阿吽の呪い ~ことはじめ~
もうずっと前の話になるだろうが、あるいは、つい最近の出来事のような気もする。
どんなに衝撃的な夢を見ても、目覚めた瞬間から急速にその輪郭が失われていくのと同様に、僕があの夏に体験したであろう出来事も、今となっては遠い夢物語である。いや、あれは現実などではなく、ただ己の眠りの中に見た長い長い悪夢そのものだったんじゃないか?と、何百、何千、何万回も反芻した。しかし、その度に、僕は揺るぎない結論に導かれてしまう。あれは現実に起きた。
なぜなら、僕は今でも時おり、"悪夢の実体験"の延長線上にあるとしか言い様の出来ないような後遺症に苦しめられているのだから。
そう、眠りの中に見る悪夢は後に引きずる事は無いのである。
この春に住み慣れた街を離れ、祖父母が暮らす母さんの実家に引っ越すことになった。僕は高校生になる。母さんとしては、生まれ育った地元の、親元に舞い戻ってきた形だ。5才の時に両親が離婚してから、僕は母さんと二人で暮らしてきた。いわゆる母子家庭だ。本当は兄弟がほしかった。できれば年下の、妹か弟がいい。父親は暴力的な人だったが、母さんは優しく、欲しいと言えば何でも買ってくれた。離婚してからは、それまで以上に優しくなった。でも、僕は幼い頃から欲の少ない子だったという。幼少期の母さんとの会話で、ぼんやりと覚えている事がある。冬になると、母さんがこう聞くのだ。
「欲しい物は何?」
僕は答える。
「うーん、なんにも」
「何でもいいから、言ってみなさい」
「じゃあ…いもおとか、おとおと」
それに対して、母さんがなんと答えたかまでは覚えていない。だが、思い浮かぶのは決まってとても悲しそうな母さんの横顔である。僕はこの記憶が暗示するように、心に闇を抱えた内向的な少年に成長した。その闇の奥にはなぜか、もう一人の自分がいて、そいつはとても明るいやつで、現実の自分とは正反対。いつしかそんな空想を抱くようになっていた。
後になって、その空想が真実に裏打ちされたものだったと思い知らされる。小学校の卒業を間近に控えた年末年始だったと思うが、祖父母の住む実家に滞在中、おばあちゃんが母さんとの会話の中でうっかり口を滑らせてしまった。その内容はあまりに衝撃的で、重たいものだった。
僕には生まれた時、兄弟がいたということを。双子の兄弟だったらしい。自分が兄で、弟は生まれて間もなく病気で息を引き取った。原因はよく分かっておらず、弟はまるで眠るように亡くなったというのだ。
当然だが、僕の記憶には弟の存在などあるはずもなく、彼が思い出されるわけはない。
しかし、幼少の頃から、僕は別人格の自分ともとれる存在をなんとなく想い描いてきた。双子の弟の存在は潜在的に魂に刻まれていて、本来、自分と共に成長するはずだった弟の姿を、僕は空想の中に見ていたのかもしれない。
僕の手元には今、一冊の日記がある。
引っ越し作業のために一日中家に引きこもり、必要な物はおおかた段ボールに詰め終え、そろそろ日も沈むかという時だった。休憩がてら小中学校の卒業アルバムでも見ようと思い、まずは直近に卒業したばかりの中学の卒業アルバムを開き、少しばかり思い出に浸った。それから、懐かしの小学校の卒業アルバムに手を伸ばした。分厚い表紙を開くと、唐突にそれがするりと落ちてきたのである。なんだ、これは?小学生がよく使う落書き帳で、表紙は子供のパンダの写真。そういえば、小学校の卒業アルバムは久しく見ていないが、卒業アルバムに挟んでおくとは、何か意味があるのだろうか。嫌な予感がした。
それは何月何日何曜日とその日その日の出来事を綴る日記の形をとっていたが、読み進めるうち、ある日を境に、日記はもはや日記の体裁をなくしている事に気づいた。不思議な事に、過去の自分が未来の自分に向けて語りかけているような…これが未来の自分に何を訴える物なのか、すぐに思い当たった。今では遠い夢物語となり記憶の奥底にすっかり埋もれつつあった、あの夏の出来事。ああ、これの後遺症はまだ続いている…
キーンと、魂に直接響くような鋭い耳鳴りがした。
(これ以上読んではいけない)
心の声が聞こえる。
(読みたい、読んでしまいたい)
という声も同時に聞こえる。一度は日記を閉じた。そしてビリビリに破いて捨ててしまおうと強く念じたのだが、何かがそれを思いとどまらせた。
(読みなさい。そうすれば楽になる)
キーンという耳鳴りはいっそう強くなり、僕は思わず両の耳を塞ぐ。しかし、抗えなかった。僕は吸い寄せられるように日記を読み進める。四方八方から洪水のごとく押し寄せる記憶の轟音が、僕を強引にあの夏へと引き戻すのが分かった。
僕の名前は遠山和守。
この春、小学六年生になった。この六年間ずっと、背の順ではいちばん前。みんな、僕のことをチビとかヘンコとか言う。でも、お母さんは言ってくれる。お前は心が大きいんだよ。だから、将来はきっと大物になるよ。
僕は大物になんかなりたくないけど、歌を歌うのが好きなので、歌手になりたい。それが僕の夢だ。音楽の成績はいつもフルテンだった。六年生でも絶対、フルテンをとりたいなあと思う。フルテンというのは、おっちゃんが教えてくれた言葉だ(おっちゃんは、お母さんの新しいカレシなんだ。お父さんじゃあない)。それは、楽器を演奏する時、音をできるだけ大きく鳴らす事なんだって。それをしたら音楽の世界ではすごくカッコイイんだって。それで、成績もいちばんいいのがフルテンなんだって。
