ましい言葉と共に、機体を一気に反転させて降下していく。それに続いて、3機も翼を翻した。
降下する先には何もない。正面に据え付けられた照準器は何もない暗闇。しかし『赤稲妻』は顔を上げて、標的をしっかりと見据えていた。
地上の炎が不気味な影を作っている。まだ手で握りつぶせるほどの大きさに映るそれは、明らかにこれまで相手してきた四発重爆撃機とは異なる。
近づくにつれて見えてくる、炎がその一部を照らしはじめる。B-17の機影ではない。
加速した勢いそのままに、同位となって対面する。操縦桿がひどく重いものの、腕力でねじ伏せて一気に機首を持ち上げる。機体を反転させたい気持ちを抑え、己の双眼にしっかりと新たな敵を刻み込む。
すでに照準器は眼前の敵を納めている。しかしまだ引き金は動かさない。ここで撃てば確実に外す。
敵を知れ。
『赤稲妻』は全神経を集中させた。自機の速度は600キロを越えている。身に付けた対進攻撃で挑みにかかる。記憶とともに体に沁み込んだ経験を信じ、射撃の機会を待つ。
100メートルを示す照準円いっぱいに標的のエンジンが映った時、ダダッと銃砲弾を撃ち込んだ。放たれた銃砲火が吸い込まれるようにエンジンへ向かうとともに、操縦桿をグッと押し倒し回避行動をとりつつ、蹴る勢いでペダルを踏み込み方向舵を動かして機体を標的に引き寄せる。命中云々ではなく、今はなるべく間近にこの新脅威を知りたい。すれ違いざま、『赤稲妻』は一瞬に過ぎ行く敵をジッと見た。
エンジン、主翼、尾翼。すべてが大きい。そして胴体が長い。B-17以上の長さだ。赤く照らし出されたその機体から得たものは、B-17以上の巨体であるということ。そして、相対速度が異様なまでに速く感じられたことが最大の特徴として記憶と化す。
これが、B-29。
感じ取ったものを記録する暇もなく、ただちに左右を確認する。敵は単縦陣、ばらつきはあるが、ほぼ一列に飛んでいる。直後、風防越しにピッと光るものが駆けていく。
尾部銃座からの射撃に気付くと同時に、機体を捻るように横転させながら方向舵を操作して機軸をずらす。進路を読まれれば、確実に被弾する。しかし、『赤稲妻』の視線は後続機を捉えていた。
皮や肉くらい、いくらでも斬らせてやる。だが、ぼくの皮肉だけだ。
「防護機銃は引き付けます!後続は一旦やり過ごしてください!」
大声で無線に呼びかけながら、操縦桿を引き起こして後続機に照準を合わせにいく。細かい調整の猶予はなく、照準器に映った時点でダダッ、と短連射を浴びせつつ。当たったかどうかわからないが、敵機を斜めに駆け上がるようにすれ違っていった。
一ノ瀬は『赤稲妻』の僚機と並んで彼に続いた。まず『赤稲妻』が一機目の影に隠れる時機を狙って引き金を引いた。この場にいる全員が初めて相対する敵機だけあり、さすがに動揺した。あの幼顔が一所懸命に描いた可愛らしい姿と似ていても、その全貌はまるで異なる。いかにも破壊兵器らしい威圧感を纏っていた。
まず『赤稲妻』の僚機を務める学生が動いた。撃ちっぱなしのまま機体を反転させて回避を始める。それに僅か遅れて一ノ瀬も反転。2機共に背面の姿勢でB-29の懐に潜り込んだ。2機合わせてクルリと一回転を終える時、『赤稲妻』の怒声が無線機から鳴り響いた。パラパラと一筋の軌跡を描く曳光弾が『赤稲妻』めがけて伸びていくのが見えた。自分達を狙う弾道は見えない。
『赤稲妻』はお構いなしに後続機に一撃を与えていく。しかし機動が彼とやや異なったせいか、その一撃に追従するには時間が足りない。『赤稲妻』の言うとおり、わざわざ彼に追従して尾部機銃の射線に躍り出る必要もないと、一ノ瀬も目いっぱい思考を巡らせて判断を下す。
