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赤い稲妻くん。  作者: ぴーす
10/20

10話

美空は職場を辞した。

小さいながらも一時は大勢の人で賑わった料亭で働いていた。今では多くの男が赤紙一枚で出征してしまい客は減り、調理器具の一部も金属供出に出すという戦時ゆえの苦労が散見される職場であったが、雰囲気は良かった。


「申し訳ございません」


美空が頭を下げた時、料亭の店主は苦笑いを浮かべていた。皺が寄った顔立ちながらも愛嬌のある人柄が特徴で、物静かながら包丁の扱いから盛り付けの仕方まで丁寧に何度でも教えてくれる親切な人であった。


「まあ看板娘の麻衣ちゃんも美空ちゃんも居なくなったなら、しばらくは店も畳めるよ。ゆったり休んでおくさ」


昼時というのに、客はいない。料理を出そうにも食料の調達が滞り、メニューの一部には赤線を引っ張るという有様。2人の女性目当てで足繁く通っていた男たちも、今や練兵場か戦場かのどちらかで銃を手に取っている。

乾いた空間に響くおっとりした声音が、美空の胸を痛ませた。


「戦争が終わったら、また来てちょうだいな」


店主の妻は彼女を励ますように言った。老齢ながらハキハキしていて、それでいて品のある素敵な女性だ。誰からも好かれる割烹着姿の彼女は、美空にいつもと変わらない口調で笑顔を見せてくれた。


「今の美空ちゃんなら、おいしい料理もたくさん作れる。胸を張ってお行きなさい」


店主の優しい言葉にジンと心を震わせながら、美空は「ありがとうございました」と深く一礼した。


ああ、辞めちゃった。


帰り道、美空はぽっかりと空いた心を押さえるかのように手を胸に当てた。後悔、というよりは不安の気持ちを抱いている。もしあの手紙が来なかったら、今日も職場に行って、たまに来るお客さんをお迎えして、接客して、洗い物をしながら次の客が来るまで店主と奥さんと雑談して。刺激はないが心の落ち着く時間を、たった一通の便箋で捨てた。捨てた先に何が待っているのだろう。


ぼんやりと思い浮かぶのは、あの幼顔のパイロットだけ。


「助けてもらった身とはいえ、こんな振り回されるとは...」


ため息交じりの呟きに、彼女が思い浮かべるパイロットはただただ記憶の中に刻まれたニコニコ顔を見せるだけであった。



対して、美空の母はやや急ぎ気味で支度を進めていた。

親しい者に手紙を綴り、町内会へ数年度分の町費を納めてから、あちこちを移動しては挨拶して回っていた。とくに麻衣の家は協力的で、旦那からは在郷軍人会の名まで出して応じていただけたのは、なんとも心強かった。空き家となる我が家の心配はない。あとは旅支度。家のあちこちから引っ張り出して荷物を作り、大きなカバンにしまう。


「さて」


ひと段落したとばかりに一息つくや、ふと手元に置いた写真立てを手に取った。しばらくジッと見つめ、押し入れに仕舞い込む。「ごめんなさいね」と、虚空に向かってポツリ呟いた。


やがて無職となった娘が帰宅した。


「ただいまー。ホントに辞めてきちゃった」

「おかえりなさい。これで行けるわね」


母娘が立てた計画では、明日に出発する予定であった。だらだらしていては、せっかく手紙をくれた御夫人に失礼と、すぐに行動すべきと母が主張していた。やけくそ気味ながらも行動してくれた娘を前に、流石は我が娘と感心していた。


「お夕飯を済ませたら、すぐお風呂に入ってさっさと寝ましょう」

「お母さん、めっちゃワクワクしてるじゃん」


ニコニコ顔の母を見て、美空は呆れた。お母さんには不安の一つもないのだろうか、と半ば羨まし気にジットリと視線を向けていた。まるで旅行前夜と言わんばかりに浮かれた声音で「さあさあ」と台所へ向かう母を見送ると、自分はお風呂場へ向かって水を張る。言葉を交わしたこともない父の持ち家ながら、この小さな風呂場は我が家有数の憩いの場、ここともしばらくお別れかと思うと少し寂しい。


