11話
学生達が『赤稲妻』を「稲妻先生」と親し気に呼ぶようになった頃、その時はやって来た。
学生達を連れた一ノ瀬達はなでしこ旅館内の宴会場にいた。学生達はいくつか連結させて長大化した座卓を2つ占拠し、綺麗に並んで興奮を押さえるかのように口を固く結んでいる。それぞれの座卓の上座方向には少し間を開けて、専用の卓を前に一ノ瀬、少し離れた隣に助教たる『赤稲妻』の席が用意された。
ゆったりと座る一ノ瀬に対して、ちょこん縮こまって正座する『赤稲妻』。彼だけは顔を下に向けて不安げに震えていた。一ノ瀬の一声があればすぐにでも飛び出してしまいかねない程に緊張しきっており、一ノ瀬は思わず苦笑いした。
「失礼します」
奥の襖が開くや、彩り豊かな料理が座卓に運ばれてくる。「ぜいたくは敵」と呼び掛けられる様になって久しい昨今において、彼らの前に置かれてゆく刺身や鍋達はもはや宝石のような輝きを放っていた。
学生達は眼前の華やかな料理に興味津々ながら、一ノ瀬と『赤稲妻』だけは別のところに視線を持って行った。「失礼しますね」と片側の座卓を往来する一人の女性、整えられた髪形に差された簪をシャランと鳴らし、一ノ瀬への視線を何度も繰り返す。少し垂れ気味の目つきに、化粧のせいか、いつもより淡く映る小さな頬。すでに何人かの学生が、眼前の宝石以上の美を目撃しては動作を固めている。
「アナタ、失礼しますね」
「おう、いつも以上に綺麗だよ」
一ノ瀬のささやきに頬を赤く染めつつ料理を並べるのは、彼の妻たる久子本人であった。料理を並べ終えるや、彼女はそのまま一ノ瀬の隣に座り、嬉しそうに微笑み顔を見せてくれる。
対する座卓の端を進む女性は久子とは少し違い、親し気に「はーい、お待ちどおさま」とにこやかな笑みを添えて料理を並べていく。明るい声がよく似合う活発な眼差しに対して、全体がサッパリと纏まった容姿。その言葉に応じて見上げた学生は思わずその美しい女性に目を見開く。
「いっぱい食べてね」
「あ...」
『赤稲妻』に料理を差し出す女性。あの時とは全く異なる雰囲気を纏わせた美空が、ふぅと息をついて彼の隣に座る。まともに返事もできないまま、小さく頷いくことしかできない。ただただ心臓の音が肥大化する。米軍機を見つけた瞬間の緊張感とは違うし、頼れる愛機もいない。操縦桿を握る感触を恋しく思いつつ、姿勢を正したままギュッと握りこぶしを作って見惚れるしかなかった。
一ノ瀬と助教を羨ましそうに眺める学生達を慰めんとばかりに、芸者が各座卓に数名ずつ座って華やかにする。彼女達もまた、学生達の視線を集めるには充分過ぎる色気を纏っていた。
程なくして、久子達が入ってきた入口とは別の襖がスッと開く。
『赤稲妻』からほど近くの第二の入り口から、女将と美空の母が静かに上がり込んだ。『赤稲妻』の後ろを通ったかと思えば、『赤稲妻』の隣に座るのは美空の母、たちまち母娘に挟み込まれてしまった。パッと見は美空に似ているものの、艶のある雰囲気がより大人っぽさを放つとともに、落ち着きのあるしとやかな雰囲気が彼の視界を惑わせる。上品な微笑みを見せてくれる美空の母に、『赤稲妻』はポカンとして思考を停止させた。
「皆様、ようこそお越しくださいました」
女将の凛とした声が、会場を包む。芸者たちに夢中になっていた学生達も、愛する妻の晴れ姿に笑顔を浮かべる一ノ瀬も、そして頭の中が真っ白になった『赤稲妻』も、彼女に顔を向けた。
「今夜は皆さまのご活躍に見合うよう、常陸那珂の平目と鮟鱇をご用意させていただきました。また、お酒は一ノ瀬少佐のお気に入りの逸品でございます。どうぞ、ご堪能ください。」
