Smile (前編)
チェスターとジルが結婚する少し前の話。
「Smile」
あなただけは信じてください。
怒りや憎しみや悲しみは、幸せの後遺症です。
笑顔で救うのです。
笑顔を大切に 笑顔を大切に。
美しい笑顔を大切に
(smile/ザ・イエロー・モンキーより)
(1)
ボーダーコリーの子犬を抱きかかえながら、写真に納まる幼いジルは無邪気に笑っている。これは六、七歳の頃に、親戚の経営する牧場に家族で遊びに行った時のものだ。
(……そう言えば、こんな時もあったわね……)
仕事からアパートの部屋に戻り、郵便受けを開けると母からの手紙と共にこの写真が同封されていた。写真を見るまでは、牧場に行ったことなど、すっかり忘れていたのだが。
いつから自分は笑顔を人に見せなくなったのだろうか。
ジルは滅多に笑ったりしない。笑ったとしても、鼻で笑うような嘲笑か、口角を僅かに緩める程度だ。
そんな彼女は、鷲鼻と鋭い三白眼が特徴的なきつい顔立ちの美人ということや、愛想がなくぶっきらぼうな態度と口調も相まって、「冷たい女」だと口さがなく言われることがしばしばあったし、過去に付き合っていた男達から「せっかく美人なんだから、もう少し笑えよ」と度々、忠告を受けたものだった。
一方で、「一筋縄じゃいかない強さと、どこか謎めいた魅力がある」と称賛する者もいる。
どちらにせよ、ジルからしたら取るに足らない、どうでもいいことだった。笑おうが笑うまいが自分は自分で、人からどうこう言われようと知ったことではないと思っていた。
突然、扉を叩く音がした。
今は夜の二十一時半を回っている。こんな時間に、一人暮らしの若い女の部屋を予告もなく訪ねてくるなんて、不審者や強盗の可能性も無きにしも非ずだ。ジルは、恐る恐る扉の覗き穴から訪問者の姿を確認すると、ゆっくり扉を開けた。
そこには彼女の婚約者、チェスターがいたのだった。
「……どうしたのよ、こんな時間に」
驚くジルに対し、チェスターは気まずそうにしながら言った。
「フレッドに家から閉め出された」
「……はぁ??……」
フレッドは、チェスターの十一歳になる長男だが、別れた前妻アビゲイルの連れ子で彼とは血が繋がっていない。しかし、チェスターは実の子のマシュー同様に、フレッドを大切に育てていた。
「……言っている意味が分からないわ……。どういうことよ……」
親が粗相をした子供を罰として閉め出すならともかく、子供が親を閉め出すなんて聞いたことがない。
「……とりあえず、部屋に上がって。話はそれから聞くわ……」
「……悪い、助かる」
チェスターはジルに向かって大袈裟に頭を下げると、申し訳なさそうに大きな身体を縮こませながら中に入った。
ジルはチェスターにベッドの脇に座るよう促す。ジルの部屋には椅子がないので、座る場所がそこしかないからだ。チェスターは遠慮がちに座る。
しばらくして、二人分のカップを持ったジルが彼の隣に座った。
ジルはチェスターにカップを手渡す。
チェスターは「ありがとう。気を遣わせてすまん」と言って受け取り、紅茶を口に含んだ。
「……やっぱり、お前の入れたお茶を飲むとホッとするな……」
「……どういたしまして。……それより、何でフレッドに閉め出しくらったの??」
以下が、チェスターの話だ。
ここ三週間程、チェスターは出張仕事ばかりが続き、家に帰る時間もいつもより遅かった。今日も出張仕事で遅くなり、家に帰ったのは二十一時近くだった。当然、すでに玄関の鍵は掛けられている。
ちなみに、チェスターは仕事の時に家の鍵を持ち歩かない。
どんなに多忙であっても、家族が起きている時間までには仕事を片付けて必ず家に帰る、と決めているからだ。
帰った時に鍵が掛かっていても、家族が起きていれば誰かが開けてくれる。最低でも、家族全員に「ただいま」と「おやすみ」の挨拶くらいはちゃんと言いたい。それは、忙しい彼なりの家族への愛情表現の一つだった。
ところが、いつもなら玄関の呼び鈴を鳴らせば、母かフレッドが鍵を開けに来てくれるはずなのに、今日に限って誰も開けに来ない。二人が寝る時間にしてはまだ早いし、どうしたもんか、と、何度も何度も呼び鈴を鳴らすも変化はない。
さすがのチェスターも業を煮やし、「おい、フレッド!母さん!起きてるんだろ?!何やってんだよ!!鍵開けてくれよ!!」と、扉をガンガン叩いて大声を出したところ、ようやくフレッドが玄関に姿を現したのだ。
