第五夜 電車-でんしゃ
地下鉄の階段を下りていくと、丁度ホームに電車が入ってきた。いちばん前の車両に乗り込むと、まだ夕時だというのに誰もいない。
珍しいこともあるものだ、と思いながら車両の真ん中辺りに座った。
後ろの扉が開いた。女がひとり車両を移ってきて、わたしの前を横切って行った。
通りすぎる時にその女が何か落としたようで、私の足元にころころと転がってくるものがある。
拾い上げて見ると、それは目玉だった。
落としましたよ、と私が声をかけると、女は振り向いて恥ずかしそうにはにかみながら、ありがとうございます、と言った。
そして目玉を受け取って、その真っ暗な左目に嵌めた。
女の顔は、一面うつくしい花柄をしていた。
見知らぬ土地で道に迷った時に似た、なんだか落ち着かない心地になって、私は車両を移ることにした。
立ち上がって、女が這入って来たほうへ向かう。扉を開けて中へ這入ると、やはり誰もいない。
どこにも座る気になれなかったので、もっと後ろの車両へ行くことにした。
すると、向かいの扉が開いて、またも女がひとり這入って来た。
女はそのまま歩いてきて、わたしと車両の真ん中辺りですれ違う。女の顔は花柄をしていた。
最初の車両ですれ違った女だった。
後部車両へと続く扉を開ける。車両の中には誰もいない。前から女が這入ってくる。歩いてきて車両の中程ですれ違う。女は花柄の顔をしている。次の扉を開ける。誰もいない。女が這入ってくる。すれ違う。花柄。扉を開ける。女。すれ違う。花柄。扉。女。すれ違う。花柄。扉。女。花柄。扉。
繰り返しているうちに、もう自分の居るところが何両目だか分からなくなってきた。
私が乗った電車はこんなに長くは無かったような気もするし、まだ半分も通りすぎていないような気もする。
扉を開ける。誰もいない。女がくる。すれ違う。また扉を開ける。
開けると、風がごうっと吹いて、濁流のように流れる線路が見えた。とっさに開けた扉にすがりつく。
後ろに続くはずの車両が無い。気づかぬうちに最後尾まで来てしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。
最後尾なら車掌室があるはずだし、さっき女が這入ってきたではないか。
そうだ。さっきあの女が、この扉を開けて這入ってきたのだ。
振り向くと、車両の中ほど辺りに女が立っていた。
その透き通った白磁のような顔一面には、繊細な、赤や青やとりどりの色の線で引かれて金銀の縁取りをされた、美しい花柄が描かれている。
私と目が合うと、女は濡れた黒曜石の両目を一度ぱちり、と瞬きさせた。
そして静かにまた、ありがとうございます、と言った。
-了-