15話
日増しに部隊が強くなっていく。
一ノ瀬は己の率いる部下たちの成長に満足していた。可愛げのある後輩たちの、練習機ではない本物の戦闘機を始めて目の前にした時の表情も、今や過去の思い出。随分と立派になった。まともな飛行ができるようになるばかりか、その瞳は日を重ねるごとに研ぎ澄まされ、鋭くなっていく。雛鳥から荒鷲へ成りつつある彼らの姿に、若かりし頃の自分がふと重なる。
「助教のおかげで、彼らも随分と逞しくなった」
一ノ瀬の呟きに、机に向かっていた『赤稲妻』がピクッと反応してこちらを見上げてくる。片手に持った筆をせっせと動かして、何かを書いていたようだ。お絵描きに興じている子供のような彼の姿に、思わず口角が持ち上がった。
『赤稲妻』は実直で、思い立ったらすぐ行動に移したがる。先日は夜間飛行訓練に先立って、「予習」をやりたがった。流石の『赤稲妻』とはいえやはり夜間飛行は消耗したようで、帰って来るやぐったりしていたのを思い出す。
「皆さん、とても熱心です。物覚えも良くて、若さが溢れてます」
「君だってまだ二十歳じゃないか、充分に若いさ。とくに顔が」
「...子ども扱いしないでください」
こうして『赤稲妻』を揶揄うのが楽しくなっていた。ちょっとした揶揄いの繰り返しに過ぎない戯れも、こうして飽きずに良く反応してくれる。学生達は彼を気遣っているようだが、このやり取りを見てはクスクスと笑うようになった。
「助教は今、何を書いているんだ?」
「B-29の絵ですっ」
まさかのお絵かき。子供だ。
両手に広げて見せてくれたB-29が正面を向いている。下手とは言わないまでも、上手くもない。主翼を示す線が少しふにゃっとしているが、B-29かな?と思うくらいの出来。なんとも柔らかそうな敵の新型重爆に、愛嬌すら感じた。
「ちゃんとB-29にみえるぞ」
「ホントですか!」
こうやってニコニコする彼を撫でてやると、より一層嬉しそうな顔をみせてくれる。これは「子ども扱い」の対象に入っていないようで、素直に喜ぶ。
どういう線引きをしているんだろう?何をしたら「子ども扱い」となるんだ?ちょっとした興味そのまま、頭を撫でる手をそっと頬に移し、親指でその柔肌をクニクニと撫でてみる。
「...やめくだひゃい」
判別に少し時間を要したのか、最初はジッとこちらを見ていた目が不満を示すと同時に小声で返事を寄越した。警戒した口調ではあるものの、されるがまま何も反抗してこない。可愛がられる行為自体は嫌いではなさそうだ。
一つの収穫を得つつ、一ノ瀬は手を引いた。
「それで、そのB-29の絵をどうする?」
「これを、こうするんです」
一所懸命描いたであろうB-29を、一つの丸印が台無しにした。何のつもりか。褒めてもらえたから丸を付けたとするなら、せめて機体と重ならないようにすれば良かったものを。
「これで、大体100メートルです」
「ああ、照準円か」
何がしたいのか、理解できた。それと同時に、この憎み切れないB-29が巨大な飛行機だと意識させた。
戦闘機が標的に狙いを定める時、必ず照準器を使う。照準器の中心にある小さな点めがけて弾丸が飛んでいくように射線を調整しているので、照準と標的が重なれば当たるという理屈だ。
しかしながら、空中射撃はそう簡単ではない。
敵機は毎秒ごとに数百メートル動くし、自機もそれなりの速度で飛んでいる。敵の進行方向を見越して少しずらさないといけない。自機に対して右に進むようであれば、照準も敵機の機首より少し右にずらし、一寸先の未来位置めがけて撃つ必要がある。
そして何よりも重要なのが、自機と敵との距離感を適切に認識すること。これを誤れば、いかに進路を先読みしても届かない。近いようならずらす感覚を短くしてやる必要があるし、遠いならより長くずらす必要がある。あまりに遠いなら、弾道も気にしなければいけない。
「B-29との相対距離が100mの場合、照準器越しだとこういう見え方になる。と」
「交戦したことはないですが、大体これくらいかな。と思います」