しかし、フレッドは鍵を開けてくれるどころか、扉越しに信じられない言葉をチェスターに言い放ったのだ。
「父さん、夜なのにそんな大きな声出さないでよ。煩いし、近所迷惑だ」
「……ちょっと待てよ、フレッド。お前何言ってんだ。人が仕事で疲れて帰ってきたってのに、その言い草は何なんだ。よし、とっとと鍵開けろ」
「えっ、嫌だよ」
「怒られるようなことしているお前が悪いんだ。早く開けろ。でないと、本気で怒るぞ」
「嫌だ」
「……お前っ……」
玄関先であるにも関わらず、チェスターがフレッドを思い切り怒鳴りつけようとした時だった。
「父さん、明日仕事休みなんだろ??ジルさんとこに行ってきなよ。ここのところ、ずっと会ってないよね??」
確かにこの三週間、チェスターはジルと会っていない。
チェスター自身が仕事に忙殺されていたこともあったが、ジルも絵画モデルの仕事が立て込んでいて、オールドマン家に訪れる暇がなかったのだ。
特に、チェスターとの結婚が決まったことを機に、ジルはモデルの仕事を辞めることにしたため、顧客の画家達がこぞって彼女の絵を描きたいと依頼してきたのだ。
意表を突かれて言葉を失うチェスターに、フレッドは尚も続ける。
「祖母ちゃんには俺の方から上手く言っておくし、マシューも寝かしつけておくよ。父さん、最近すごく疲れてイライラしてるみたいだし、たまにはジルさんに甘えてきたら??だから、朝まで帰ってこなくていいよ。帰ってきても、家には入れないから」
と言うことで、フレッドがどうしてもチェスターを家に入れようとしてくれなかったので、やむなくジルの部屋まで来たという。
「……馬鹿じゃないの……」
一通り話を聞いたジルは、盛大に溜め息をつく。
「……すまん……」
「……違う、貴方じゃない。フレッドのことを言ってるのよ。本当にあの子は、余計な気を回すわね……。朝まで帰ってこなくていい、なんて、ませてるにも程があるわ……」
「全くだ。一体、どこで覚えたんだか……。意味分かってんだろうか」
「あの子のことだから、絶対分かって言ってるに決まってる」
「だろうな……」
早熟な息子に、チェスターは複雑そうな顔をする。
彼はジルより十一歳年上で三十四歳なのだが、精悍さの入り混じった端正な顔立ちと快活な明るい性格に加えて、美容師という職業柄、外見にも気を遣っているので実年齢より若く見える。が、やはり疲れが溜まっているのか、今日はいつもより顔が老けこんで見える。
「……チェスター、随分と疲れてるようだけど、大丈夫なの??」
「今のところは大丈夫だ」
「……そう。でも、今日は早めに休んだ方がいいわ。貴方は働いてばかりいるんだから、たまにはちゃんと身体を休めてよ」「……そうだな。じゃあ、お言葉に甘えて休ませてもらってもいいか??」
そう言うと、チェスターはジルの膝に頭を乗せて、仰向けでベッドに横たわった。
「……ちょっと!!」
「休んでいいって言ったじゃないか」
「……誰が膝枕で休んでいい、って言ったのよ……」
「別に良いだろ。減るもんじゃないし」
ジルはまだ何か言い返そうとしたが、何だか面倒になってきたので黙ることにした。
代わりに、チェスターのサラサラとしたプラチナブロンドの髪を指で軽く梳いた。少し前までチェスターの髪は鎖骨までの長さがあり、いつもハーフアップに結っていた。しかし今は、段がついていて長めではあるものの、短髪に変わっている。
「……少し痩せた??」
ジルは、チェスターの頬を撫でる。頬が少し扱けた様な気がする。
「かもしれん」
「貴方、ちょっと働き過ぎよ。ちゃんと食べたり寝たりしてる??仕事熱心なのは分かるけど、倒れては元も子もないわ」
「仕方ないだろ。俺の働き如何で、家族だけじゃなく従業員達の生活が掛かってくるんだ。あいつらを路頭に迷わせる訳には行かない」
「……それはそうだけど……。……でも、何でもかんでも一人で抱え込み過ぎなのよ。貴方の悪い癖だわ」
「…………」
「…………もしかして、父の言葉を気にしてるの??…………」
結婚の承諾を得るために二人でジルの実家に訪れた時だった。何とか了承は得られたものの、彼女の父から「美容師なんてチャラチャラした、水商売みたいな仕事している上に、二人も子供がいるのに離婚なんかするろくでなし」と詰られたのだ。
「……お前の親父さんのことは関係ない。ただ、相手が誰だろうと、俺自身が人にろくでなしと思われることが嫌なだけなんだ。俺の親父と同類になりたくないからな」
