やっと
今宵は月が欠けており、薄暗かった。それに雲が時折、月を隠すので辺りは暗闇に包まれている。しかし、私は幼い頃から暗闇に慣れる訓練をしていたので、暗闇には問題ない。
私が殿の部屋へ参ると、中から入れと低い声が聞こえる。
私がすうっと襖を開けると、中はろうそく一本のみで、部屋の中を照らしていた。その側に、一つの布団とあぐらをかいて、壁にもたれる男が、酒を飲みながらこちらを見詰めていた。
「失礼致します」
私は音もたてず、襖を閉め布団を挟む形で、男に向き直る。
「ここへ参った意味を、お主は理解しているか?」
男が尋ねる。
「はい」
「そうか……では、もっと近寄れ」
「はい」
私は立ち上がり、布団の回りを歩き、男の側に腰掛けた。そして、男の持っている器に、酒を継ぎ足す。
男はぐいっと酒を仰ぎ、コトと器を床に置くと、私の肩に腕を回す。
「お主、誠に怖じ気付かないな…手慣れたものだ」
男は私の襟を開け、首筋に顔を埋める…
すると、そのまま体を傾け、床へと前へ倒れていった。
「っ…お主、何を…盛った…っ」男は苦しそうに呻き、目を閉じていく。
「少々毒を盛らせて頂きました。後、半刻すれば天に召されますのでゆっくりとお休みなさい」
私は男の両腕と、両足、目、口を予め用意していた縄で縛ってゆく。
「んーんー」
男は、苦しそうに体を丸め額には、汗が吹き始めている。
私は、一刻も早く行動に移す。男の部屋を出て、縁側を足音もたてず走り、最奥にある大部屋の襖を開ける。
そこは、侍女の寝る部屋で、私が襖を開けたら何人かの侍女が、怯えたようにこちらを見る。
「ひっ!曲者…」
「大丈夫です。私は、あなた方を助けに来ました。殿は、今意識がありませんので、この隙に裏口から逃げてください。門番も眠っているので、安心してください」
私が声を潜めて言うと、怯えていた侍女たちは徐々に表情が明るくなっていき、慌てて部屋を出て、裏口から逃げて行く。
しかし、一人だけ隅っこでうずくまっている侍女がいた。
「どうしましたか?あなたも…」
その侍女は、殺された青年と抱き合っていた侍女だった。確か、名はりさと呼ばれていた。
(りさ?…あ!)
川で会った男の子が言っていた、姉のりさではないか?
「りささんですか?弟さんが待っています。早く、家へお帰り…」
「いや!私はここにいるわ!」
突然、女は顔を上げ叫んだ。
「あの男が言ったのよ!お前が逃げたら、家族も道連れだって…私が帰ったら、家族に被害が及ぶわ…」
「心配ありません。あの男は私が毒を盛りました。後、半刻程で息絶えるでしょう。だから、安心してお帰りください」
「……本当?私、帰っても良いの……」
「はい。一緒に帰りましょう」
私は、まだ不安げな彼女を立ち上がらせ、部屋を出て、暗闇の森の中を降りていく。
足元が不安定なので、彼女は何度も転びそうになったが、無事彼女の家の前へとたどり着く。
「ここよ!私の家……」
彼女は、そうっと自身の家の扉を開ける。
「誰だ!」中から、男の怒鳴り声が聞こえた。
「父さん!」
「…りさ?りさなのか?」
「父さん!私よ!」
「りさ!りさ!……よく、よく帰って来た」
父は、りさを強く抱き締め、泣き合う。
「父さん…父さん……たくは?」
「ああ…寝ているよ。全く、お姉ちゃんが帰って来たのにぐっすりだ」
父は、苦笑する。
「ふふ……あ、そうだ!ここまで連れて来てくれた子がいるの!ねえ……あれ?」
りさが扉へ振り向くけれど、誰もいなかった。
「……父さん、女の子見なかった?」
「いや…お前一人だけだったよ」
「……」
りさは放心したが、彼女が無事でありますようにと祈った。
ー私は、彼女を送り届けた後、すぐに屋敷へと帰っていた。やり残したことがあったからだ。
屋敷に帰ると、まず倉庫へ向かった。ズラリと書物が並び、一つの棚へ向かう。
ここに潜入する前に、調査でこの屋敷は以前、穂積がいたと思われるからだ。
そこで、まだ新しく記されている書物がある棚を物色していく。
しかし、どの書物にも穂積のことは記されている証がなく、私は辟易した。
(ここではなかったのか…いや、確かにいたとされている情報は入っていた…だが……)
私は、これ以上探しても収穫はないと判断したため、仕方なく諦める。
書物を片付け、倉庫を出ようとした途端…。
外から、ひそひそと声が聞こえた。
「!」
私は、素早く書物の棚に隠れた。声は近付いてきて、倉庫の前へと二つの影が立ち止まる。