照準器の中心点を囲むように映し出される円。これが彼我の距離を計る術となる。一ノ瀬も戦闘機乗りとして、この照準円は重宝していた。小型機が相手ならば、この照準円いっぱいか、少しはみ出すくらいがちょうど良いと判断できる。最適な『撃ち時』を判断するには、この100メートルの照準円が欠かせない。
「B-17やB-24を相手にしていた時の感覚なので、実際はもう少し違ってくるかもしれないです」
ここまでくれば、この間抜けた絵も立派な教材と化していた。
四発重爆の巨大さが伝わってくる。
彼我に100メートルの距離があっても、かなり接近しているように感じる。撃つどころか、ここまで迫っていれば回避運動を始めてもおかしくはない。
座学の時間がやってくるとともに、一ノ瀬は学生達に混じって彼の説明を熱心に聴いた。
「四発重爆は防護用の機銃をあちこちに設置してるので、基本的に正面から攻撃します。これを対進攻撃と呼びます」
こちらを向く愛嬌のあるB-29に破顔しないよう気を正しつつ、我らが稲妻先生の説明を熱意溢れる眼差しで聴講する。
「相対速度がすごいので、機会は一瞬です。照準器の一番小さな円に対して、これくらいはみ出た時に射撃を始めます。撃ちながら機体を反転させて降下してください。水平旋回だとほぼ被弾してしまいます」
「稲妻先生、後ろからはダメなのですか?」
「重爆には機体の尾部に機銃がついてるので、真後ろだとこちらが狙われます。南方でもかなりの被害を受けました」
説明のおまけとして、『赤稲妻』が苦笑いを浮かべて見せた。苦い記憶が彼をそうさせているのか、学生の質問は「ありがとうございます」の返事と共に打ち切られた。「迎撃位置占有のしやすさに加え、効果的な火力投射ができるので、この対進攻撃が一番戦果が出ました」という補足の言葉が、挙手した学生に満足げな表情を与えた。
経験則に基づく戦法ほど、未知の者に安心を与えるものはない。この場で四発重爆と戦った唯一の人物がそう言うなら、それを信じるほかなかった。
「...対進攻撃は一式戦時代の戦法ですので、一例として記憶に留めていただければ充分です。一式戦の時代の――――」
一呼吸おいて、声音を変えた。次の言葉が、学生達の耳に残るほど重々しく、生々しさをもって彼らの胸に刻み込むことになる。
「B-17を体当たりでしか確実撃墜できなかった時に、みんなで考え出された技です」
一機の戦闘機と引き換えに、たった一機の爆撃機を墜とす。冗談のようにも聞こえる内容だが、帝都防空の任に就く飛行戦隊などでは『震天制空隊』の名で、命に代えてもB-29を撃退する特殊部隊が編成されている。彼はそれを知らぬ素振りで話しているが、空対空特攻はすでに始まっているのだ。
四式戦が実用化される前の、一式戦闘機が主力として奮戦していた頃の話。B-29が出現する前の、B-17が猛威を振るっていた頃の話。
時代が繰り返されている気がした。一式戦とB-17との戦いにおいて、空対空特攻の代案として生まれたのが対進攻撃なのであれば、今の世代を担う四式戦とB-29との戦いもまた対進攻撃で解決できるのではないか。稲妻部隊とは、帝国陸軍戦闘機隊の限界と進化の狭間で戦ってきたのではないのかと、一ノ瀬は肌を立たせた。
「...みんな、この戦法を身に付けるべきだ。帝国陸軍が誇る練達者の血を代償にして創り上げた、貴重な対重爆戦法なんだ。記憶に留めておく程度では済まされん」
一ノ瀬は熱意をもって皆に伝えた。それに応じるかのように、雛鳥達もまた力強い返事を返す。
その様子をみた『赤稲妻』は嬉しそうな表情を浮かべた。先人達と、自分達の努力を汲み取ってくれたような気分で、苦しい過去に光を浴びたような、救われた気持ちで講義を続けた。
この後も、エンジンを狙えば落伍させれる。20ミリ砲装備機なら上方を占位して実施する垂直降下攻撃も有効。など、様々な言葉が「教育」として教えられていった。
「さあ、今日は夜間戦闘訓練だ。学んだことをしっかり意識して取り掛かれ」
「はいっ!」
B-29。
彼らが本土防空の矢面に立った時、必ず目にする脅威。自分達の駆る四式戦で、一体どれ程やれるのだろうか。遠くないうちに巣立ちを迎える若鷲達を、一ノ瀬はただ信じるしかない。
美空の不満は日に日に増していった。
