キッチン鬱之宮 ~茄子~
鬱之宮治五郎は吸血鬼である――。
なんて言えば、なんだか心躍る冒険やシリアスな戦いが始まるようで格好良いけれど、残念ながら、これから始まるのは怪奇譚や冒険譚ではなく、本来語るまでもないような、よくある日常のお話なのだ。
実際、鬱之宮治五郎は吸血鬼ではあるものの、人類から精気を奪うことをひどく嫌う。吸血という、吸血鬼が吸血鬼であるための行為を、頭から否定しているのだ。「他人の血を吸うとかちょっと吾輩、生理的に無理」とは彼の言。
吸血鬼にとって吸血行為、すなわち他人の精気は必要不可欠なものだ。
だが、彼はあくまでも、他人から奪わない。
鬱之宮治五郎を端的に言い表すならば、こうだ。
“断血鬼”
そして、ここから語るのは、僕と彼の日常の一ページ。
あえてキーワードを上げるならば――
――茄子、だろうか。
●
目覚めて、布団から抜け出し、顔を洗い、寝癖を直し、着替えて――と朝の準備を順序良くこなしていく。
だが、窓の外は赤く、もうそろそろ夕方と呼んでもいい頃合いだ。
最近、夏の暑さが頑張りを見せているけれど、さすがにこの時間帯になると多少の涼しさを感じる。
さて、朝の準備ならぬ、夕の準備――そのまんまだ――をして、鏡の前でチェック。よし、と一息ついて、家から出る。
一人暮らしの僕のアパートは、おんぼろではあるけれど、どうせ寝泊りするだけの場所なのだからと割り切って使っている。
自転車を飛ばして20分ほどで、目的地へ到着。
古い、大きな洋館だ。門もある。柵の先端がトランプのスペードマークをしていて、良い雰囲気を出している。具体的には殺人事件とか起こりそうな感じの。もっとも、ここで展開されるのはミステリーではなく妖怪系のホラーだ。全然怖くないけれど。
門のカギは貰っているので、勝手に開けて入る。
庭は家庭菜園になっていて、野菜ごとにきっちりと四角くブロック分けされているのがなんとも面白い。主人の性格がそのまま表れているようで、彼を知っているものからすれば、愉快だ。
その中のひとつ、いくつもの支柱に絡みつくツタのあるブロックに、ハサミやスコップの入ったバケツが放置されているのを、僕は見つけた。
――あそこは、確か茄子の……。
収穫したのだろう。昨日まで確かにあった実はなく、緑のツタと葉だけが残っている。
庭を抜ければ、大きな扉があって、そこもカギを開けて中へ。
がらんとしたメインホールの右の通路をまっすぐいくと、すぐにいい匂いが漂ってくる。
「……チーズ?」
溶けたチーズの特徴的な香りが、鼻孔をくすぐる。
チーズを大量に焼いているのだ。館の主人――鬱之宮治五郎が貯蔵するチーズの種類は膨大だ。中にはスイスやイタリアからわざわざ買い付けたものさえある。そのいずれかを、彼は惜しげもなく使っている――。
いてもたってもいられなくなって、少し小走り気味に目的の部屋――キッチンへと這入る。
そこにいたのは、メガネをかけた神経質そうな表情の青年だ。今日も冴えない顔をしている。
「こんばんは、鬱之宮伯爵」
「こんばんは、涌井君。調子はどうかね?」
「おおむね良好。――伯爵は?」
「ふぅむ、吸血鬼たる吾輩は常に調子など一定であるが、あえて言うならばさっき茄子の収穫のために陽にあたったせいで死にそう」
どうやら絶好調らしい。
「しかし、桶井君。君はどうしてそう……毎日ここへ来るのかね?」
「……ああ、いっそのこと住んでしまえと言うことですか?」
「いや違うが」
違うのか。
「というか、なぜ君は我が居城に入り浸るのかね。雰囲気こそあるものの、内情はただのボロ城であるぞ」
「なぜって、それはもちろん……」
指をさす。その先にあるのは、山と積まれた茄子と――チーズ。
「美味しいご飯が食べられるからですよっ」
伯爵はため息をついて、僕のぶんの皿を用意しはじめた。
「代価は用意してきたかね」
「もちろんですとも」
●
茄子5ミリ幅にスライスして、オリーブオイルで両面を軽く焼く。
オーブンシートを広げた鉄板の上に焼いた茄子を並べて、ケチャップを塗り、細かく切ったベーコンと削ったチーズをのせて、オーブンへ。
漂っていたチーズの良い匂いは、そうして生みだされていたものらしい。
ボロ城と伯爵は言ったけれど、このキッチンだけはボロとはほど遠い。改修に改修を重ねて、最新鋭の調理設備と器具がずらりと並んでいるその部屋は、無気力の権化とも言うべき伯爵、鬱之宮治五郎が全力で資産を投入して作り上げた、彼の本当の城だ。
自殺志願の吸血鬼。彼のことは、そう評するしかないけれど――しかし、それでも、彼は自ら太陽の下に身を投げ出し、その身を焼いて消滅しようとはしない。
彼は。
鬱之宮治五郎伯爵は。
ただ、料理だけを心の拠り所として、生きている。
「――生きている、という表現はよろしくないかな。ね、伯爵。吸血鬼っていうのは、すでに死んでいるものなんですよね?」
「む?」
オーブンの前で、焼かれつつあるチーズ茄子の様子を見ながら、伯爵は生返事をした。
「なんの話かね」
「ああ、いや、やっぱりいいです。……ところで、それ、なんて名前の料理なんですか?」