「お母さーん、薪は使い切るー?」

「余らせた分はお隣にあげるから、無理に焚かなくていいわよー」


ならいいか、と暢気な足取りでちゃぶ台へ行く。脚を放り出してふにゃりとちゃぶ台にもたれた。つけっぱなしのラジオだけが、我が家に話題を持ち込んでくる。


「艦載機の本土来襲と時を同じくして、機動部隊は硫黄島を―――。」


硫黄島。最近、米軍が攻撃を始めたという島の名だった。

ここに航空基地を作って日本を襲うとかなんとか。内容に想像が追いつかない。近頃、横浜や東京を空襲するB-29というアメリカの爆撃機は、はるか彼方のサイパン島から飛んできているらしい。


「何時間もかけて飛んで、返り討ちとは可哀想に」


ラジオや新聞では、米軍の攻撃は凄まじくも、反撃でことごとく痛手を負っているとのこと。物量にものを言わせた戦い方と聞くが、よくもまぁめげずに頑張るなぁと呆れるばかりであった。

美空にとって初めて戦争を実感した空襲も、結局は日本機の群れが迎撃に行って、勇ましい姿そのままに帰って来た。あの日以来、米軍機は来ていない。


「美空、脚を開かないの。はしたないわ」


夕飯を持った母が背中越しに声をかけてきた。いわれるままに正座して、姿勢を正す。


「どう、お上品でしょ?」

「注意された時点で上品も何もありません」


コト、コト、と差し出された夕飯は湯気だっていて、見るだけで空腹を刺激させた。決して豪華ではないし、平時と比べれば物寂しい食卓とはいえ、瞳をキラキラさせて料理を見つめる娘を見ると、母の表情がふんわりと崩れる。


「いただきまーす」

「はい」


こんなささやかなながら平穏な暮らしも明日からどうなるやら。しかし、美空の母はそんな小さな不安よりも期待の方が膨らんでいるのか、明日を考えると胸が躍るばかりであった。




東町の空を、銀翼が轟音を響かせて舞う。

町を行き交う人はそれを見上げ、見慣れた様子で見守っていた。


「久子さん、飛行機が飛んではるわ」

「あら」


なでしこ旅館の窓越しに空を見上げてみると、2機の飛行機がグルリと飛んでいるのが見えた。

先頭を行く一機はよく見る飛行機、たしか「疾風」という日本の新型主力戦闘機。夫が四式戦と呼ぶ飛行機で、それに乗って若雛を育てていると言っていた。

その先頭を行くのは別の飛行機かしら?少し小さく見えるし、姿見がやや異なる。


「なんや後ろの飛行機はえらい派手やなあ」


女将の呟きに、久子は「そうですねえ」と返事した。昨晩、夫が言っていた部下の飛行機だろうかと久子は予想した。新しい部下は『赤稲妻』と呼ばれる戦地帰りの猛者で、先日の米艦載機来襲でも部隊筆頭の戦果を立てた自慢気に言っていたのを思い出す。


「浩平さんが言うには、なんでもラバウル以来ずっと最前線にいた人だそうですよ」

「はあ、そんなすごい人が部下に来たんや」

「あんまり嬉しそうに喋るものですから、嫉妬してしまいました。強くて、一所懸命で、可愛げがあって...」


クスクス笑う久子の目に女将は少し動揺しつつ、「そない物騒な目つきせんでも」と茶化す。普段は真面目でしっかり者のくせに、旦那の話になれば惚け顔になり、少しでも拗れればスンッとした氷も割れんばかりの表情に化ける。女将も一度だけ「浩平さんはほんま色男ですなあ」と言ってみたら、今にでも刺されるのではないかと恐怖させるほどの表情で「私の、自慢の夫です」と釘を刺すかのような一言を返されたことがある。