「後続は潜り抜けろ。その次から狙う」
「はいっ」
「はいっ」
『赤稲妻』がそれに呼応したかのように「5機目で打ち止めます!」と叫んだ。返事の余裕もなく、2機目の下っ腹を一気に駆け抜ける。この勢いなら2分もかからない。学生達が威勢よく「応っ!」と声を揃えた。今や立派な荒鷲だ。頼もしい事この上ない。
3機目に照準を合わせ、片翼に備えられた2つのエンジンの、内側を狙う。20ミリ機関砲と12.7ミリ機銃という大火力を吐き出した途端、並んでいた学生も同じ部分めがけて銃撃を始めた。
眼前がパッと閃光した。狙っていたエンジンが弾けていく。
「上から避けるぞっ!」と叫びつつ、操縦桿を大きく引き倒す。隣の機もやや遅れ気味に呼応し、一ノ瀬に続いた。
「無事か」
「大丈夫です!」
ほっと一息つくと同時に、一ノ瀬の2番機が「B-29、墜落していきます!」と叫んだ。士気を上げてくれる一言に、『赤稲妻』が「お見事!」とその場をさらに盛り上げた。振り返る余裕もなく、反転して次の準備にかかる。先行している彼の機を視界にとらえた時、すでに4機目に攻撃をかけていた。
『赤稲妻』の放つ一撃が胴体を刺し穿ち、その中央付近から勢い良く炎が弾け出す。ここにきてようやく成果を感じた一ノ瀬が、お返しとばかりに「赤稲妻一閃、見事だ!」と大声で叫んだ。もう眼下のB-29に追い打ちなど必要ない。線香閃光花火のように火花を散らす敵機の頭上を駆け抜け、『赤稲妻』を追った。
さあ最後の一機。
背面から降下し、そのまま最後の5機目を狙う。すると、またもや彼がやったのか、右翼外側のエンジンが火を噴いている。ならば、とその内側めがけて一斉射をかけた。曳光弾が狙った通りに伸びていき、エンジンカウル上部でパチパチと弾けていく。その閃光は、すれ違う頃には炎となって銀色の翼を朱色に染めていた。
「離脱します!我、高度1200。眼下の川に沿って南下中!」
眼下を見下ろせば、地上はすでに紅蓮地獄と化していた。一面が橙色に染まり、凄まじい異臭が鼻を捻じ曲げる。地上にいる人は防空壕に隠れているだろうか。いや隠れていたとしても、この業火に耐えきれるのだろうか。西を見やれば、そんな地獄絵図が延々と広がっている。先程の興奮など消え失せる惨状の中を、一筋の川が伸びている。皮肉にも火災が川を照らしてくれていた。
その先に、単機で飛ぶ『赤稲妻』の姿はあった。増速のために降下したのか、ずいぶん低く飛んでいる。それを追ってスロットル全開のまま降下し、合流を果たす。
「少佐どの、指揮をお願いします」
『赤稲妻』が先頭を譲るように減速し、再び一ノ瀬が先頭を陣取る。後ろを見やれば、2人の学生達もしっかりと後方を追っている。
灼熱の帝都上空をもう一度見てみる。状況はどうだ。
野火の如く燃え盛る街並みの上空を見れば、幾つかの小さな機影が乱舞している。地上の炎が照らし出したB-29という怪鳥めがけて突っ込んでいたり、背を追っていたりする様子から、友軍機だと判断した。
「第10飛行師団か、近衛飛行隊だ。B-29と交戦しているようだ」
もはや手遅れだが、それでも仇を討たんとばかりに迎撃が行われている。火焔の上空にいる敵機は回避しているのか、被弾したのか、跳ねるような機動を繰り返している。
さらにその先から、幾つかの光が伸びている。まだ火災を受けていない地域から、味方の探照灯が上空を照らしているようだ。燃えている箇所だけが東京ではない。被害を受けたのは、全域のおよそ半分程度か。