私は、息を潜め外にいる誰かの声を聞いた。
「…殿が何者かに殺された」
「ああ。だったら、俺たちはもういいんじゃない?」
「…いや、まだ調べよう。誰が、殺したのか」
青年の低い声で、慎重に話している様子が聞こえる。
(もう死んだのか)
私は、二人の会話から確定する。
「……じゃあ、君は屋敷内をもう一度見てきてくれ。俺は、倉庫で調べることがある」
一人の青年が、すっと倉庫の襖を開ける。私は、さらに奥へと移動した。
「はいはい」
もう一人の青年は、適当な相づちを打ってから離れていく。
倉庫へ入ってきた青年は、倉庫の襖をパタンと閉め、手前にある棚の前で書物を物色していた。
私は、そうっと物影から青年の横顔を見た。
「……!」
私は、思わず声を上げそうになった。青年は穂積だったからだ。間違いない。私の中の記憶よりかは、精悍な顔立ちになり男らしく成長している。暗闇で分からないが、穂積の横顔は月明かりで照らされ、いくらかやつれたように見える。しかし、体つきは細身でありながらも、しっかりとした無駄のない筋肉があるのは分かる。私よりは、頭一つ分背があるが、しなやかで書物をめくる動作もゆったりとしている。髪は短いが、前髪はサラっとしており穏やかな目元を隠している。
(穂積……)
私は、思いきって穂積の前へ姿を表そうとしたが、何故か体が動かなかった。ただ、心臓が狂ったようにバクバクと動いている。
「穂積、何も問題なかったよ」
屋敷内を確認してきた青年が、倉庫の中へと足を踏み入れる。
「…ああ。こちらも収穫はない」
「じゃあ、もう帰ろうよ」
「……悪いが、先帰って主に報告してくれ。俺は、まだやり残したことがある」
「…はあ?何それ」
「いいから」
穂積が強く言うと、もう一人の青年は怖じ気付かずに、はいはいと返事をし出て行く。
「……千早」
ードキン…穂積が私の名を呼び、私の心臓は一層暴れる。
(え?気付いていた?)
「千早、いるのだろう?」
穂積の足音が、こちらへ近付いてきた。最奥の棚に隠れている私の側で立ち止まり、片手を棚に掛け顔を覗かせる。
私は、眼前にある精悍な顔に目を丸くし、体を縮込ませた。
「穂積……」
「ふ…久しぶり、千早。もう四年か?大きくなったな」
穂積は、私を見て柔らかく笑った。
「…うん」
「…どうした?具合が悪い?」
穂積は私に片手を伸ばすが…。私は、ビクッと体を跳ねさせ後ずさり、背中が壁にあたる。
気まずい沈黙が漂い、私は後悔する。
「あの…ほづ…」
「ごめん…今さらだよな…それより、何で千早がここにいるんだ?」
穂積は一瞬傷ついたような顔をしたが、すぐに真顔に変わった。
「……任務で」
「任務?…じゃあ、ここの殿を殺したのは君か?」
穂積の声は穏やかではあったが、どこか逆らえないような迫力があった。私はこくんと頷く。
「……」
また妙な沈黙が漂い、私は穂積を見上げる。すると、穂積は難しい表情を浮かべ、眉間にしわを寄せていた。
「…穂積?」
「…千早。俺は君の手を汚したくないために…これじゃあ、何のために…」
穂積は表情を変えずに、一人言を言っている。
「穂積!」
私は穂積が怖くなり、強く名を呼ぶ。すると、驚いたように穂積が私を見下ろす。
「それどういう意味?私に殺しをやってもらいたくないために、穂積は姿を消したの?私はそんなこと望んでいなかった!」
私は、捲し立てるように一気に話す。穂積は衝撃を受けたような、表情になっている。
「千早…」
「私…穂積が私のこと嫌いになって、いなくなったんだって思っていたから…だから…」
「違う!」
穂積がいきなり、声を荒げて叫んだ。私は、ビクッと体を揺らし穂積を見上げる。
「ごめん。でも、それは断じて違う。千早のことを嫌いになったりなんかあり得ない。むしろ…」
「え?」
「……もうよそう、この話は終わり。それよりも、もう二度と殺しはやらないで。俺は、君に手を汚させたくない」
「…それは…」
「頼む。これは、お願いじゃなく命令だ」
穂積は私に一歩近付き、私の二の腕を掴む。一気に距離が縮まり、逃げようも背後に壁があり逃げれない。そんな私の緊張にも、穂積は気付いていないのか真顔で、私の瞳を覗き込んでいる。
「っ離して…」
私が身をよじると、穂積は、はっとしたようにパッと手を離す。
「ごめん」
離してくれたが、距離は近いままで、私は顔を俯かせていた。再び気まずい沈黙が漂い、お互い無言になる。
すると、穂積の大きな片手が私の頭に、ポンっと置かれ撫でられる。私は、驚き顔を上げた。