「これかね? これは茄子ピザだ」
なるほど、スライスした茄子をピザ生地に見立てているのか。
「せっかくの採れたての茄子ではあるが、気持ちがチーズのほうを向いていたのでな。吾輩ってほら、けっこう我慢するの苦手なところがあるだろう?」
「はあ」
「うむ。我慢できずに茄子も全部収穫しちゃったし。この量どうすればいいだろうか」
「ちょっと考えなしすぎませんか……?」
でん、と編みかごに積まれている茄子の量は、軽く見積もっても15本はある。本当にどうするんだこれ。何日かけて消費する気だろうか。
「新鮮なうちに食ってしまいたいし、とりあえず、いま2本ぶんで茄子ピザを作っているわけだが……さて、桶井君。ここでひとつ問題が発生した」
伯爵が、深刻そうに言った。どうせくだらない問題なんだろうなと僕は思った。
「なんですか」
「茄子を大量消費する手段である麻婆茄子だが……茄子ピザと麻婆茄子ってすごく相性が悪いのではないだろうか」
「そんなことだろうと思っていましたよ」
「どうしよう。麻婆茄子を明日に回して、今日のところは違う茄子料理にするしかないだろうか」
お好きにすればよろしいじゃないですか、と言いたかったけれど、そういうことを言うと「なにが食べたいという問いに対して、なんでもいいよって答えるような輩は本当に死ねばいいと思う」と以前一度キレられたので、今日は少し考えてみることにする。
しかし、茄子……茄子か……。
僕はあれだ。味噌汁に入れて、作った次の日の汁が染み込んだ茄子が好きだ。あれだけを求めて、作ったその日は食べないくらいである。
だが、それもチーズには合わないか。だとすれば……。
「あ、あれとかどうですか。ほら、あの、ひき肉系のスパゲッティの、茄子が入ってるやつ」
「茄子入りのボロネーゼかね? ふむ、良い案だ。作ろう。――だが、その前に」
伯爵が、オーブンを開いた。
今まで漂っていた香りが、一気に部屋に充満する。むせかえるような溶けたチーズの香り。
ミトンの手袋をして、伯爵は鉄板を取り出す。
並んでいるのは、とろけたチーズの白と、挟まれたケチャップの赤と、茄子の皮の黒の並びがなんとも可愛らしい、茄子ピザだ。
「今回は、モッツァレラとゴーダを使った。茄子本来の味を潰さぬように、チーズには繊細なバランス調整を」
「美味い!」
「聞けよ」
チーズの塩気と、ケチャップの弾けるような甘さの相性が良いのは誰だって知っている。けれど、この茄子の味わいはなんとも言い難い。
ざくりと歯で噛みきると、じゅわりと茄子から油が溢れ出て、茄子の風味と混ざったそれが最高に美味い。最初にオリーブオイルで焼いたのは、このためか。
「……いや、本当に美味しいですよ、伯爵。もう一個食べていいですか?」
「駄目だと言っても食べるんだろう? ――どれ、吾輩もひとつ」
言って、ひょいと手を伸ばして咀嚼する。うむ、と満足そうにうなずく。神経質そうな顔が、この時ばかりは柔らかく微笑むのだ。
――いいなあ。
そう思う。この人は、この瞬間のために生きているんだろう。この瞬間のためだけに、死なないのだろう。
だから、その微笑みには、彼の全てが詰まっていて、彼の作る料理は、こんなにも心に沁みる。
「――ねえ、伯爵」
「なにかね」
「好きです」
――瞬間、伯爵が止まった。
思わず言ってしまった。やめようと思ったけれど、撤回しようと思ったけれど、心はもう、止まらない。
「好きなんです」
「……やめたまえ」
再起動した伯爵は、それだけ言って、後ろを向いた。
ややあって、ひき肉を炒める音が鳴りはじめ、湯がぐつぐつと沸く音も加わった。
けれど、僕も、伯爵も、なにも言わなかった。
●
茄子の起源はインドだという。
それが中国へと至り、奈良時代だか平安時代だかに、海を渡ってはるばる日本へとやって来たらしい。
今でこそ、茄子と言えば、くろぐろしたでっぷりと肥えた実を想像するけれど、その当時は今ほど農業技術が進歩しておらず、もっと小さく、色も悪かったに違いない。
それでも、その時代を生きた彼らは茄子を育て、食べた。
美味かったからだと思う。美味くなければ食わないし、育てない。美味いから、好きになる。
と、ボロネーゼを食べながら、伯爵はもそもそと言った。
「……それが、吾輩の答えだ」
「……なるほど。それはそれは」
ほほが緩む。
「なんとも伯爵らしいお返事ですね」
「うるさい。食ったらさっさと捧げたまえよ?」
「了解していますとも」
――伯爵、鬱之宮治五郎は他人から血、つまり精気を奪う行為をひどく嫌う。だが、他人から捧げられるぶんには、喜んで受け取るのである。
だから、僕は伯爵にご飯をもらう代わりに、代価として血を捧げる。
食事と食事の等価交換であり、それは奪う行為ではない。
「――素直じゃない人ですねえ、本当に」
「ああ、人ではないとも。吸血鬼だ」
「そういうところが特に、素直じゃないです」
ふふ、と笑う。
決定的な言葉は、聞けていない。
けれど、今はボロネーゼが美味いから、それで良しとする。
昔、どこかで、誰かが言った。
料理は愛だと。
●
――吸血鬼は、若い処女の血を特に好むという。
(おわり)