a201 擬似的な蘇生
周囲は暗黒。
どこまで続くのかもわからない広大な空間。その空間を深い闇が満たしている。
それに、空気にはどことなく甘い匂いが漂っている気がした。
ラウドは水面に浮かんでいた。全裸で。
この水面が池なのか、湖なのか、沼なのか、それはわからない。
岸は遠くて見えない。水面にはぽつぽつと睡蓮のような花が浮いているのが横目に見えた。現実感のない不思議な光景だ。
「……俺は、死んだのか?」
ラウドはぼんやりと呟いてみる。
そう考えるのが自然だろう。ここはどう考えても、バーグライトではない。現実であるかどうかすら怪しい。
それに胸を貫かれて、生きていられるわけがない。
つまり、ここが死後の世界という事になるのか。
ちゃぱり、と水音がした。
そちらに顔を向けると、マールの姿が見えた。一糸まとわぬ裸だ。
祈るように胸の前で手を組んで腰から下を水面に沈めながらこちらに歩いてくる。
なんだかんだで、マールの肌を見るのは初めてではないが、今は白く輝いているように見える。
マールは、ラウドのすぐ近くで足を止めた。
ラウドはとりあえず聞いてみる。
「俺は死んだのか?」
「死にました」
あまりにもそっけない返事。
「そっか……」
ラウドは宙を見上げる。暗い闇の向こうに光を探そうとするが、見つからない。この界隈で光を放っているのはマールだけだ。
「まだ、死にたくないですか?」
質問。
本来なら、迷わずに死にたくないと答えるべきなのだろうが。そうする気になれなかった。
「わからないよ」
ラウドが正直に答えると、マールは首を傾げる。
「わからない?」
「いや……なんていえばいいのか」
マールは顔を近づけてくる。
「いいのですか? 死んでしまっても……」
よくはない、のだが。
「やりたい事がないわけじゃないけど、……それは、できない」
「どういう事ですか?」
「もしも生き返ったら、天使災害なんて起きていなくて、ウライアの大学も無事で、俺は何事もなく学生生活に戻れるってなら大歓迎だけど……無理だろ?」
「それは、無理でしょうね」
「バーグライトに戻されるぐらいなら、このままでもいいかなぁって」
その発言に、マールは少し怒ったようだった。
「あの町に戻るぐらいなら、死んだ方がマシと言うんですか?」
「そうは言ってないけど。無理に生き返ってまで戻るほどの理由が見当たらないと言うか」
あの町には何もないし、維持したい人間関係もない。
工事現場のオッサン達はいい人ではあるが、あの場所の工事が終われば解散し、恐らく二度と会う事はない。
同じ職種についていれば再会する事もあるかもしれないが、たぶんラウドが次の仕事を探すとしたら、肉体的に負担の少ない職種だろうし。
そうやって働くのも、生活費を稼ぐためだ。
働く事は手段であって目的ではない。
要するに、ラウドには生きる目的と言う物がまるでないのだ。
戻った所で時間の無駄でしかない。
「そうですか……悲しい人ですね」
マールはラウドを見つめる。
「あの町で、楽しい思い出などはなかったのですか?」
「特に、ないな」
「私と過ごした三日間も、ですか?」
「それは……」
直球で聞かれると、ちょっと困る。
「楽しかったかも、知れない」
「……そうですか。私も」
マールはゆっくりと手を伸ばしてラウドの体に触った。
だが直ぐに手を離し、後ろを向いてしまう。
「どうした? 大丈夫か?」
「……問題ありません」
何か問題があるようにしか見えなかったが、本人がそう言い張るならどうしようもない。
「あのさ、一応聞いておくけど、俺を生き返らせる事ってできるのか?」
「無理です」
「だろうな……」
なら、なぜさっきみたいな事を聞いてきたのかと、問いただしたかったが、やめておいた。たぶん意味などないのだろうから。
代わりに別の事を聞いてみる。
「おまえ、何だったの」
「何とは?」
「あの、模造天使……。おまえは人間じゃなかったのか」
「人間ですよ」
「だったら……」
「部外者には、教えられない決まりになっています」
マールはどんな表情をしているのだろう? こちらからは、背中しか見えないが。
「そっか……」
「ですけれど。あなたには教えてもいいと思っています」
「え?」
困惑するラウドの前でマールは再びこちらに向き直る。
そして、恐る恐ると言った様子でラウドの方に手を伸ばしてくる。
「なあ、もしかして、触るのが嫌なのか」
「そんな事はありません」
「嫌なら無理しない方が」
「黙っていてください」
キッパリ言い切ってから、マールの手がラウドの体に触れた。
何かを確かめるように、肩のあたりを優しく撫でられる。
そうやって触られるのが存外に心地よい。
「ごめんなさい」
マールは悲しそうに笑う。