チェスターの父は、俗に言う「髪結いの亭主」そのものだった。
かつては美容師だったようで、同じ店で働いていたことが縁で母と結婚し、チェスターが生まれた。
ところが、腕は良いものの堪え性がなく、ちょっとでも店の人間や仕事の方針が合わないと思うとすぐに辞めてしまう。新しい場所で働き始めても、気に入らないことがあれば、またすぐに辞める、それを何度も何度も繰り返すうちに、とうとう仕事すら就かなくなり、母の稼ぎを頼りに家の中で一日中ごろごろしたり、時々賭博に興じたりしていたという。
それでも、面倒見の良いチェスターの母は夫を見捨てることなく、女手一つで家庭を支え、同時に自分の店を持つまでになった。
しかし、父はそんな母の苦労を顧みないどころか、平気で踏みにじった。何と彼は、若い女と浮気をしたのだ。
これには、さすがのチェスターの母も堪忍袋の緒が切れ、店が軌道に乗り始めたこともあり、チェスターが七歳の時、遂に父を家から追い出して離婚に踏み切った。
「……いつも明るくて気丈な母さんが『チェスター、お父さんなんか、もういらないわよね??』と、涙ながらに俺に訴えかけてきた姿は一生忘れない。その時、幼いなりに母さんに誓ったんだよ。『お母さん、僕は絶対にお父さんみたいにはならない。お父さんの代わりに、お母さんを守ってあげる。だから、泣かないで』ってね」
その話を聞いた時、なぜチェスターがあそこまで自分より他人のことばかりを優先する、底抜けに人の好い男なのかということを、ジルは初めて理解できた。
父みたいなろくでなしになりたくないという強い思いと、母を始め、自分の周りにいる人々には、例え自分の気持ちを殺してでも幸せでいて欲しいという優しさ故だと。血の繋がりがないだけでなく、妻を奪った憎い男の子供であるはずのフレッドに対して、父親としての姿勢を崩さないのは、おそらく自分自身の境遇と重ねている部分があってのことだろう。
(……それにしたって、どこまで包容力のある人なのかしら)
でも、だからこそ、ジルは彼に惹かれたし、彼こそ、最も幸せになるべき人間だと常に思うのだ。
「……ねぇ。チェスター。貴方はろくでなしどころか、聖人君子と言っていいくらい、立派な人よ。貴方程、他人のことを思いやれる人、少なくとも私は知らないわ」
「聖人君子??いくらなんでも、それは言い過ぎだ」
「そんなことない」
「ジル、俺を買いかぶり過ぎだ」
これ以上、この話題を続けるのは口喧嘩に発展しかねないと判断した二人はお互いに口を閉ざした。
再び、ジルはチェスターの髪を細い指先で弄る。
しばらくそうしていたら、チェスターが声を掛けてきた。
「そこのテーブルの上の写真……、あれは子供の頃のお前か??」
「……そうだけど」
「見せてもらっても良いか??」
ジルは写真をチェスターに渡す。彼はしばらくの間、無言で写真をじっと見つめていた。「お前も、こんな風に笑っていたことがあるんだな」
「……そうみたいね」
まるで他人事のようにジルは素っ気なく答える。
チェスターも、かつて付き合っていた男達みたいに「もう少し笑えばいいのに」と言うのだろうか。ジルは思わず、身構える。
「少し、安心した」
彼の口から出てきたのは、思いがけない言葉だった。
「お前が子供の頃、ちゃんと笑うことが出来ていたんだと。ひょっとしたら、笑うことを知らずに育ってきたんじゃないかと思っていたから」
「……チェスターは……、私に、もっと笑えばいいのに、って言わないのね……」
「言って欲しいのか??」
「……そう言う訳じゃ……」
「そりゃまぁ、俺だってジルの笑顔は見たい。だけど、誰しもが素直に笑うことが出来るわけじゃないし、出来ないのはそれなりに理由がある。そこを捻じ曲げてまで、無理矢理笑ったところで苦しいだけだろ。だから、俺はお前が心からの笑顔を見せてくれるのを気長に待つよ。俺達はこれから夫婦になって、ずっと一緒にいることになるんだから、少なくとも死ぬまでに一回くらいは機会があるだろ……って、唇切るぞ……」
ジルは顔を俯かせて唇を噛んでいる。
ジルだって、笑いたくなくて笑わないのではない。
自分でもどうしてだか分からないが、いざ笑おうと思っても上手く表情が作れないのだ。モデルの仕事の時は仕事だと完全に割り切れるからか、いくらでも笑顔を作れたが、素に戻ると途端に笑えなくなる。