女将が退がり、ほんの僅か、一ノ瀬に視線をやった。一ノ瀬が立ち上がると、学生一同、そして『赤稲妻』もキリっとした面持ちで姿勢をさらに正す。
「先日の関東迎撃戦による我が隊の戦果は明野本校や飛行師団のみならず、第一航空軍からも高く評価された。諸君はまだ若雛である身でありながら、荒鷲にも引けを取らぬ勇猛さを示してくれた。来たるべき巣立ちに備えて、今夜は大いに楽しんでほしい」
「そして」と、一ノ瀬は視線を『赤稲妻』に送った。真っ白になった思考の奥底から「君の歓迎も兼ねるから、合図したら立ちなさい」という指示を思い出す。慌ててスッと立ち上がった助教を見ては、笑い交じりに言葉を続けた。
「迎撃戦の日から着任し、今日まで多くのことを教えてくれている助教に対して、我々はこの宴会をもって、彼を歓迎したい。元いた飛行戦隊は我が陸軍で最も古い歴史と伝統に飾られた、飛行第1戦隊と並ぶ稲妻部隊。御嘉賞をも賜った名門部隊をラバウルからずっと支えてきた強者が、はるばる我が隊に来てくれた」
事実ではあるが、声音がなんとも尊大で聴いているだけで恥ずかしくなり、体が熱くなってくる。
「彼の背負う『赤稲妻』の強さは、すでに日頃の訓練で身に染みるほど実感しているだろう。彼こそ帝国陸軍の強者だ、彼から学ぶことは非常に多い。限られた時間の中で、一つでも多くの事を教えてもらいたい。あらためて、よろしく頼む」
「え、えっと...」
ギクシャクしながら学生達に顔を向けた。これはアレだ、一言言わなくちゃいけないやつだ。と自覚した途端、真っ白のままだった思考がフル稼働する。
なにを言うべきだ?
よろしくお願いします?いや、もっと大人っぽいことを言わなきゃ。
稲妻部隊の、いや。元稲妻部隊?ちょっとダサいかな。
なんかもっと、こう―――。思考を手繰っては掻き分けて言葉を組み立ててみるも、どうも上手くいかない。もういっそのこと、よろしくお願いしますでいこうかな、と諦めかけたその時、小さな記憶が脳裏をかすめた。
「稲妻部隊が2中隊にて部隊標識たる『赤稲妻』を賜り、以来その栄誉に恥じぬよう戦い続けて参りました。」
激闘の日々を送る中で、偉大な先輩たちを追い続けた。追って、並んで、時には引っ張って。
ぼくはあの人達と一緒に戦ったんだ。立派に言おう。
「本隊では、私の持つすべての技術を皆様へ伝授いたしますゆえ、どうぞよろしくお願いします」
ずっしりと心に響く重みある声音に、一ノ瀬は少し驚いた。着任してから、彼の人懐こい性格に似合った明るい声や、学生達に語り掛ける優しい声音は聴き慣れつつあったが、ここまで威風堂々とした声も出せるのか。
これには学生も驚いたようで、思わず声を揃えて「よろしくお願いします!!」と張りつめた声で返事した。それに応じてか、さっきまでの立派な軍人らしさを台無しにするには充分なほどフニャリと笑ってみせる。
「こ、これでいいでしょうか...?」
弱々しく首を傾げて、結局締まりのない挨拶と化した。急に緩くなった空気が笑い声で弾けるとともに程なくして乾杯と宴会は始まった。すると、普段の食堂とは比べ物にならない盛り上がりを見せ始めた。
「あの日の戦闘、誰か語ってみろ!」
一ノ瀬が煽るや、見学組だった一人の学生が大きな声で「私が!」と名乗り、勢い良く立ち上がる。
稲妻先生の一式戦と一ノ瀬少佐に導かれ、分厚い雲を越えた時。
眼下に見えしはグラマン約60機。
悠々と飛ぶ奴らのはるか上空にて、稲妻先生がクルリと反転して数えること3秒。
一斉に襲い掛かる精鋭10機。
降下を始めた赤稲妻先生を追い越して、先陣を切ったのは我らが一ノ瀬少佐!
