14話
翌朝。
まだ朝日も昇りきっていない頃、久子は愛する夫を見送りを終えた。
名残惜しくも2人が共にした部屋を片付けて、次の使用者に備えた準備もひと段落した頃、彼女の視界に美空と母が映った。
「あ、おはようございま――」
「お客様を差し置いてスヤスヤ寝るなんて言語道断です!」
説教されていた。母の怒声が耳に響く。何かあったのかという心配と同時に、その怒声から伝わる気迫に圧されて身体をビクつかせる。
「お乳の話しながら酔いつぶれた?そんなの、ただ頭の悪い変態女じゃないですか!!」
内容が追いつかない。昨晩の事だろうとは思う。きっとあの幼顔の、たしか夫が『赤稲妻』と気にかけている飛行兵をお相手した時に酔いつぶれたのだろう。でも、お乳の話って何なのかしら?その張本人は額に手を当ててどこかしんどそうにしている。酔いつぶれたのなら、二日酔い?
困惑する久子に気付いた美空が、無理矢理笑顔を作って挨拶してきた。
「あ、久子さん。おはようございます」
「あら、久子どの。おはようございます。朝からお見苦しい所を...」
「いえ。なにかあったのですか?」
美空の母から聞いた内容によれば。
・『赤稲妻』さんの酌をした。
・揶揄う目的で女性の胸の話をした。
・美空さんが酔い、『赤稲妻』さんに布団まで運んでもらった。
・胸の話をして、そのまま潰れた。
・手を出されなかったどころか、目が覚めた時には「楽しかったです。ありがとうございました」の置手紙を残して部屋を出ていた。
とのこと。下品な話をして酔い潰れたというのはなんとも気の毒に思えた。異性からの印象が良くなるとは思えない。どんな言葉を交わしたのか知らないが、そういう話を振っておいて情熱的な展開に持ち込めなかったというのが不思議に思えた。
「赤稲妻さん、何もしてこなかったんですね...」
久子の言葉に、美空は笑顔を引きつらせた。
「いやあ、計画では甘やかしてあげようかなーって感じだったんですけど」
「あんな素直な人が泥酔した女に甘えたがるわけないじゃないですか!!」
自分の説教もあまり入っていないのか、二日酔いという手土産しか持ち帰れなかった娘に母は大きくため息を吐く。
「はぁ...次で挽回なさい」
「きっとまたお会いできますから、頑張りましょう」
美空を元気づけようと久子も言葉をかける。すると、ズキズキと痛む頭を手で押さえながら美空が問いかけてきた。
「久子さんは、どうだったんですか」
「わ、私は...」
ポッと顔を赤くして「たくさん尽くしました」と弱々しく返事をする久子。美空の母は「理想の夫婦ですわ」と煽てる一方で、彼女を見習えとばかりに美空へ目配せする。
「久子どの。もし御手隙でしたら、うちの娘に色々教えてやってくれませんか」
「え、わ、私が...ですか?務まるかしら...?」
「えー、年上の魅力で誘惑させちゃえばいいんじゃないの?」
何の恰好か知らないが、妙な姿勢になって顔を作っている。誘惑か?