「あ…ごめん。つい…」
穂積は私のきょとんとした顔を見ると、顔を赤らめ、すっと手を退けて顔を背けた。
片手を自身の口元を覆い、眉は困ったように下がっている。私は、穂積の表情に何故か、温かい感情が流れ込んできたのを感じた。
「…ふふ……変なの」
私が少し笑うと、穂積が私の顔を凝視する。
「穂積?なに?」
「いや…千早は笑った顔の方が良いと思っただけ。君が笑顔でいれるのなら、俺は何でもするよ」
穂積の顔はまだ赤いが、目元は優しく細めて私を見詰める。今度は、私がかあっと顔を赤らめた。
「っ…」
私たちは離れがたく、薄暗い倉庫の中で動かなかった。否、動けなかった。というのも、穂積が棚の間に体を入れているから、私は穂積と壁に挟まれる形になっていたのだ。
しかし、穂積は退く気配がなく、私は体を縮込ませていた。
「…そろそろ行くかな…名残惜しいけど、君に会えて良かった。千早」
穂積は私の頬に片手を添え、指先で撫でる。その優しい仕草に、私はぎゅっと心臓を掴まれたように苦しくなる。
「もう行くの?」
「……千早、そんな顔をしないで。離れがたくなる…」
「穂積?」
穂積は何かを耐えるように、眉間にしわを寄せ、私の目元をそっと撫でる。
「…じゃあ、千早。気を付けて帰るんだよ。ここでお別れだ」
「穂積!また…また会えるよね?」
私は、距離を空け片手をすっと退けた、穂積の腕を両手で掴む。
「……それは分からない…今日だって偶然会ったからね。次は、会わないかもしれない」
「いや!せめて、今何をしているのか教えて!私、ずっと穂積に会いたかったの……会いたかったのよ…」
「千早…今度からは、もう俺のことは探さないで。俺の存在も忘れて」
穂積は体を横向け、私の顔を見下ろしている。
「忘れるなんて…そんなのできない…私…」
私は、駄々っ子のように首を横に振り、穂積を困らせる。
「千早、聞き分けてくれ。いい子だから」
穂積は、そんな私に優しく諭し、掴まれていない方の手で私の頭を撫でる。
「っ!やっぱり穂積は、私を捨てたのでしょう?だから、いなくなったのでしょう?私のことが面倒になったのでしょう?穂積は…」
「千早!」
その続きは言えなかった。なぜなら、穂積が私を力強くぎゅっと抱き締めたからだ。肩と腰に穂積のたくましい腕が、私を抱き寄せ、耳元には穂積の息づかいが感じられた。
私は、何が起きたのか理解できず、されるがままになっていた。
「いい加減にしてくれ、千早。俺を困らせるな」
「…困らせているのは穂積でしょう…」
私は、ぎゅうっと穂積の胸元の着物を握りしめた。穂積の体がピクッと動いたが、やがて私を離す。
「…千早、いつから反抗期になった?昔は素直に俺の言うことを、聞いていただろう?」
「穂積のせいでしょう!」
私が反論すると、穂積は面食らったように目を見開く。
「まいったな……君を置いて一人にさせたことは、本当に心残りだった。君を忘れたことなんか、一日もなかった。毎日想っていたよ…」
「私もよ!毎日穂積を、思っていた!」
「……君のおもいは、身内のようなおもいだろう。俺のおもいとは違う」
「……穂積のおもいは何なの?」
「………言わない。とにかく、もう帰るんだよ。お殿様が心配する」
穂積は複雑そうな表情を浮かべるが、私には理解できなかった。
「それなら、穂積も一緒に帰りましょう」
「ダメだ。それに、お殿様に俺に会ったことは、決して言ってはいけない。いいね?」
「何故?」
「理由は聞かないで。じゃあ、気を付けて帰るんだよ」
穂積は名残惜しげに、私の頭を撫で、振り切るように素早く私から離れた。
「あ、穂積!」
私が叫んでも、穂積はあっという間に倉庫から出て行った。私は、しばらく呆然としどうやってお屋敷に帰ったのか、覚えていなかった。
ー「あの子が大切なら、目を離さなければいいのに。穂積も頑固だね」
「…帰っていなかったのか」
穂積が千早を、お屋敷まで無事に帰れるか物影から見ていると、もう帰っていると思っていた青年が、穂積の背後から声を掛けてきた。
「お前が、感情をむき出しにするなんて初めてじゃないかと思ったからね。彼女がお前の想い人か。可愛いじゃん」
ギロリー
穂積の穏やかな目元が、恐ろしく変わり青年を睨む。
「おーおー。怖い怖い。心配しなくても手、出さないよ」
「当たり前だ」
穂積はそっぽを向く。
(ふうん?こいつがここまで感情をむき出しにするなんてな…面白いことになりそうだ)
青年はにやりと笑った。