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14:58 「新校舎2階廊下にて決戦 -5-」

 

 勝てない。どんな策を弄したところで通用しない相手なのだ。初めから、わかっていたことじゃないか。僕は一度だって桐渕に勝てたことがない。負けに負け続けてここまで来た。

 

 走馬灯を見た。これまでも死にそうな憂き目にはあったが、今度こそおしまい。あと10秒そこらで僕の命が消えることが確定している。たったそれだけの時間だ。もっと先まであると信じて疑わなかった、僕の生ある時間。今の僕を形作る過去が洪水のように溢れだした。圧縮された記憶が次々と想起されていく。

 

 記憶はさかのぼった。今になり、なぜか幼い子どものころのことばかり思い出す。今だからだろうか。それが人の芯なのだと思う。礎の根底にある記憶だからこそ、揺るがない。どれだけ成長しても、大人になっても変わらない。

 

 不意に、僕の記憶が目の前の桐渕と重なった。現実がブレたように感じる。昔に戻ったような気がした。子どもの姿になった桐渕。僕もそのころ子どもだった。そして桐渕を知っていた。古いなじみだ。昔から僕は桐渕のことが嫌いだった。

 

 嫌いだった、けど。

 

 ああ、何か思い出せそうだ。

 それはとても、つまらないことで。

 今さら、意味のないことかもしれないけれど。

 

 桐渕はなんでもできる奴だった。僕はいつも負けていた。勝てた試しというものがない。

 

 本当に、そうだったか。

 いや、違う。

 

 勝ったこともあるさ。蒸し返すのもおこがましい、もう遠い昔のこと。僕たちはまだ子どもで、差は大きく開いていなかった。僕は負けても諦めず、桐渕に噛みついていたじゃないか。

 

 いつからだ。僕は、いつしか桐渕を嫉妬の眼でしか見なくなった。

 あれからだ。桐渕が僕を軽蔑の眼で見るようになってからである。

 

 それを思い出したところで無意味だ。幼いころの子どもの勝負に勝ったことが何の自慢になる。だから昔のことは考えなくなっていた。忘れようとさえしていた。そんなことを懐かしむ自分が愚かで、耐えられなかったから。

 

 だが、今だけはどうしようもなく、あのときのことを思い出す。僕の脳みそは退行していた。死に近い極限まで追い込まれて、みっともなくも幼少時代に戻っていた。

 

 そこに“桐渕伴”の虚像はない。彼女はスポーツ万能でも成績優秀でも頼れる生徒会長でもない、ただの幼い子ども。恐ろしくなどなかった。何も考えずに勝負を挑めた。

 

 桐渕へ抱いていた恐怖が急速に薄らいでいく。

 

 みじめだ。過去へ退行していく一方で、僕は自分が高校生であることも理解していた。子ども時代の桐渕になら勝てるのではないかと思ってしまっている自分が、みじめ。そんな感情でしか行動も起こせない自分が、みじめ。

 

 成長した桐渕は何でも持っていて、僕は何も持っていない。過去を思い出すほどに、それを痛感する。心が疼く。

 

 “あのときは僕だって”

 

 一番、考えたくなかった言葉が頭に浮かんだ。それを意識してしまえば、もう抑えがきかない。

 

 嫉妬するよ。

 努力もせずに、今日までのうのうと生きてきた自分を棚に上げて。

 

 そうだ、桐渕。お前が全部悪い。お前が失敗していれば、人から見下されるような人生を歩いていれば、僕はここまで卑屈な人間にはならなかった。

 

 なのに、どうして僕が負けなければならない。死ななければならない。お前だけが生き残る気か。許さない。

 

 足が動く。

 ズボンのポケットの中でカッターナイフの刃をわずかに滑らせる。

 カチリカチリと振動が指に響く。

 そしていつの間にか、僕は桐渕の前に立っていた。

 

 「僕は勝っていた。お前に勝っていたんだ」

 

 「……?」

 

 限界が近づいているのか言葉は返してこないけれども、幼い桐渕は意味がわからないというふうに首をかしげて僕を見る。

 