夫からも協力を請われている以上、ここは応じるほかない。それに協力すれば、夫が喜ぶ。久子の単純な思考回路が回り始めた。
上手くいくかどうかは本人次第。できる限り協力したことを証明して、愛する夫を喜ばせよう。そしたら、ご褒美がもらえる。愛情たっぷりのご褒美が――。
「でへっ」
上の空でニヤける久子。何を考えてるのかはともかく、新たな協力者を得て戦力を強化しなければこの馬鹿娘はまた失態を晒す。たとえ妙な妄想で破顔していようとも、貴重な恋愛結婚者を味方にできれば心強い。
「そもそも、美空は飛行兵どのへの印象が変わったりしたのかしら」
「え?稲妻くん??」
昨晩の事を思い出す。
ニコニコしてて、自分の思うように照れたり恥ずかしがったり。抱き付いた時の自分を見上げる表情も可愛げがあった。
「んー、なんかこう...年下特有の可愛さがある。かな?」
「そこは解釈一致してますね」
「だから解釈ってなに?」
頭の中がグワングワンとしていたが、美空の脳内は昨日の反省の自身に関する振る舞いを反省していた。
まず、子ども扱いし過ぎた。彼の人懐こい顔付きに加え、卑しい部分を垣間見せない視線。何の気遣いも必要ないと言わんばかりの言葉遣い。自分はそれに頼っていた。
どれだけ強気に攻めようとも彼は決して欲を出さない。そんな雰囲気に信じていたし、甘えていた。それではこちらがだらしなくなる一方だ。
次だ。
次はもう少し、彼の心が休まるような振る舞いをしよう。程よい礼節、程よい距離感。親しめば、向こうから寄ってくる。そうすれば、もっと打ち解けるはず。
明日か、明後日か。軍人だから、そう簡単には来れないとは思う。戦局は相変わらず厳しく、そして激しいはず。来るとすれば週末だろうか。また彼はひょっこりと顔を見せてくれるだろう。
「まあ次は、大人の優しいお姉さんとして振る舞うかな」
「お酒は飲み過ぎないように、ですね」
美空の呟きに、久子が優しい声音で乗ってくれる。彼女からも何か助言をもらおう。恋愛を知らない身としては、彼女の経験は教科書と言っても差支えない。
何がどうなれば好きなのか。
彼をどう思うようになれば好きと言えるのか。
彼をどうしたいと願えば、愛と呼べるのか。
教えてもらったことはあくまで参考として、自分に落とし込む。そうすれば、お姉さん的な立ち位置に相応しい心得を身に付けられる、はず。
寒空の下、美空は思いのほか前向きに明日を見据えていた。
ようやく二日酔いを抱えて、仕事に取り掛かる。食事の準備、片付け。部屋の掃除。来客する異性の視線を不快に思いつつも笑顔で対応。やるべきことを終えた頃に、警戒警報が鳴る。すると客を防空壕まで案内しつつ、最低限の避難準備。せわしないが、退屈ではない。危機感が程よい刺激となって、身体も身軽に動く。
西日が街の景色の向こう側へ。ああ、もうこんな時間か、と空を見上げた時。遠くからエンジンの音が聞こえてきた。
茜色に染まった空を、銀翼が羽ばたいていくのが見える。その胴体には、長く伸びた赤い稲妻。
「あ、稲妻くん」
昨日はごめんね。と内心で詫びつつ彼の機を見つめる。その表情が自然と笑顔になっていることに気付いたのは、美空の母だった。娘の代わりとばかりに小さく一礼して娘の非礼を詫びる。
空を駆ける飛行機に気付いた久子は、少し意外そうな表情だった。
「こんな時間に飛ぶなんて、初めて見た」
『赤稲妻』の駆る一式戦を照らしていた太陽はすっかり沈み、空は暗闇と化していた。計器によれば、自分は今、高度6000メートル上空を時速400㎞で飛行している。小さなあくびを交えながら、慎重に愛機を操縦する。
灯火管制により、街の灯りというものはない。夜間飛行における街灯りは大きな目印となり、自分が今どこにいるのかを知る手段としては有効だ。しかし、それは自分だけでなく敵も同様。街が灯かっていれば、敵機もそこへ向かう。そしてありったけの爆弾を投げ捨てて帰っていく。
眼下に広がる一面の闇から、小さな光を探してみる。月と星という照明が、ごく限られた手がかりを照らしてくれる。目を凝らして探し出せるのは、水面の反射光。一面に広がっていれば海。一部だけなら湖か、それとも池か。細長く伸びていれば川。それを地図と照らし合わせて、現状位置を把握する。
『赤稲妻』の視界に、キラッと光るものが映った。キラキラと光るそれは、ある部分を境界に彼方まで続いている。
「海岸、九十九里かな」
『赤稲妻』はポツリと呟いた。それと同時に、計器盤のスイッチを押した。機首を持ち上げて、上昇を開始する。
高度計が7000メートルを指す頃、計器盤に備えられたボタンを押した。同時に、呼吸が幾分か楽になる。融通の利かない酸素発生剤ではあるが、こうして意識を一定に保てるのはありがたいと、顔も知らぬ開発者に感謝した。