僕もいつか、おっちゃんみたいなフルテンの楽器を演奏する歌手になりたい。今は小学生だから、リコーダーでフルテンの音を出す。それで、みんなが和守くんリコーダー上手だねって褒めてくれる。でも、僕は本当は全然満足じゃない。みんなのリコーダーも、僕のリコーダーも、おっちゃんが演奏する楽器みたいな音は出ないからだ。おっちゃんはギターを演奏する。おっちゃんは、フルテンがいちばんカッコイイ楽器はギターだと言う。本当にその通りだと、僕も思う。
僕は四年生の時、おっちゃんの演奏会に行った。ロックっていう音楽の種類で、おっちゃんを含めて三人で演奏していた。おっちゃんはギターを演奏しながら歌を歌っていた。他の二人は、ギターによく似た楽器の人と、太鼓の人がいた。バンドってめちゃくちゃうるさいんだって聞いた事があったけど、実際に聞いたら思ってたよりもめちゃくちゃうるさかったんだ。一緒に観に行った友達のヨシオくんは、耳が痛いと言って、途中でおばちゃんと家に帰ったくらいだ。でも、僕はロックはめちゃくちゃうるさいけど、めちゃくちゃカッコイイなあと思った。演奏会が終わった後、汗だくのおっちゃんがステージから降りてきて、これが本当のフルテンの音だよ、と言った。
僕はそれから、お母さんと一緒によくおっちゃんの家に行くようになった。それで、そのたびにロックのCDを聞かせてくれたし、貸してくれた。おっちゃんの家には山ほどCDが置いてあるんだ。おっちゃんに貸してもらったCDは、外国のロックで、外国の言葉で歌うから何を言ってるか分からないけど、すごくカッコイイ音で演奏してる。ビートルズはメロディーが分かりやすくて、僕は鼻唄ならできる。ローリングなんとかは、満点じゃない事を歌った曲がおっちゃんのお気に入りらしい。おっちゃんはその他にも色々なすごい音楽家の事を教えてくれた。その中でも、おっちゃんがいちばん好きなのはジミ・ヘンドリックスという人らしい。その人はギターをすごい音量のフルテンで鳴らし、めちゃくちゃだけどものすごい上手に演奏し、演奏が終わるとギターを燃やしたらしい。実際にCDを聞いたけど、これを演奏しているのは本当に僕と同じ人間なのか、僕には信じられなかった。
「この人はもしかしたら、神様かもしれないな」
おっちゃんは僕が思った事をそのまま口に出して言ったから、僕はびっくりした。
ロックの話をいっぱいしてくれた以外にも、おっちゃんは好きなものが沢山あって、『ゴジラ』や『スターウォーズ』の映画を見せてくれた。あと、『モスラ』のオモチャも集めてて、おっちゃんは家ではコレクターなんだって。コレクターは、好きなものを沢山集めて家に飾るらしい。僕はあんまり好きなものがないから、コレクターには向いてないと思う。でも、漢字が得意だから、本は学校や図書館でよく読んでる。音楽の次に、漢字が好きなんだ。でも、国語はまだフルテンをとった事がないから悔しい。
僕が五年生になると、僕とお母さんはおっちゃんの家で暮らすようになった。おっちゃんの家にヨシオくんを呼んで、ビートルズの音楽を聞かせたけど、ヨシオくんは好きじゃないって言うんだ。さらに、ジミ・ヘンドリックスの事は、どう考えても下手クソじゃないかと言った。ヨシオくんはジャズというお洒落な音楽が好きらしい。それで悔しくて、学校の他のやつらにも聞いてほしいから、学校におっちゃんのCDを持っていったら、そいつらはラップっていう音楽が好きで、僕が持ってきたおっちゃんのCDを壊したんだ。それで、こう言った。
「キチ*イが聞いてるのは、キ*ガイミュージックって言うんだよ。覚えとけ」
キ**イが何か分からないけど、きっとすごい悪口なんだと思った。僕はとても悲しかった。家に帰って、正直にその事を言ったら、おっちゃんは今まで見た事がないくらい怖い顔になって、僕を蹴ったり殴ったりしたから、昔のお父さんを思い出して僕はとてもとても悲しくなった。でも、悪いのは僕だ。勝手におっちゃんのCDを学校に持って行ったりしたから。
僕は悲しい時、僕の中にいる"もう一人の僕"に話を聞いてもらう。もう一人の僕は、僕によく似た顔で年も同じだけど、僕と違って明るい性格だ。僕はあんまり喋らないし、友達もヨシオくんだけだけど、そいつはよく喋るし、友達も絶対多いと思う。僕はもう一人の僕と夢の中で会って話をするけど、お母さんもヨシオくんも信じてくれない。信じてくれるのはおっちゃんだけだ。おっちゃんは怒ると怖いけど、もう一人の事はよく分かってくれた。"お前はチエオクレだから、もう一人のお前と会えるんだ、他の人には出来ない事だ"と教えてくれた。チエオクレって何だろう?これはいくら聞いても教えてくれなかったけど、もう一人の自分と会って話が出来るんだから、きっとすごい事だと思う。僕の得意な事は、音楽と漢字とチエオクレですと、今日、国語の授業の作文で書いた。先生は大笑いして、ものすごく褒めてくれたよ。
僕が六年生になった事は、最初に言ったと思うけど、これから話す事は、誰にも言ってはいけないよ。君はもう一人の僕だから、特別に教えてあげるね。僕がこの夏、"音の神様"と会った話を。
『阿吽の呪い』本編は次話に続きます。