「浩平さんが優秀やから、そういう猛者も慕ってくれはるんやろ」

「なるほど...、ふふっ」


おしとやかな表情に戻るや、忙しなさそうにパタパタと仕事に戻っていく。やれやれとばかりに一息つくや、女将も目の前の仕事を再開した。


その上空では、血反吐すら生ぬるい猛訓練が繰り広げられていた。

高度3000メートル上空で始まった模擬空戦は、今や地表すれすれの低空戦にもつれ込んでいる。小回りの利く一式戦にしては甘い旋回に乗ってしまったが最後、ヒラリヒラリと機首を振り回すうちに前にせり出してしまい、今度は追われる身となってグルグルと逃げまわっていた。


先頭を行く四式戦は必死になって後続の飛行機を引き剥がそうとする。しかし、何度振り返っても赤い稲妻を帯びた一式戦はピッタリと貼り付いたままで一向に離れない。


全身から噴き出る汗も気にせず、必死になって操縦桿を引き倒してみる。身体にのしかかる荷重の苦しみに悶えながら後ろを見やると、赤い稲妻はさらに距離を縮めてこちらに迫ってきた。

風防越しに見える助教の顔が見える。ギラついたゴーグルがじっと見据えて離さない。


「...参りました」


弱々しい声とともに、四式戦が翼をバンクさせた。すると、無線電話越しに「おつかれさまですっ」と明るい声が返ってくる。

やがて自機の隣に並んできた一式戦がバンクして、帰投の指示を送ってきた。学生は息を切らしながら「はい」と頷いて、ヨロヨロと『赤稲妻』に追従する。


まもなく滑走路が見え、「お先にどうぞ」と連絡が入った。疲れ切った体に喝を入れ、教え込まれた通りに着陸する。


学生が機から降り立った頃、助教の一式戦が着陸態勢に入った。


主脚を出し、滑走路を真正面に見据える。着陸進路をゆったり飛行し、みるみる高度を下げていく。

減速しながら地表スレスレまで降下し、そこから一度水平に姿勢を正した。そこからフラップを出して、機首を上げて失速させる。高度ゼロでの失速操作により、機体は機位を変えることなく降下。誰が見ても文句なし、お手本のような操作だ。

ゴン。と機体が揺れ、タイヤが接地した。

スロットルを閉じ、ブレーキを全開にして速度を落としていく。


まもなく着陸を終えた一式戦に、数人の整備兵が駆けつける。

風防が開くとともに、搭乗員である助教がピョンと降り立った。


「お疲れ様です、助教どの」

「お願いしますっ」

「はっ」


軽く挨拶を交わすと、整備兵たちは着陸機に取りついて作業に入る。

機から降りた助教は背を伸ばし、全身に風を浴びていた。冷たい風が染み込んでくる。体温を奪われるが、どこか落ちつくような心地よい風だ。ゆっくりと深呼吸し、身体の奥底からゆっくりと浄化されていくような感覚を味わう。気分晴れやかな助教がこちらへやってきて、優しく微笑んでくれる。


「お疲れさまでしたっ」


さっきまでの殺気溢れる一式戦の乗り手とは正反対の、人懐っこい笑顔だった。学生は力なく「もうお手上げです」と苦笑いする。

一緒に行こ。と言わんばかりに差し出された手をそっと握り、手を繋いでピストへ歩きだした。学生の身では言いづらいが、まるで年差のない弟のように見える。時々、一ノ瀬少佐が彼の頭を撫でるのを見るが、なんとなくわかる。無邪気というか、子供っぽいというか。


