陰りがさす日常
臥龍大学――片田舎である龍ヶ崎町に不釣合いな総合大学である。文学科、神学科、工学科などなど、幅広い分野の研究が為されている。その多様な選択肢に起因して、地方大学ながら生徒数は多い。
天笠柚紀はその臥龍大学の文学科2回生である。日本文学を専攻しているが、それほど詳しくはない。大学には、人生の夏休みを楽しむために通っているような意識でいるのだ。
そんな彼女は、サークルもまた緩い活動内容のものに属している。
神聖事象研究会――世間一般でも理解しやすい名に変換するならば、オカルト研究会である。とはいえ、UFOを呼び出すとか、百物語を実践するとか、そういったことは一切しない。主だった活動は、お茶をしながらのおしゃべりである。また、面倒ならば活動しなくてもいい、という公認ルールもあるため、幽霊部員の温床となりやすいサークルでもある。
柚紀自身は半幽霊部員状態である。ごくたまに顔を出して、クッキーを差し入れしたり、お茶をいただいたりしているが、顔を出すのが三ヶ月に一度くらいの頻度であるため、熱心な部員とはいえない。
それでも、完全なる幽霊部員が数多いることを考慮すれば、比較的熱心であるともいえる。
そして今日は、三ヶ月に一度の神聖事象を研究する日なのだった。
「さて。久しぶりに顔出しますか」
柚紀は本日最後の授業を終えて、家で焼いてきたケーキを手に、神聖事象研究会の部室へと向かった。
「お疲れ様でーす」
そう声をかけながら柚紀は、サークル棟4階の東端の部屋に入る。
「ああ。お疲れ」
「お疲れ様、天笠さん」
返ってきた声は2人分。
神聖事象研究会会長であり4回生の皿屋敷巌と、柚紀と同じ2回生の木之下幽華のものだった。彼ら2人は、神聖事象研究会において珍しく、オカルト自体にも興味を持っている部員である。他の部員はお茶をしたいだけで、オカルトに興味がない。
「相変わらず人、いませんね」
「来て早々ご挨拶だな、天笠くん」
柚紀の素直な感想に、巌が苦笑交じりで応える。
一方で、幽華はティーカップを持ち上げ、ハーブティーを一口すすってから、ゆったりした口調でひと言。
「今日は月曜日だし、面倒で大学自体に来ない人も多いでしょう。いつものことですよ、会長」
そのように巌へ声をかけてから、彼女は視線をゆっくりと柚紀に向ける。
「ところで天笠さん。それはケーキかしら?」
「ええ。チョコケーキよ。久しぶりにお菓子作ったから、ついでにこうしてはせ参じたの」
部室中央にあるテーブルにケーキを入れた箱を置きながら、柚紀が言った。
彼女がガサゴソと包み紙を開けていると、幽華はおもむろに立ち上がり、電気ポットの電源を入れる。お茶の準備を始めた。
「いつも悪いね、天笠くん」
「いえ。作るのが好きなので。それに最近、練習につき合わされてるので作りすぎちゃうし」
「練習?」
「ああいえ。こっちの話です」
巌の反応に、柚紀は曖昧な笑みを浮かべて返す。そのあとは、適当にはぐらかした。
それというのも、お菓子の練習に精を出しているのがオカルト的存在――鬼沙羅という名の鬼であるからだ。角がなかったり、見た目が普通の子どもだったりと、オカルトらしくないことこの上ないが、柚紀宅に住まう双子、阿鬼都と鬼沙羅は間違いなく鬼なのだ。そうであるならば、オカルトに興味津々の人物にその存在が知れるのは、少しばかりまずいように思えた。
柚紀は以前、大学内で心霊写真の噂が飛び交った時のことを思い出した。あれは半年近く前のこと、当時の4回生の卒業が間近に迫っていた時期だった。
卒業アルバムに載せるための写真を写真部が撮っていたのだが、その中の数枚に女の幽霊が写っていたというのだ。
そして同時期に、写真部の部室が荒らされた。泥棒が入ったらしい。高価な機材などは無事だったが、写真が数枚盗まれていた。いまだ犯人は捕まっていない。
しかし、柚紀は知っている。神聖事象研究会の部室にある棚の引き出しに、数枚の心霊写真があることを。しかも、写っているのは女の幽霊――っぽく見える何かである。 ……誘拐事件を引き起こすわけにはいかなかった。
コト。
「はい。天笠さんはコーヒーだったわね」
柚紀の前にカップが置かれる。深いブラウンの液体からは、湯気と共に芳しい香りが漂う。
「ええ、ありがとう。木之下さん」
感謝の言葉に、幽華は微かに笑む。続けて、巌の前にもカップを置いた。そちらは紅茶のようである。そして最後に自分の前に置いたのは、どうやらカモミールティーのようだ。無駄に飲み物の幅が広い部室である。
さて、三様に飲み物を得た3人は、その1杯とケーキをお供におしゃべりに興じた。
その内容がもっぱらオカルト方面に傾いていたため、詳しくない柚紀は聞き役に徹することになったのだった。
「それじゃ、お疲れ様でしたー」
「ああ。またそのうち。お疲れ様」
がちゃ。
夕刻が近づき、柚紀は神聖事象研究会の部室をあとにした。今日は鬼沙羅がカレーを独りで作るというので、夕食時には絶対に帰ってくるよう言われているのだ。
ぱか。
柚紀は携帯電話を開き、ディスプレイに描写されたディジタル時計を瞳に映した。そこで、顔を顰める。少しばかり長居しすぎたようで、鬼沙羅に指定された19時に間に合わない可能性があった。
それゆえ、足早に家路につこうとした――矢先のこと。
がちゃ。
「天笠さん」
幽華が扉を開けて、追ってきた。
早々に立ち去りたい柚紀だったが、まさか声をかけられた直後に走り出すわけにもいくまい。
「何?」
「ちょっとだけ忠告」
努めて不機嫌にならないよう尋ねると、幽華がふんわりと微笑み、そう言った。そして、続ける。
「鬼とは善き事のなき者達。とりわけ子供はたちが悪い。そう伝えられるわ。必ずしも皆がそうではないけれどね」
「……………え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。それゆえ、柚紀はただ間の抜けた一語のみを発した。
そんな彼女には構わず、幽華は微笑んできびすを返す。
「じゃあね。何かあれば言って。力になれるかもしれないから」
その言葉が頼もしいのか、恐ろしいのか、柚紀には分からなかった。
「……どうしたの、柚紀? おいしくない?」
帰宅した柚紀が気もそぞろにカレーを食していると、調理者である鬼沙羅が表情を暗くして尋ねた。
それに対して、阿鬼都がおいしいよと応えているが、そちらは当の妹に、お兄ちゃんには訊いてない、と一刀両断されている。
彼らのそんな様子がおかしく、柚紀が小さく笑う……が、どうにもその笑顔は引きつってしまう。
「柚紀?」
「具合、悪いの?」
とてもではないが本調子に見えない彼女を瞳に映し、双子は共に心配そうにしている。
そんな彼らをまともには見られず、柚紀は微笑んだ。努めて笑んだ。
「大丈夫。おいしいわよ、鬼沙羅」
彼女の弱々しい笑顔が、その場に安寧をもたらすことはなかった。