「これからする事はあなたのためではありません。……私のわがままです」
バチリ、火花が散った。
「あ……あれ?」
重力が逆転したような感覚。
ラウドはゆっくりと目を開ける。
先ほどまでの光景は夢だったのか。
辺りは暗くて狭い。だが柔らかくてブヨブヨしている。
「なんだこれ?」
そんな変な空間にて、ラウドは変な体勢でうつ伏せになっていた。自分の体の下に何か柔らかくて暖かい物がある。奇妙な曲線を描くその物体を、ラウドは知っているような気がするのに思い出せない。だが、妙に心地よかった。
しかも、ラウドは服を着ていないようだった。
何がどうなっているのだろう。
「目が覚めたなら、そろそろどいてくれませんか?」
マールの声がすぐ近くから聞こえた。どうやら、ラウドの下にいる柔らかくて暖かい物は、マールの身体だったらしい。言うまでもなく、マールも全裸だった。
「うわわっ?」
ラウドは驚いて飛びのこうとして、後ろの何かに頭をぶつけた。全体的に柔らかい空間なのに、そこだけは硬い。
ぶつかった反動で前に飛び出し、ラウドの腰が、マールの腰に衝突した。
「ひゅぁ!」
マールが変な悲鳴を上げた。
「……ごめん。悪気はなかった」
「いきなり動かないでください」
マールはキツイ声でたしなめてくるが。向こうも動揺しているのを、どうにか落ち着かせようとしている気配が感じられた。
「それと、私の足にベタベタした物がついているのですが、これはなんですか?」
「い、いや……ごめん。本当にごめん」
寝ている間にやってしまったのだろうか? 裸の美少女が出てくる夢など見たら、そういう事もあるだろう。
いや、その相手は現実にそこにいて、今も身体を密着させているのだ。このままだと、どんどんまずい事になっていきかねない。少しでも身体を離そうと考えたのだが、ここは狭くて、十センチぐらいしか動ける余裕がない。
「とにかく、外に出よう。どこから出ればいいんだ」
「後ろからです」
ラウドはなんとか後ろに下がろうとするが、頑丈な壁がある。押しても動かない。
「何か塞がれてるんだけど?」
「……ハッチ開放」
ガシュッ、と音がして、後ろの壁が動いて、隙間から冷たい風が吹き込んでくる。
後ろの壁が持ち上がったのだ。ドアか何かのように。
壁だったものがどかされると、その向こうはそのまま屋外になっているようだった。
「あのさ、俺、服は……」
「周りには誰もいませんから、遠慮しなくて結構です」
一番遠慮してしまう相手からそれを言われると元も子もない。
ラウドは、ゆっくりと外に這い出した。
夜だった。
素肌に風が冷たい。
周囲を見る限りでは、ここは、どこかの山奥の小川のような場所だった。
その川をせき止めているのが、ラウドたちを閉じ込めていた謎の物体だった。
大きな棺おけの様な物を想像していたのだが、実際には一回りも二回りも大きかったようで、川の真ん中に鎮座して水の流れをせき止めていた。
ラウドは川に下りてみる。水の冷たさや、川底に転がる泥のぬめぬめした感じが、とても懐かしく思えた。
「ここは、町の外なのか?」
バーグライトは入るのが難しいが、外に出るのはもっと難しい。
もう一生、越える事がないと思っていたバーグライトの壁の外。こうもあっけなく出てしまうとは。
「どうやって、壁を越えたんだ?」
「……空を飛べば、なんともありませんよ」
「飛ぶって……」
ラウドは改めて自分達を閉じ込めていたそれを見た。
それは月明かりに照らされて、赤茶色だった。
この色には見覚えがあった。丸みのある形と生えた棘、そして大きさも大体そんな感じだ。もしかして、そういう事なのか。
「これは……あの模造天使か?」
「そうですよ」
マールも外に這い出してくる。冷たい月光に照らされた裸身が輝く。
天からの頼りない光が陰影を映し出し、体の起伏を強調していた。
相変わらず羞恥心がないのか体を隠そうともしないマールに、ラウドは慌てて目を逸らした。が、その一方で、視界の端で見てしまうのを自らに禁じれるほどの自制心もなかった。
マールはそんなラウドの葛藤には目もくれず、川へと下りていった。体を清めるつもりなのか、膝までの水深のところにしゃがんで、体に水を掛けている。
どこかから取り出したハンカチのような物で、足に付いた体液をぬぐう仕草が生々しい。余程嫌だったのか。申し訳ない事をした。
ラウドはその光景から目を逸らし、星空を見ながら言ってみる。
「模造天使の中に人間が入れる空間があるなんて、おかしいだろ」
「おかしくありません。もともと、こういう風になっているのです。全ての模造天使が……」
ラウドはそんな言葉を知らなかったが、現代風に言えばこういう事になる。
模造天使は、ロボット兵器だったのだ。