「少佐どの、戻りました!」

「なんだ、仲良しだな」


手を繋いだままの二人に、一ノ瀬は笑い交じりで返事した。言われて初めて気づいたのか、助教がパッと手を放し「ごめんなさい」と恥ずかし気に声をかけてくれる。この分け隔てない器量が、なんとも心暖かい。


「どうだった?」

「完敗でありました。高度3000から始めて、追ってるつもりが低空に追い込まれてしまいました。結局は旋回戦になり、やられてしまいました」

「でも、最初の追い方は良かったです。次は増速を活かしたまま一度離脱して、高度を取り戻してみてください」

「反復攻撃、ですか」

「そうです。相手を見ながら距離を取って――――。」


今までの教官と言えば、冷たく厳しい言葉と鉄拳による制裁が茶飯事だったが、彼にはそれがない。代わりに説明と思案という手段をもって理解させようとする。不思議な教育者だ。


「では、次は旋回の時に追従せず離脱してみます」

「はいっ。でも、速度に注意してくださいね。一式戦は加速が良いので、遅くなると一気に詰め寄ってきちゃいます」


ニコニコと朗らかで、それでいて丁寧。今の一言も、言い換えれば「遅く見せれば誘い出せるぞ」という彼なりの助言に思える。一回飛ぶごとに自分が進化しているような気分になれる。体力は消耗するが心地よい訓練だ。


「次こそ『赤稲妻』を出し抜いてやるつもりで、思い切り挑んでみなさい」


ニッと笑う一ノ瀬少佐も暖かい。助教と違い、まるで父親のような温もりを感じる人。助教が来る前は彼だけが我々の心を温めようとしてくれた。冷たい冬の風すら忘れる、人情に溢れた風格ある上官だ。威張らず怒鳴らず、それでいて威厳を損なわない。奥様の話の時だけ、自慢気に「自慢の嫁だ!」と胸を張る姿がまた楽しい。育ての父はいるが、空の父となれば彼しかありえない。

だからこそ、返事にも気合が入る。


「はいっ!」


そんな我々を見守ってくれる2人の顔は、生涯忘れることはないのだろう。


「しっかり復習して、次に備えるように」

「はっ」


元気よく学生達が返っていく。一ノ瀬と助教、もとい『赤稲妻』が見守るなか、一ノ瀬はふいに言葉を漏らした。


「嫁から誘いの手紙を出しておいた。結果が楽しみだな」

「えっ!?」


『赤稲妻』はびっくりと身体を跳ねさせて、こちらを見てきた。突然の発言だが、その意味は理解しているようだ。間の抜けた表情で、反応に困っているように見える。少し彼を揶揄ってみたくなり、ニッと表情を浮かべた。


「来たら連絡を寄越してもらう予定だ」

「そ、そうですか...」


ポカンとした様子だが、目はどこかへ泳いでいた。空戦の申し子とはいえ、恋愛に関してはまったくの素人、女などまるで知らない、見た目通りの初心な顔付きがよく似合う動揺ぶりだ。見ているだけで愉快になる。


「君の連れが来たら学生達も連れて旅館で一宴やろうと思っている」

「えっ」


想像した通りの表情を返してきて、一ノ瀬は感情を押さえつけるのに必死になった。表情も声音も変えぬように努めつつ、仕上げの一言を放つ。


「突撃一番が要るなら早めに言ってくれ」

「いっ、要りません!!」


赤い稲妻にも引けを取らぬ真っ赤な顔で喚く姿にこらえきれず、プッと堰が切れたように一ノ瀬は笑い始めた。揶揄われていると気付いた『赤稲妻』は尚のことほっぺを膨らませて威嚇する。


「空戦については君に頼りっぱなしだが、女性のことなら教えてやれるぞ」

「だからまだそういう関係じゃありませんっ!」

「まだ?」

「~~~~~~っ!!」


発動機にも負けない爆音が指揮所に炸裂するなか、一ノ瀬なりに青春の芽吹きを期待せずにはいられなかった。

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