第三夜 音-おと
目が覚めて階下へ降りている途中に、自分の足音が消えていることに気づいた。
何事かと訝りながら居間の扉を開けると、ドアノブを回す音も、戸が開く音も閉じる音も聞こえない。
驚いて妻に、
「おうい、なんだか耳がおかしくなったようなんだけれど。」
と、半ば叫ぶように告げると、自分の声はちゃんと聞こえた。不思議そうに返事をする妻の声も聞こえる。
どうやらわたしの立てる物音だけが、すっかり全部無くなってしまったらしい。
何でこんな事になってしまったのだろう、と困惑していると、妻が訳知り顔で頷いて
「あなた、どうやら背中の口が逃げてしまったようよ。」
と妙なことを言った。
ともかく、このままでは自分が幽霊にでもなったようで落ち着かない。
医者に行った方がいいだろうか、こういう時は医者でいいのだろうか、と訊くと
「まあ。そんなことでお医者に行ったら、お医者さまが困ってしまうわよ。」
と、可笑しそうに笑いながら、わたしを放って洗濯物を干しに行ってしまった。
その振り返った妻の背の真ん中に、大きな口が付いている。
妻が歩くとその口が、ぺらりと開いて「ととと」と足音を『喋った』。吐き出し窓を開けると「からからから」、つっかけを履くと「がろんがろん」。
どうやら妻の立てる物音が、この口から出ているのだ。
さてはこれが背中の口だな、と考えながら、わたしは妻の背に見とれるようにつっ立っていた。
すると、妻がくるりとこちらを振り向いて、
「背中の口から離縁されてしまうなんて、きっと甲斐性なしだと笑われてしまうわね」
と、またくすくす笑って揶揄った。
こんなに大きなものが付いているのに、今までどうして気づかないのだろうかと、わたしはその事ばかりを気にしていた。
-了-