秘密の花園
そこに行くには650円かかる。
少し散り始めた桜並木の道を、バスは琴美と数人の客を乗せて、上り坂を登っていく。
一人降り、二人降り、山道を走るバスの中は、琴美と運転手だけになった。
曇り空の夕方は、うすら寒く、琴美はだんだん、暗くなる山頂を見上げて、
少し心細くなった。
山頂の少し手前に、古ぼけた病院があった。
琴美が初めてここに来たとき、ノルウェイの森を思い浮かべた。
現実には全然違うが、運転手のほうも、理由がわかっているから、
無言の信頼感で、山道のカーブを上手に曲がる。
一車線しかないから、上から車が降りてきたら、大変だ。
そんな細い木々に覆われた道を通って、バスは、「秘密の花園」バス停に着いた。
時計は、4時半を指していた。
ここから、少し、徒歩で登らなきゃいけない。
「ありがとうございました」丁寧にお礼を言って、琴美はバスを降りた。
運転手は、眼鏡を拭きながら、営業スマイルで、「お気をつけて」とだけ答えた。
山の中にも、数軒の家や畑がある。
限界集落だろうか。
自動販売機で、温かいお茶を買っているときに、今降りたバスが、町へ帰る便に乗る、
地元のおじいさんと高校生が、待っている姿を目にした。
ああ、そうか、今日は土曜日だった。
おじいさんは町の人だろうか、高校生は町で羽を伸ばすのだろうか。
こんなところに、スーツ姿で立っている琴美を見ても、みんな事情を知っているらしく、変な視線を送ることもなく、その自然さが、少し苛立ちを感じ始めた琴美には有難かった。
お茶を飲み干して、体をあたためた琴美は、やっと大きな看板のかかった病院への道を歩き始めた。
15分くらい歩いて、そこに着いた。
土曜日は、閉まっているから、休日用の入り口から入った。
受付の中年のおばさんが、「今日はお泊りですか?」と聞く。
「はい」と答えて、大き目のバッグを握り締めた。
病院の横に、見舞い客用の宿泊施設があった。
看護婦に連れられて、病棟を上った。
中に入ったとき、ガシャリと鍵がかかった。
圧迫感がある。
古ぼけて、薄汚い病室が並んでいる。
看護婦は、部屋の前で立ち止まり、
「8時には、門が閉まりますから」
とだけ言い残して立ち去った。個室の入り口には、「森崎克典」と名札がかけられていた。
琴美は、木製のドアを少し開けた。
うつ病で、寝ているはずの克典。
ハッ。
見てはいけないものを、見てしまった。
ベッドに寝ているのは、克典だけではなかった。
まだぐっと若い20歳くらいの女の子が、並んで二人寝ている。
自分に気づかない克典に、怒りが湧いた。
琴美は中へ入るのをやめて、テレビのある食堂に移って、ぼんやりとテレビをながめていた。
いや、眺めるふりをしていた。
あの女の子は誰?
やはりここは、秘密の花園なの?
14才も年上の自分は、もう用済みってこと?
テーブルにもたれて、いろいろなことが頭を駆け巡った。
私は、これでも雑誌モデルをしている。
二流とまではいかないが、二流レベルながら、この年になっても、
仕事が途切れることはなかった。
2年前に、私が38才、克典が24才という年の差で、結婚した。
克典は、カメラマンだった。
私は、男を追いかけたことはなかった。
その時も、年が離れている、と断っても、しつこく追いかけてきたのは、克典だった。
年下からアプローチされたのは初めてだったから、随分悩んだが、
当時結婚しなかったら、「素敵な奥さんか」モデルとして、今のように仕事はなかっただろう。
私には、計算があったのだ。
もちろん克典はかわいかったけれど。
半年前に、うつ病になって、ここに担ぎ込まれた克典は、人が変わってしまった。
鈍くなったというか、ぼけたのかと思うくらい、反応がない。
私は、先が見えなくなった。
仕事上は、家庭の話は秘密にしていたが、正直、こんな結婚しなければ良かった、と
考え始めている。
6時になって、夕食時間になった。
ここは宿泊する見舞い客にも食事が出る。
待っていると、パジャマ姿の患者たちが、ぞろぞろと食堂に集まってきた。
琴美は、克典を目で追った。来た来た。
さっきの女の子と、手をつないでいる。
この結婚、愛などなかったのだ。
看護婦がささやいて、克典は琴美を見た。
2,3秒目が合ったが、克典のほうから、目をそらした。
離れた席で、食事を終えて、琴美は待っていた。
ずっと待っていた。食べ終えた患者たちが、一人ずつ、自室に戻っていく。
食堂は、30,40分で、人気がなくなった。
ただ、テレビの前だけには、4.5人の患者たちが集まっている。
克典の姿はなかった。
琴美は、一人テーブルについて、残って、暗い山を見つめた。
秘密の花園どころか、ここは墓場ではないのだろうか。
一人の看護婦が、琴美の隣に腰を下ろした。
琴美は、言葉を失いかけていた。
「克典さん、いつも奈々さんと一緒ですよ」
「奈々さんって、あの女の子ですか?」
「そう、まだ大学生なんですけど」
「へえ」
琴美は、口をつぐんだ。
話すことはない。
もう元に戻ることはできないのだわ。
「克典は何て言ってましたか?」
