潜入
「明朝、隣国の秦羅を従えている佐田の屋敷へ行って参れ。佐田がお前を所望している」
「……え」
私は、お殿様のおっしゃる言葉が理解できなかった。
「聞こえなかったか?佐田がお前を所望だ。だが、これは任務でもある。隣国の状況を知れる役割でもあるのだからな。姫の格好をして参れ」
「お、お待ち下さい!何故、私を所望など…」
「以前、ここへあやつを招待した時に、お前を見初めたのだと。お前、その時は招待客をもてなしする役割で、姫の格好をしていただろう」
「……」
確かに…。いや、しかし、あれは一年前だったはずだ。何故今ごろ…。
「何故今ごろなのでしょうか…」
「知らん」
「……私は、姫の格好をして何をすれば?」
「あやつに気に入られ、状況を逐一報告せよ。万が一、正体が知られたら斬っても構わん」
「…承知いたしました」
「では、明朝向こうから使いが来るから、心得て行け。下がれ」
「はい。失礼致します」
私は、お殿様の室内から出て、中庭へ出る。ただあてもなく、ブラブラと歩き回るだけだが、今はそんな気分だった。
(私を見初めた?確かに、佐田のお殿様は私をよく見ておられた…。あれは、紅目が珍しいから見てたのと思う…)
私は、佐田のお殿様の蛇のように、私を見詰める瞳を思い出していた。あの瞳に会うのは嫌だったが、任務ならば致し方ない。
私は気分を変えて、姫になりきるための準備をする。
翌日の明朝…ー
いつもの忍の格好ではなく、色鮮やかな着物を何枚も重ねて、腰まである長い艶やかな黒髪を背に垂らし、ゆったりとした歩調で庭で待っている籠へ向かう。
籠に乗ると、見送りにきたお殿様が小声で達者でなと言った。私はその返しに頷く。
一刻程、ゆらゆらと揺らめき、欠伸を噛み締めていた時、籠が降ろされた。御簾が上がり、私は痺れた足に何とか力を入れ、地面に足をつける。
眼前に、私の住んでいるお屋敷よりもはるかに立派なお屋敷があった。また、建物だけではなく人の多さも想像を越えるものだった。
私が姫の設定だからか、女中がずらりと並んでおり、その内の一人に話し掛けられる。
「姫様、あちらでお殿様がお待ちでございます。どうぞ、付いてきてくださいまし」
唇の横にほくろがあり、色気をたっぷりと醸し出す女中に私は怯む。女中なのに、身のこなしが洗練されており動作もゆっくりだ。
「どうなさいました?」
女中が私のジロジロ見ていた視線に気付き、私ははっとしたようにいいえとだけ言った。
屋敷の中を案内され、奥にある一室の襖に女中が、お殿様と声を掛ける。すると、すぐに入って参れと男性の声が聞こえた。
女中がすっと襖を開けると、私は室内に入り、畳に手をつけて顔を下げる。
「この度はお呼びくださいまして、誠にありがとう…」
「よいよい。堅い挨拶はそれくらいにして、こちらへ来い」
私の言葉を遮り、佐田のお殿様は私に側へ来いと言う。私は頭を上げ、蛇のように私を見詰める瞳と、視線がぶつかる。
私は手招きをしている男の瞳を見詰めながら、すっと立ち上がり佐田のお殿様の目の前に座る。
「やはり、美しいな。一年前よりも益々、美しさに磨きがかかったな。どれ、私の側室になる気はないか?」
佐田のお殿様は蛇のような目を細めて、いやらしく私の全身をジロジロ見ながら、ニヤニヤ笑っている。
「…誠にありがたいお話ではございますが、私には許嫁がおりますので」
「何?許嫁がおるのか?聞いておらんぞ。其奴とは別れ、私の側室になる方が断然、良いに決まっておる」
男は私の嘘を受け入れ、声を荒げた。そして、私に腕を伸ばして両肩をガッと掴まれる。痛いぐらいに掴まれたその腕力に、私が顔をしかめても、離してはくれなかった。
「…痛いです。お離しを…」
「許さん、お主を私のものにするために、一年間機会を待っていたのだ。そして、その機会がようやく来たのだ。ここで逃すわけにはいかん」
(そういうことか)