見えないが、高射砲も応戦しているようだった。友軍機に取り付かれていないB-29がドンと弾けた。見た目以上に友軍も奮戦している。
しかし、視線はやはり、目下の炎に行ってしまう。
仮にB-29が、東京を飛び越えたら。
この勢いが、もし県を跨いだら。
脳裏に浮かぶ、愛する人の姿。これは完全な私欲と妄想だ理解しつつ、一ノ瀬は静かに言葉を発した。
「...反転して、高度5000メートル上空にて警戒飛行」
私欲と責務の狭間を縫う決断に、己を恥じた。頭に過ぎったたった一つの悲劇を恐れたがゆえに、いま惨劇に苦しんでいる人達をあえて見捨てると言った。幾千、幾万の人達がこの炎上地域にいるであろうというのに。罪なき人々が焼け死ぬ様を眺めて、悠々と飛ぶのか。ただ待つのか。
「いや、やはり――――。」
「少佐どの」
訂正しようとした時、赤稲妻が言葉を挟んできた。自己嫌悪に陥っていた一ノ瀬は、静かに彼の言葉を待った。卑怯と蔑むだろうか、逃げるなと一喝するだろうか。
「賛成します」
拍子が抜けたと同時に、どこか救われたような気分が後追いでやってくる。いつもの元気な声ではない、稲妻部隊の練達者、『赤稲妻』の声だった。あの幼い顔で、元気で人懐っこい子供のような若者が、いま自分に圧し掛かっている悔恨を共有しようと寄り添ってくれている気がした。『赤稲妻』が一緒に背負ってくれようとしている。こんな時でも、こんな惨劇を前にしても、彼は勇ましくも一番槍を名乗って突撃した。そして今、決断に揺らぐ自分を支えるために背中を押してくれている。
違う。違うんだ。俺は、久子が空襲に遭ったらという不安を練り込んでしまった。小事のために、大事を捨てようとしたんだ。
「あの上空、空気の流れがおかしいです。見える友軍機も敵機も変な動きを繰り返しています。妙な気流に捕まったように見えます。あれでは、さっきのようにはできません」
彼の言葉を追うように、いま一度火災地域上空を見やる。さっきも変わらず、跳ねるような機動を繰り返す飛行機達。よく見れば、たしかに奇妙な機動だ。操作しているというよりは、いきなり横転したり、機首が上がったりしている。
「火災で...上昇気流ができているのか」
その発言を証明するかのように、大きな旋風が巻き起こった。竜巻が如く渦を作り、空へ向かって伸びていく。地獄を越えた煉獄のような光景が視界を紅に染め上げる。
「点いた火は止められませんが、点く前なら防げます。ぼくはやれます」
「自分も、まだまだやれます!」
「何度でも突撃できます!」
彼の支え、そしてそれ以上に威勢の良い返事。思わず目頭が熱くなる。そうだ。決して愚策ではない。まだ暗がりの中にいる人達を守るのも、我々の責務。
眼に浮かんだものを取り払い、一ノ瀬は冷静になって考え直す。現状、増槽は捨てていない。もう一戦やれる程度には弾も残っている。
このまま洋上に出てまだ投弾していないB-29を待ち受けるか。被害を喰い留めるには有効だが、夜間の洋上戦闘は非常に危険だ。さっきのようにB-29を照らすものもなく、捕捉が極めて難しい。取り逃がせば意味がない。
なら、反転北上して川伝いに東京北部上空を陣取り、まだ被害を受けていない区域の防衛に努める。いま目視できるB-29はすでに爆撃を終えているだろう。第2波、第3波が来襲し、今燃えている区域を通過して他の区域を焼き尽くすなら、眼前の大火災を背にして飛べば機影を捕捉できる。捕捉してしまえば、さっきのように迎撃ができる。
「少佐どの。あらためて、ご指示を」
「...反転し、北上する。荒川に沿って東北本線を探し、そこから線路沿いに進路を取る。我々は川口市内上空を高度5000にて警戒待機。火災が及んでいない区域に侵入する敵機を迎撃する」