猛烈な勢いでグラマン一機を一撃のもとに葬るや、続けとばかりに攻撃要員たちの疾風も砲火を噴く!
たちまち混乱の様子を見せるグラマン達へ、稲妻先生の一式戦が蹂躙し始めた!
群れの最先端からパッと火の手が上がるや、その勢いそのままに別のグラマンと交差。瞬く間にひっくり返って海面へ落ちてゆく。グラマン達は慌てふためくが、稲妻先生の一式戦の勢いとどまる処を知らず!
また一機、もう一機。交差するグラマンが次々と煙を吐き出すなか、アメリカもようやく反撃に出ようとする。敵ながら巧妙な策も、手の内は見え透いているとばかりにたった一撃でグラマンの策を封じ込め、まさに鎧袖一触!
散々にかき乱されたグラマン達の猛追が鉛の飛礫となり、稲妻先生に襲い掛かる。ところがどっこい、敵の弾はすべて逸れていく。奇術のような技をもって無数に飛んでくる機銃弾を見事躱し切り、悠々と雲の中へ消えてゆきました。
「―—―その様子は、グラマンにとってはまさに天災。ロクな反撃もできず傷を負って彷徨う姿は、敵ながらなんとも哀れなものでございました!!」
酒に酔った勢いか、熱のこもった口調でその日の空戦を語り上げる。歓声をあげて勢いを増した学生達が、近くの芸者を囲んでさらに話し出す。攻撃に参加した者、見学をした者、みなそれぞれが一ノ瀬少佐と稲妻先生と共にいたことを一番の自慢としてあれやこれやと語りだす。芸者たちは「あらまあ」と盛り上がりに華を添えては明るい声で賑やかしてくれた。
そんな彼らを見守るように眺めつつ、一ノ瀬は隣の久子を相手に、小さな声で会話に興じていた。
「アナタが先陣を?」
「俺の飛行機の方が重い分、先に出てしまったようだ」
ウットリと夫を見つめる久子は、今にも抱き着かんばかりに身体を寄せる。流石に大勢の前では恥じらう気持ちもあるのか、せめてと彼女の手はスッと彼の太腿に添えられていた。その手を優しく重ねて、手繰るように顔を寄せる。
「もう2、3機は喰える実力があれば、君をもっと喜ばせられた」
「そ、そんな...久子は充分に...アナタの事を...」
恥じらいに負けて視線を逸らす我が妻を楽しみつつ、お猪口に注がれた酒を喉に流し込む。チラッと横目を見やれば、『赤稲妻』がまた顔を左右に振ってはアワアワとたじろいでいるように見えた。少し心配になるのは、彼への父性だろうか。などと己の心に沸き立つ想いを楽しんでいると、重ねていたはずの久子の手が指をスリスリと動き始めた。
「あちらが、気になるのですか?」
頬をプクッと膨らませて眉を曲げる久子に、一ノ瀬は「すまない」と笑い交じりに顔を向けた。
「まさか、あちらの女性たちが...?」
「その間にいる助教だよ。久子のおかげで、彼に青春がやってくるかもしれん」
促されるまま、久子は顔を向けて見た。母娘の間でたじたじになる幼い顔が、なんとも初々しく映る。
夫が言うには彼が呼び寄せたいと頼んだ2人だが、旅館に来るや、娘の美空ちゃんは料理上手に加えて快活な性格を振る舞って温泉客を惹き寄せる看板娘に早変わり。彼女の母は礼節良く、同性から見ても上品かつ丁寧な『大人の女性』として、その魅力を存分に発揮している。早速なでしこ旅館の即戦力として大いに活躍してくれている。
こんな良い女性たちを呼ぶのだから、いったいどんな御仁なのかと思えば。
「幼顔とは聞いておりましたが...本当に子供のようなお顔ですね」