私は男の言った言葉に納得した。何故、一年前に会った私を今呼んだのか、その訳が分かった。
「でしたら、しばらくここに、いさせてくださいまし。私はお殿様のことを、あまり存じていないゆえ。一緒に生活をすれば、お殿様のことをよく知ることができます。私をめとるにはその後でも、よろしいんじゃありません?」
私はなるべく、甘ったるい声を出し、両肩を掴まれる腕にそっと手を掛けて艶かしい雰囲気を出す。
男は、私を見詰めて満足気に頷く。
私が佐田に滞在してから、2日経った。姫として扱われているので、屋敷の中で最も日当たりの良い部屋で寝泊まりして、三食もの贅沢なご飯を頂けている。
そして、佐田のお殿様は私に終始べったりで、会議も疎かにしており家来たちを困らせていた。時に、私の部屋まで来ては、一方的に私の容姿を褒めちぎったり、金に輝く贈り物をたくさん持ってきたりしていた。
私は、この男の側室になれば窮屈になることは分かっているので、適当に受け入れ、定期的にお殿様に報告をしていた。
そして、三日目の夜…ー
佐田のお殿様が私を部屋に呼び、寝る前にお酒の酌をしろと言ってきた。私は寝間着姿の男の隣に正座をし、酌をする。
男は、私をお酒の肴に例えるかのように、ジロジロと見ながらお酒をくいっと仰ぐ。
「誠に、お主は美しい。どうだ?私のものになる気は出来たか?」
「……お殿様は私の容姿に、惚れたのでしょう?私ではありません」
「何を言う。もちろん、私はお主の全てを愛しておるぞ。顔だけではなく、身体も好みだ」
男は、私の胸元を見詰めてニヤニヤ笑っている。私は、ゾクッと嫌悪から身体を震わせたが、男は私が悦びから震えていると勘違いをしたようだった。
「ん?震えておるな。私が暖めてやろうか?ん?」
「…いいえ、結構です」
男の手が私の身体に伸ばされたが、すっと避ける。男は、めげずに私を追い掛けるが、私は触られたくないため避け続けた。
男は、苛ついたのか立ち上がり、私を無理矢理押し倒す。
「あ…」
「もう観念しろ。どれだけ私を待たし続ける気だ。私はそこまで気の長い男じゃない」
男は、私の襟元に手を掛け、強引にぐいっと開けた。私は、せめてもの抵抗に身体を捻るが、男の身体はびくともしなかった。
私が、男を気絶させようか迷った時…ー
「お殿様」
襖の向こうから、低い感情を感じさせない男性の声が聞こえた。
「なんだ」
男は、私を犯す手を止め動きを静止させた。
「三田の殿から、使いが参っております」
「後にせよ」
「そういうわけには参りません。すぐに」
「…ち」
男は、舌打ちをしながら私の上から退く。
「残念だが、続きはまた今度だな。姫」
男は、私の黒髪を持ち上げ唇を落としてから、室内を退出する。その時に、声を掛けてきた人の影が見え、私は思わず一目見ようと立ち上がり、襖に近付く。しかし…ー
「なりません、姫君。今宵はまだ見てはなりません」
襖の影から、感情を感じさせない低い声が話す。
「一目でもあなたを見たい…。なりませんか?」
「…なりません」
今度は少し声を和らげて、優しく諭すように話していた。先程の、冷たい低い声と異なっており、その優しい声に私の心臓はトクンと鳴る。
私は思わず、声の主を見ようと一歩前へ進んだその時に、大きく暖かい骨ばった手のひらが、眼前に迫る。私は、一瞬何が起きたか分からなかったが、両目を堅い手のひらに覆われていることは分かった。
「いけない子だ。見てはなりませんと言っただろ?」
先程よりも穏やかに、包み込むように話すその人は…ー
「穗積?」
「……」
私が名を呼ぶと、その人は黙る。私が片手を伸ばすと、きゅっと手首を掴まれ、指に暖かい何かを押し当てられた。その感触に私の、頬は赤く染まる。
「今宵はもうお休み、姫君」
「あ…」
両目を覆っていた堅い手のひらが退くと、私は目を開け眼前に広がる中庭があった。いつの間に、姿を消したのか私は必死にきょろきょろと左右に首を振るが、どこにも人の気配はなかった。