4・あなたじゃない
理子はハサミが好きだった。
他の人から見れば特にどうということもない、青い柄の工作用バサミが大好きで、どこへ行くのにも持ち歩き、寝るときも一緒だった。
ハサミは危ないからと、両親に取り上げられるまではずっとそうしていた。
これなら安全、と渡されたのはボールだった。赤や黄色のカラーボールは確かに丸くてつやつやしていて可愛かった。
「でも違うわ。これはハサミじゃない」
理子は何度も両親に訴えたが、寝ている間にハサミが目に刺さったら大変、学校で友達にぶつかって刺さったら大変だと説き伏せられ、ようやく納得した。ハサミを好きでいるのは社会的に難しすぎるのだ。
その日から、理子はボールを好きになる努力をした。好きな色のボールを全て買い集め、中に鈴の入った布製のものから、星の模様のスーパーボールまで、気になったものは片端から自分のものにした。ボールに埋もれて眠り、寝室からリビングに移動する時もボールを引き連れていった。
「理子、ちょっと増やしすぎじゃない? これなんかもう古いし、半分くらい処分したら?」
「母さんの言う通りだ。それに理子は少しもボールで遊ばないじゃないか。こんなにあっても仕方ないだろう」
両親はいつも理子のことを想ってくれる。だけど、いつも勝手なことを言う。
引越しをする時、理子はボールを泣く泣く手放した。どのボールもかけがえのない存在になっていたが、連れて行けないと言われたら仕方ない。
理子は心の中でボールと暮らし始めた。
「こんにちは、ぼくはボール。メロンのように甘くてまんまるだよ」
「ええ、昨日も聞いたわ。何度投げ捨てても戻ってくるのね」
「ありがとう、ぼくはボール。世界一可愛くて賢くて働き者だよ」
友達と遊んだ後も、家族で食卓を囲んだ後も、理子はボールと話をした。ボールは自分で言うほど賢くはなかったが、理子の言うことはよくわかってくれた。
「私に恋人がいないのはおかしいってみんな言うの。ボールもそう思う?」
「そうだね、ぼくはボールだけど、恋人はいてもいなくてもいいと思う。恋人って発酵食品?」
「ナマモノよ」
「じゃあいなくていいと思う。保存が大変だし、捨てに行くのも面倒だから」
そんなある日、理子は学校で一番人気の牧野先輩から交際を申し込まれた。風のように自由に生きているところが好きだと褒められて、すっかり嬉しくなった。
「ありがとうございます! そんなふうに言ってもらえたの初めてです。牧野先輩は優しい人ですね!」
そして次の日からも変わらず風のように暮らしていた。すると、牧野先輩は突然怒り出した。
「俺と付き合う気があるのか、ないのか?」
「私、付き合いたいなんて言ってません」
「お前、ありがとうって言ったじゃん」
「はい。言ったのでもう何もしなくていいと思いました」
牧野先輩は次の日から学校へ来なくなった。ココロを病んでしまったのだと風の噂で聞いた。
「ひどい女」
「ああいう子とは絶対関わりたくないわ」
「人を人とも思ってないのね」
あっという間に、理子の周りから友達がいなくなった。不思議な人たちだ、と思う。牧野先輩が学校へ来ないことが気に入らないなら、自分で引きずり出してくればいいのに。
理子はボールと二人で勉強し、ボールと二人で通学路を歩いた。球技大会は苦手だった。バレーボールやバスケットボールは手触りがあまり好みではないし、誰も理子にはパスしてくれないからだ。
両親は理子を気遣い、映画や美術館、田舎の家などによく連れて行ってくれた。理子は何をしていても楽しかった。もうボールを捨てろとは言われないので、両親のことも前よりずっと好きになった。
「理子はこんなに明るくていい子なのに、クラスの奴らはひどいんだな」
「そういうものよ。理子みたいないい子がいじめられるのよね。世の中間違ってるわ」
いじめられてなんかいないのに、と思ったが、両親が優しくしてくれるのは嬉しかった。
「いいお父さんとお母さんだね。ボールのぼくでもわかるよ。二人とも健康でそこそこ稼ぎもあって良かったね」
「そんなことまでわかるの?」
「半分は適当だけどわりと当たってると思うよ」
ボールは最初の頃より賢くなっていた。数学の問題を一緒に考えてくれたり、忘れてしまった人の名前を思い出そうとしてくれたり、いつも親切だ。とはいえ、理子にわからないことはボールにもわからなかった。
「仕方ないわね、ボールだし」
「そうそう、ボールだから仕方ない。理子はまだハサミのほうが好き?」
ボールは時々そんなことを言って、理子を動揺させる。これがなければ、理子はボールを自分と同一人物だと思い込んでいたかもしれない。
「うーん。ハサミは確かに好きだったわ。あの青いハサミね。よくわからないけど好きだったの。でも今はボールが好きよ。だってあなたはハサミじゃなくてボールでしょう」
時々、ボールは答えをくれないことがある。そんな時、理子は空から逆さまに吊り下げられ、地球が爆発するのを待っているような気分になる。
「そうだよ、ぼくはボール。まんまるだから安全だよ」
理子がそう望むなら。
心の中で付け足しそうになり、慌てて二重線で消す。
ボールがいてくれるから、理子は安心して暮らせる。風のように自由に生きていける。ハサミではないボールが、理子は大好きだ。これからもずっと、大好きだ。