「本人に言ってやるなよ。気にしているらしい」
美空の母は背中を向けているが、娘の顔がよく見える。なにか揶揄ったような表情をしたり、顔を赤くして何か喚いていたり、コロコロと表情を変えて楽しそうだった。
「経歴を見れば、彼は15歳で少飛になったようだ」
哀しそうな声で、一ノ瀬はポツリと呟いた。さっきの学生の武勇譚でも、一人でグラマンの群れを相手に大立ち回りをしていたと聞いたときは、まるで修羅のようだと畏怖すら覚えた。それほどの猛者となるには、いったいどれだけの死線を越えてきたのだろうか。
「俺が15の頃と言えば、まだ学生だった。小学生の頃から気になっていた憧れの女性を目指してとにかく鍛えて勉強していた」
「あの頃の私達は、一度も話したことがなかったですね。電車で見かけるくらいでした」
「初めて声をかけたのは飛行学校へ入校する前日だった」
「11年前、でしたね」
11年という年月も、昨日の事のように思い返せた。一ノ瀬が空けたお猪口に酒を注ぎながら、久子は当時を懐かしむように微笑んだ。
「忘れられません。「貴女に見合う立派な軍人になってみせます」って顔を真っ赤にさせて仰られました」
「君が頷いてくれた時は、本当に幸せだった」
「私だって、ずっと昔からアナタのことが気になっていましたもの」
お互いに頬を赤らめて笑い合う。厳しい訓練の果てに待ち受けていたのは北支事変、ノモンハン、そして大陸戦争と大東亜戦。その狭間で2人が共に過ごした時間は、11年という年月にしてはあまりにも短く、そして足りなかった。もっと早いうちに声をかけていればと、一ノ瀬の心に悔恨の念が生まれる。
「剣道は上手で柔道も勇敢。学業だって成績優秀と有名だったアナタに「好きな人がいるらしい」と噂が流れた時は大変でした」
「そんな噂があったのか」
「ええ。勘違いする子が多くて、ひとりずつ潰して回りました」
クスクスと笑う久子に、一ノ瀬は苦笑いで応じた。時々ではあるが、こうやって物騒なことを言う。武芸に秀でた人ではないにせよ、気迫は毎度のこと充分で一ノ瀬自身すら恐怖を覚えることもあった。本当か冗談か定かではないが、久子にとっては懐かしい記憶なのだろう。
「助教が言ってたんだ。「そういうのはよくわからない」って」
一ノ瀬の言葉に、久子は胸を痛めた。自分達のために戦う軍人が、恋の一つも知らないまま命を燃やそうとしている。若くして必死に戦ってきた彼を修羅のように思った自分が恥ずかしくすら思えた。同時に、夫の意図がうっすらと感じ取れた。
「今の御時勢はまるで乾いた土。種を植えても...芽は出ません」
「誰かが水やりしてやったら、芽吹くかもしれない」
「...アナタは優しい人ですね」
一ノ瀬のもとにやってきたのは百戦錬磨の名手であると同時に、異性を知らないまま年齢を重ねてきた、まさに子供。せっかく内地に帰ってきたのだから、雛鳥を育てるだけでなく、彼も大人にしてやりたい。彼にとってはお節介だが、相手がどんな人であれ、それがたとえどんな結末を迎えようとて、恋愛の一つくらい知ってほしい。男にとって女性がどれほど大きな支えとなってくれるか、伝えてやりたい。
「相手は美人だし、育て甲斐がありそうだ。一緒に育ててみないか?」
「勿論です。勿論ですが――――」
そっと顔を寄せて、耳元で「浮気したら許しませんから」と囁く久子の声に、一ノ瀬の背筋が凍り付いた。