戦時下とはいえ、再開の機会がまるでない。呼びつけたくせに、あれから一度も会いに来ない。明日か、週末かと、膨らんでいた期待がモヤモヤとした気持ちに変わっていく日々。言葉にこそ出さないが、積もった感情が徐々に表情を変えていく。
「待ち遠しい?」
「...そんなことない」
久子がニヤけながら聞いてきた。今日の仕事を終え、疲労した身体を癒す布団の上で横座りする女相手に余暇を楽しんでいる。最近は話し相手としてよく世話を焼いてくれるようになり、寝る前のちょっとした時間などでも甲斐甲斐しく母娘の部屋へ遊びに来てくれるようになった。
「私は夫に会いたいわあ。一日でも早く、一秒でも長く...」
「久子さんみたいにお熱い関係じゃないし」
打ち解けてから判ったが、久子の夫に対する情愛が凄まじい事この上ない。溶岩なみの熱を帯びた彼女の想いにドン引きさせられる事もままある。
「別にそんな惚れてるわけでもないしぃ?ただ子犬拾った的な感じだしぃ?」
「そんな、ってことは...多少は好きなんでしょう?」
久子の言葉に、美空は無言の返事を突き返した。彼女もまた、恋愛を知らない乙女。無知ゆえに相手への接し方もわからず、自分の気持ちもわからない。なんと甘酸っぱいことか、と久子は微笑んだ。
「美空ちゃんは知ってる?外国だと、「好き」にも種類があるんですって」
「?」
拗ね気味な表情のまま、久子へ視線を戻して首を傾げた。
「友達として「好き」というのと、異性として「好き」で、言葉が変わるの。細かいと思わない?」
「...んー、まあ」
「無理に急がなくても、思うままの「好き」で良いと思うなぁ」
久子の言葉に、美空は胸に手を当てた。
一緒にいた時間は楽しかった。妙な緊張もなく、不快なんてなかった。抱き付いた時だって、一度は覆い被さられた時だって、ドキドキもないが、嫌悪もなかった。
自分の言葉や行動一つで、思うように表情を変える彼が楽しかった。
美空は何かを掴んだかのように、胸に置いた手をキュッと握りしめる。
「...可愛がってみたい、っていう気持ちはある。かな」
「なら、それで良いんじゃないかしら?その先に、きっと次があると思うわよ」
「次?」
「うん。私も最初は、見てるだけだった。通学の時に見て、それで満足してたはずなのに。話してみたいな。って、いつの間にか次の気持ちがやってきてた」
遠い過去を懐かしむ久子の眼差しが、そっと瞼で塞がれる。大切な思い出の中から汲みあげた当時の気持ちを、彼女に伝えてみる。
「あの人から初めて声をかけてもらった時、また次の気持ちがやってきたの。もう一生手放さない、命尽きるまで全てを捧げようって」
「急に重くなったなー」
いささか数段階無視しているような気がするが、自分の握りしめた手にある気持ちにも、久子のように次があるとすれば、どうなるんだろう。友達としてなのか、異性として好きなのか。どっちかには行き着く気がした。
「...もっかい、会いたい。なるべく早く」
思うままに言葉にした途端、日を追うごとに積もっていたモヤモヤが少し軽くなった気がした。
少し照れくさそうに笑みを浮かべる美空に、久子もまた優しく微笑んだ。
その時、部屋の中まで響く爆音が耳を劈いた。
夜は遮光用具で窓を覆うので、外を見ることができない。だが、聴き慣れつつある音が続々と頭上を駆けていく。
1つ2つ。少し間をおいて3つ4つ。4機だ。
「なに、こんな時間に訓練するの?」
「夜の訓練、最近多いですね。でもこんな遅くに飛ぶのは初めてのような...」
時計を見れば、零時を過ぎた頃だった。ここ最近、夜になって飛行機のエンジン音を聞く機会が増えている。一ノ瀬達の部隊で使っている飛行機だと音で判別できるが、急に爆音が響けば味方と言えど驚いてしまう。間もなく浴室から半裸になった美空の母が出てきて、「元気ですこと」と呆れた表情で溜息を吐いた。
「あら、久子どの。今夜もおしゃべり?私も混ぜてちょうだいな」
「お母さん、服!」
「あらごめんなさい。飛行兵どのが余りにも元気だったからつい...」
恥ずかしそうに前を手で隠す母を、久子は羨ましそうに見つめていた。
「ほんとキレイで...大きくていいなあ」