時間をかけてグングンと高度を上げていく。一気に上昇すれば速度が落ちるし、操作も効かなくなるのであくまで慎重に。細心の注意を払って操縦桿を操る。
高度8500メートル。軽快さが売りの一式戦も鈍重になっていた。しっかり着込んでいたはずの飛行服に温もりなど感じない。電熱服という装備だけが、彼の体温を最低限に維持している。もう一度、酸素発生剤を点火。何も備えのない状態でこの高度は飛べない。それは人体のみならず、機体も同様だった。
速度計が心許ない数字を示す。水平飛行に戻せば多少の加速はあるが、スロットルを全開にしても時速500㎞には及ばない。
高度9000。9500、そして1万メートルへ。機体がまともな前進すらしない。気流に捕まったのか、別の方向に流されている。ペダルを思い切り踏み込んで方向舵を操作してみるも、中々言うとおりにしてくれない。流石に限界かと、彼は上昇を止めた。
方向舵の反応が著しく悪い。空戦なんてできないと、愛機が怒っているようにすら感じる。エンジンの音も、この高度ではもはや悲鳴に聞こえる。操縦自体はまだ可能だが、乗機を流す気流の制御をしながらはかなり難しい。下手な旋回をすれば失速してしまう。
B-29は高度1万メートル付近から空襲をしてくる。
B-29という飛行機は知っている。アメリカ軍最新の四発重爆撃機だ。戦ったことはないが、B-17、B-24、B-25なら戦ったこともある。いずれも容易い相手ではなく、ハリネズミのように配置された防護機銃が近寄るなとばかりに弾幕を張る。それに巡航でもなければ追いすがるだけでも苦労する。そういった苦難を乗り越えてようやく一撃をかければ、機体の強固さが頭を悩ませる。全弾撃ち尽くしても一機すら落とせないことなどままあったし、他機と連携して猛撃を加えても落ちなかったことすらあった。体当たりして撃墜する人すらいた。
B-29はこれらを凌駕する巨大重爆と聞いている。隊長の一ノ瀬が言っていた言葉通りなら、この空域で前代未聞の要塞を相手に戦わなければならない。
前方に敵機がいたとして。
視界のはるか先に、幻影を創り上げてみる。
双翼に4つのエンジン。クジラのような巨大な胴体。ハリネズミが如く、全方位を守る防護機銃。
前方から迫るそれめがけて、まっすぐ飛んでみた。空想として描かれた敵機を見据え、どこをどのように狙うか。回避も考えれば背面が望ましい。
次に、緩く降下してから機首を引き起こして突き上げる。突き上げても高度が完全には戻っていない。体感だが、機敏な機動にはなっておらず、余裕をもってやらないと機首を上げた時には敵機の尾部に機体を晒し出しかねない。
前方占位を前提とした対進攻撃により、敵のエンジンを破壊し撃退を狙う。
運任せな戦法だが、それ以外の手段が浮かばないのが現状だった。
『赤稲妻』は凍えながら降下を始めた。滞空時間も限られるな、と尾を引きつつ過速に気遣ってゆるゆると高度を落としていく。初期の一式戦と比べ頑丈にはなっているが、それでも『赤稲妻』は体にこびり付いた癖のように速度を気遣うように操縦管を操作した。
高度5000メートルあたりで機体の調子が良くなる。本来の機動力を取り戻したのか、舵が思うように動く。ふう、と一息ついては辺りを見回す。辺り一面がキラキラと光っている。洋上に出ているようで、機首を北西に向けてみる。月明かりが真っ暗な地上を浮かび上がらせていた。ひとまず進路は良し。
本土にやってくるB-29について思考を巡らすくらいに余裕が生まれ、『赤稲妻』は風防越しに空を見上げた。
聞いたところによれば、北九州や武蔵野めがけて襲って来ている。どちらも工業地帯だ。
昼間に多勢で攻めてくると聞いた。1万メートルという高高度から爆弾を落としているが、被害は差異こそあれど標的に直撃することはあまりない。それに対して、わが軍は迎撃不十分。高速で飛行するB-29を充分追跡できず、高射砲も頑張ってはいるが砲弾が届いていない。
「今回も難しい戦いになるなぁ」
思わず零れた愚痴に、思わず苦笑いを浮かべた。
いつだって過酷だった。ラバウルでも中国でも、フィリピンでも死力を尽くして戦った。ボロボロになった戦隊の姿は何度も見た。それでも戦う先輩達、散っていく戦友たちのおかげで今がある。
昨晩、美空に見られた背中の傷を思い出した。自分も無傷ではない。それでもこうして飛べる以上は、戦える以上は戦い続ける。
ふと気が付くと、月に照らされた山が影となって浮かんでいた。本土で一番大きい山だ。迷子にならない自信と共に、グッと肩に力を入れる。
「死ぬまで、戦います」
何かを思い出すように呟くと、『赤稲妻』は愛機を駆って闇夜に溶けていった。