看護婦は黙ってしまった。
「いつまで待っていればいいんでしょうか?」
看護婦は、次の言葉を考えていた。
「奥さん、この病気は長くかかります。それに奈々さんと、克典さんは、離れることは出来るのでしょうか」
話のわかる看護婦さんだと思った。
ここは、フリーセックスなのかしら。
「奈々さんだって、大学に戻らなきゃならないだろうに」
琴美は、しばらく暗い山々を見渡した。
ハッピーエンドなんてありえない、と思った。
「克典をここに呼んできてください」
看護婦は、わかりました、と立ち上がった。
暗い病棟の中に、テレビの音だけがうるさく響いた。
閉ざされた空間。
そこで生まれる愛もあるのだろうか。
随分待たされた。
気づくと、他人の目をした克典が、パジャマ姿で、近づいてきた。
私は、とっさに、床に転げ落ちるかと思った。
テーブルの向かい側に、克典が座った。
あんなに私を愛した克典は、そこにはいなかった。
「帰る気あるの?」
克典は、ボーっとして、琴美を見つめた。
「もう一度聞くけど、帰る気あるの?」
琴美は震えていた。
これで克典が、「ない」と言ったら、すべて終わりだと、
14歳年下の男なんかと結婚して、
当時「やるじゃん」という人より、「がっかりした」という人のほうが多かった。
「あんたなら、他にいくらでもいるでしょうに、なんで14歳年下なのよ」
親友に言われた言葉が、今でも浮かんでくる。
今わかったけれど、克典に愛される自分を愛していたのかもしれない。愛などなく、単なる行為だったと。
自分がこんなに馬鹿だとはと思わなかった。
体だけの付き合いを、続けていたのだろうか。
病気じゃなかったら、続いていたのだろうか。
「やるじゃん」と言われて、のぼせていた。
単に、体だけの付き合いだったのだ。
若い男に、初めて口説かれて、思い上がっていた。
嘲笑が聞こえてきそうだ。
素敵な奥さんのモデル仲間の何人の顔が浮かんだ。
嘲笑、嘲笑、嘲笑。
耐えられない。
「離婚届送るから」
と言おうとしたら、克典のほうが早かった。
「来週、奈々さんと、ここで式を挙げる」
どういうこと?
結婚もしていないのに、式を挙げるって、ここは治外法権なのか。
この病院、おかしいんじゃないのだろうか。
「奈々さんって、どんな病気なの?」
「いろいろ混ざってて、よくわからない。気が合うんだ」
「離婚届送るよ、いい?」
克典は、ゆっくりうなづいた。
もうすぐ8時だ。
通りかかった看護婦に、琴美が言った。
「バスもうないんですよね?」
「そうですね、最後のバスは、6時半ですから」
「あの泊まる予定で来たんですけれど、タクシーないのかしら?どうしても帰りたいの」
看護婦は、聞いてきます、と行ってしまった。
克典のそばに、奈々が来た。
21歳だそうだ。
一重の目に、おかっぱの髪。
栗色の髪は、色が随分落ちている。
「奥さん?」
奈々が、克典に聞いた。
うなづく克典。
そうかアイコンタクトできる仲なんだ。
「こんばんは」
琴美は、奈々に言葉をかけた。
くすくすっと笑って、奈々は琴美を見た。
「ここにも、あなたの雑誌があった。くすくす(笑)素敵な奥さん、くすくす(笑)」
奈々は、笑いながら、頭を下げて行ってしまった。
さっきの看護婦が来た。
「近くに一台タクシーさんいるんですけど。駄目だって。お酒飲んだって。
あ、うちのスタッフが、もうすぐ山降りるんですけれど、良かったら、乗っていきませんか?」
琴美は、俄然勇気が湧いてきた。
「それ、お願いします、下まででいいですから」
克典は、別れ際に、「迷惑かけて、ごめん」とだけ言った。
30歳くらいだろうか、男性スタッフの車は、マーチだった。
「助手席にどうぞ」
信用できそうな白石と名乗るスタッフの車に同乗した。
真っ暗な山道を降りていく。
何もしゃべらないのも具合が悪いので、琴美は口を開いた。
「本当に、秘密の花園なのね、あの病院」
「療養プログラムなんですけど」
「フリーセックスも?」
「そんなにはっきり言わないでください」
白石は、困った顔をした。
乗る時は元気だったのに、次第に悲しくなってきた。
「病気は、人を変えますね」
「待っているのも、別れるのも、どちらもつらいですね。一生続くものですから」
クライ山道は、1時間ばかし続く。
結婚などしなければ良かった。
克典もかわいそうだけど、自分もかわいそう、かわいそうな私。
自己中心的な結婚だった・
40歳にもなって、本当の愛を知らない。
嘲笑、嘲笑、嘲笑。
目に見えるようだ。
このまま山道が続けばいいのに。
明日なんて来なければいい。
あの女たちに笑われるのが目に浮かぶ。
カーラジオをつけた。
合唱コンクール特集が流れた。
♪いつまでも絶えることなどない、友達でいよう、
今日の日はさようなら、また会う日まで♪
琴美は泣いた。
また会う日まで克典。
遠くに町の明かりが見えた。
琴美は、ハンカチで目頭を押さえた。
白石は黙ったままだった。
終わり
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