「久子どのだってスラッとしててお綺麗ですわよ。ちゃんと出てる所だって出ていますし」
眼前の女体ほどではないが、久子なりに体型には細心の注意を払っていた。もちろん大切な夫のためではあるのだが、羨ましいという気持ちに偽りはなかった。母へ注意の言葉をかける美空も、母ほどではないが自分より大きい。何を食べればそうなるのか、聞ける者なら聞いてみたいほどだった。
「いくら頑張っても、老いには勝てませんわ。年を重ねるたびに垂れてきて...」
「でもふわふわしてて気持ち良いんだよねー、お母さんのおっぱい」
両手を広げて甘えたがる娘に「自分のを揉んでしまえば満足でしょ」と突っぱねる。『赤稲妻』を可愛がりたいと言っていたけど、本人も甘えっ子なのかしら。まあ親には甘えたくもなるか。と久子はクスクスと笑う。
寝着で身体を包んでしまうや、美空は少し残念そうにしつつも母を待ち続けた。テキパキと着込んだ母が「はいはい」と優しく娘を抱きしめる。「んー♪」と気落ち良さそうに鳴く美空を見ていると、「久子どのも?」と母が乗り気で声をかけてきたので「いえ...私は...」と断りを入れておく。
「久子さんもやってみたいんでしょ。すっごい気持ちいいよっ」
「私は...その、夫にしてあげたいなぁって」
「愛情に満ちたお嫁さんの鏡ですわ。美空も久子どのみたいに飛行兵どのを愛を尽くせるようになってもらいたいものね」
いつも通りの揶揄い気味な口調で娘を挑発してみる。きっとさっきの爆音並みに騒ぎ立てると思いきや、美空は少し恥ずかしげな表情を浮かべていた。
「...ギュッてしたら、喜んでくれるのかな」
「あら」
意外な返事に、娘の心境に変化を感じずにはいられなかった。先日の一件を反省したのか、それとも久子のおかげか。どちらにせよ母の心にほんのりと嬉しい気持ちが滲んでくる。「きっと喜んでくれますよ」と機嫌よく返事する。
「お二人ほど胸はないけど、夫は喜んでくれるかしら」
「勿論ですわ。きっと旦那様も赤ん坊のように甘えますよ」
「そ、そんな...ふひっ」
そのまま3人で会話に興じていると、垂れ流しにしていたラジオが警報を発令した。
「東部軍管区情報。東部軍管区情報。房総半島より、本土に侵入せる敵B29は―――。」
この言葉を聞くや、美空達は慌てて立ち上がる。東部軍管区、関東と北信越を対象とする言葉であると同時に、美空達のいる旅館も対象に含まれていることを指し示していた。しかし、街に設置されているサイレンは鳴っていない。
「帝都へ侵入しつつあり。夜間につき―――。」
「...一応、防空頭巾とかばん取って来ます」
「そうねえ。私達も準備だけしておきましょう」
帝都は県を超えてかなりの距離があるものの、やはり不安は拭えない。こんな温泉町を狙うことはないだろうが、仮に北飛行場を標的にされると巻き添えを喰らうかもしれない。飛行場も多少は離れているものの、その気になれば自転車で行ける距離にある。
「敵も敵ねー。夜くらい寝たらいいのに」
美空は呆れた表情で避難用のかばんを手繰り寄せ、その中にしまってある防空頭巾を取り出す。いざという時はこのかばん一つで逃げなくてはいけない。そして万が一のことがあれば、鞄の中身だけを頼りに生きていかねばならない。大切な荷物を手元に置きつつ、一度経験したあの空襲を思い出す。
あの時はグラマンという戦闘機だった。グルグルとしつこく飛び回るあの恐怖は今でも忘れられない。東京や名古屋といった中心都市を狙うB-29という爆撃機はもっと巨大らしいのだが、グラマンとは違う恐怖を植え付けにくるのだろうか。願わくば、米軍機とは二度と会いたくない。
「すみません、戻りました」
「久子どの、今夜は一緒に居ましょう。夜に空襲なんて、一人だと落ち着いて眠れないでしょう」
困った顔を浮かべながら久子を迎え入れつつ、時計を見て日付が変わったのと気付くや日表を一枚めくる。ピッと取られた紙に記されていたのは「9」の文字。
「ねえ、なんか楽しい話でもしよーよ」
「そうね。久子どのがどんな手腕を以って旦那様を勝ち得たのか教えていただきましょう」
「わ、私ですか...?うーん、もともとそういう運命だったとしか――――。」