笑えと言われれば言われるほど、余計に。
そんな不器用な自分をこんなにも理解し、受け止めてくれたのはチェスターが初めてだ。
嬉しいのと照れ臭いのとで、ジルはチェスターの顔を正視することができない。
そんなジルの気持ちを汲み取ったのか、彼は寝ころびながら、肩を竦めた。
「ただ、俺がよぼよぼの惚けた爺さんになるまでには、笑ってくれよ」
「そればっかりは、何とも保証できないわね」
ジルはわざと、意地悪そうに口元を捻じ曲げる。
「やれやれ、困った未来の嫁だな」
「選んだのはあんたでしょ」
「はいはい、そうでしたね」
今度はチェスターが、ジルの亜麻色の髪に触れる。
髪を短くしたチェスターとは反対に、今までずっと肩先に掛からないボブカットだったジルの髪は、鎖骨辺りまで伸びていた。
「伸びたな。これなら、結婚式の時に髪を結える」
「貴方はどうするの??」
「式の前に、また少し切ろうと思う。フレッドに言われたよ。『いくら若く見られたいからって、式の時くらいは落ち着いた感じにしなよ』と」
「同感だわ」
「お前なぁ……」
呆れながらジルの顔を見たチェスターはハッとする。
ジルが、はにかんだように穏やかな笑顔を浮かべていたのだ。
それはチェスターの想像以上に美しく、彼は少しの間、見惚れていた。
「……何よ」
ジルはすぐにいつもの不機嫌そうな顔に戻ってしまったが、彼女の笑顔はチェスターの脳裏にしっかりと焼き付いてしまい、彼はずっと忘れることができなくなったのだった。
(2)
「もうっ!!部屋から出てって言ってるじゃない!!」
フィオナの泣き声と共にスカーレットの大きな声が客間から聞こえ、何事かと思ったジルとチェスターが部屋の前まで飛んでいくと、丁度、フレッドが客間から閉め出されているところだった。
「……フレッド、スカーレットに何したのよ」
ジルが厳しい顔つきで問い質すと、フレッドは質問に答えず、代わりにふいっと顔を背ける。
「俺が当ててやろうか。フィオナに授乳するところを恥ずかしいから見られたくない、とスカーレットが言うにも関わらず、お前が部屋から出ようとしなくて怒られたんだろ??」
「…………」
「当たりだろ??」
チェスターは、勝ち誇ったように不敵に笑う。
「俺も昔、お前と同じことをしてジルを怒らせたことがあるんだよ」
「……あんた達……、そういうところだけは似てるわね……」
ジルは、夫と息子それぞれに対し、冷たい視線を浴びせる。
「まぁ、スカーレットは誰かさんと違って優しいから、授乳が終われば部屋に入れてくれるだろ。大人しくこのまま待ってりゃいいんじゃないのか??」
「……チェスター、私に喧嘩売ってるの??」
「……こんなところで夫婦喧嘩するなよ。スカーレットが気にする」
ジルの機嫌が悪くなりつつあるのを察したフレッドが、間に入る。
そうこうしている内に、再びスカーレットが部屋から顔を出す。
「アルフレッド、終わったからもう入ってきていいわよ……って、わっ!何で、お義父さんとお義母さんまでいるんですか?!」
「……お前が大きな声出すからだろうが……」
「あわわ……、変な気を遣わせてごめんなさい……」
スカーレットは、申し訳なさそうにジルとチェスターに向かって、ぺこぺこと頭を下げる。
「いいのよ、スカーレットは気にしなくて。悪いのはフレッドなんだから」
「あのなぁ……」
「ほら、許可降りたんだから、さっさと中に入りなさいよ」
ジルはフレッドに向けて、しっしっと手で払う仕草をし、ムッとした表情を浮かべながらフレッドはスカーレットと共に部屋の中へ入って行った。
「完全にスカーレットの尻に敷かれてるぞ、フレッドの奴め」
チェスターは、二人の様子にニヤニヤした笑みを浮かべ、ジルはクスクスと笑ったのだった。
「お前も昔と比べて、よく笑うようになったな」
「……まぁね。二十年近くこの家で暮らしていれば、自然とそうなるわね」
相変わらず、すぐに鉄面皮に戻ってしまうものの、現在のジルは笑顔を浮かべるだけでなく、今みたいに声を立てて笑うこともあった。
(……これも全て、家族のお蔭ね……)
口に出せば、チェスターが調子づいたことを言い出し兼ねないし、そうなると正直鬱陶しいので黙っていたが、彼を始めとするオールドマン家の人々には感謝してもしきれることはない。同時に、チェスターも自分と同じように家族に癒され、幸せを感じられていればいいなと、ジルはいつも願っていたのだった。
(終)