「了解」
「了解」
「了解」
眼前に河口が見える頃、一ノ瀬達は翼を翻した。隅田川から荒川へ合流し、火の海を横目にしつつ、この戦場を駆け抜けていく。空を見張る一ノ瀬の眼に、もう涙はない。ただ軍人として、戦闘機乗りとして、この小隊の長として、地獄を見守るように飛び続け、新たな脅威を待ち続けた。
しかし、北に陣取った一ノ瀬達に、これ以上交戦機会はなかった。
空になった増槽を捨て、燃料をギリギリまで使い果たして帰ってきた一ノ瀬達を、北飛行場で待っていた学生達と整備隊が総出で出迎えた。
2番機を務めてくれた2人の学生は疲労困憊し、すぐにでも倒れてしまいそうだった。一ノ瀬も憔悴気味になって機を降り、せめてもの労いに2人に言葉をかける。
「よくやった。お前たちは自慢の教え子だ」
一ノ瀬の言葉を聞き、くたくたになりながらもピッと姿勢を正して「ありがとうございます」と胸を張った。詳細を聞きたがる他の者達にもみくちゃにされつつ、「後で言うから...」「ちょっと休ませてくれ」と断りを入れている。『赤稲妻』は相変わらずの様子で、まだ警戒を怠っていない気配を漂わせながら一ノ瀬のもとに駆け寄ってくる。
「あのっ、次は一式戦で飛びたいです」
まだまだもう一戦と意気込む『赤稲妻』に、彼の後を追うように小走りでやってきた整備隊長が「もう警報は解除されたよ」となだめる。それと同時に、整備隊長の手が幼顔の身体をペタペタと触り始めた。
「ひゃう!な、なんですか!?」
「怪我しとらんのか」
気にかかる言葉を聞いた一ノ瀬は、「どうした」と整備隊長に尋ねた。すると、暗闇の中で彼の乗った四式戦に纏わりつく整備兵達を指さした。
「被弾孔があちこちにあるもんだから、怪我してるんじゃねえかって」
「なに、喰らったのか?」
「あ、えっと...」
自覚があったのか、『赤稲妻』は申し訳なさそうに「壊してごめんなさい」と謝ってくる。彼は自分達の代わりに尾部機銃を引き付けてくれていたが、その時に被弾したのか。一ノ瀬は疲労した身体に冷や水をかけられたが如く、『赤稲妻』の両肩をガシッと掴み、顔を寄せる。
「どこも痛くないのか?本当に怪我はないのか??」
「はいっ」
いつものニコッとした笑顔が、視界いっぱいに広がる。腕をブンブンと振って、無事を主張する。犬の尻尾のようだ。
「...キツイ役を担わせてしまったな」
「いえ、重爆戦だと大体被弾してますので」
想像以上を超えた実態を知り、一ノ瀬は言葉も出なかった。さも当たり前のように言うが、自分の価値が判っているのだろうか。彼が自身を軽んじているのか、それとも覚悟をもって戦っているのか、判断できない。それでも、今こうして元気いっぱいに笑顔を見せてくれる以上は、一番槍に指名した本人である一ノ瀬から説教などできるわけもなかった。
「ひとまず休もう。疲れただろう?」
「まだまだやれますっ」
「...君は何時間飛べるんだ?」
「補給交代ありなら、1日で10時間、連続2日分は持ちますっ」
実際に飛びました。と言わんばかりの発言。さすが稲妻部隊、そんな過酷な任務もやるのかと、尊敬を超えて呆れる気分になった。整備隊長も「そんなことされちゃあ、俺達が参っちまう」と笑って茶化す。
「...次が来たらまた一緒に飛んでもらうから、今は休みなさい」
「はいっ」
尋常ならざる体力と精神力を持っている彼の、この素直さが唯一の救いだ。躾の行き届いた子犬、まさにそれだった。
1945年3月10日に生起したこの空襲は、「東京大焼殺」として大きく報道された。