 「そんなこともわからないのか」

 

 口先だけの虚勢。しかし、ほんの一瞬、桐渕の表情から余裕の色が消えた気がした。

 

 やるなら今しかない。この瞬間。しかし、まだ足りない。

 やるべきことから逃げ続けてきた僕には、人を傷つける決意が足りない。嫉妬の感情だけでは、桐渕への恐怖をかき消すにとどまるのみ。それから先の行動へ移ることができない。結局、僕はそういう人間。誰かに暴力を振るうことなんて考えられない弱い人間。

 

 だから借りよう。幸いにして、殺意なら腐るほど貸してくれる相手がいる。

 

 鎖を通って、とめどない悪意が僕に流れ込んできている。桐渕の僕に対する、全力の殺意。もはやそれを抑える恐怖というストッパーは取り払われた。

 僕は混ぜる。嫉妬と殺意という感情を、ぐちゃぐちゃに混ぜた。きれいとは正反対のおぞましい感情。その色を、僕は心に刻み込んだ。

 

 思っちゃいないんだ。桐渕は僕が攻撃してくるなんて思っていない。僕はそんな人間ではない。感情に任せて手をあげる性格ではない。その虚をつく。桐渕は、僕の心中が殺意に染まっていることを知らない。僕がさっきまでの僕とは違うことを知らない。

 

 攻撃は、通る。

 不完全な全能感。生れて初めて感じる血のたぎり。憤懣を一気に表面化する。僕は桐渕に刃を突きたてるヴィジョンを見た。

 

 

 

 だが、

 それまで。

 

 ポケットに入れた手は、カッターを握りしめる手はそれ以上、動くことはなかった。

 

 思いとどまる。瀬戸際で硬直する。

 何になると言うのだ、僕がここで攻めに転じたところで状況は何一つ変わらない。確かに一撃は与えられるかもしれない。桐渕の肉体は子どものもの、しかも瀕死寸前の弱りよう。しかし、カッターナイフ1本で何ができる。せいぜい軽い切り傷をつける程度。それ以上は望めない。向坂から受けた腹の傷に追い打ちをかけるようなマネをすれば殺せるかもしれないが、それを許す桐渕ではない。

 

 絶対に警戒しているのだ。不意打ちは通用しない。むしろこの状況で攻撃を受けること以外の何を疑うというのだ。桐渕はここで油断する女ではない。僕が桐渕を殺すような攻撃を成功させたとしても、運命が書き換えられる。

 

 それどころか、これはきっと桐渕が思い描いたシナリオだ。わざと僕に攻撃させようとしているのではないか。桐渕は僕を殺すために自分を追い込み、自分の命を犠牲にして僕を殺そうとしている。僕が桐渕に攻撃することは、そこに拍車をかけるだけの結果にしかならない。今の桐渕は文字通り爆弾なのだ。刺激を加えれば爆発する。桐渕にとってはむしろ、望むところ。

 それで僕が得られるものと言えば、散り際にわずかな切り傷を与えることで一矢報いたと思いこむ満足感のみだ。無様な自己満足でしかない。それすら桐渕の思惑通り。最後まで桐渕の手の上で転がされて終わるだけ。

 ここでカッターを振り回したところで無駄なのだ。

 

 だが、それは諦めではなかった。僕の心中に新たな感情が生まれる。

 希望だ。

 

 あそこで攻撃していたら、僕はもう引き返せなくなっていた。感情のままに桐渕に襲いかかることしか考えられなかっただろう。自らの視野狭窄を認識する前に、勝手にやり返した気になって死んでいた。いわば救われたのだ、殺意と嫉妬に染まった心となっても、まだ躊躇を捨てきれない女々しい臆病さに。

 

 考えろ、僕は今、ようやく桐渕と同じステージに立ったのだ。

 桐渕の思考を理解した。そしてさらに理解しなけばならない。桐渕の思考を上回らなければならない。

 驚くほどスムーズに頭が回る。悪意に身を任せて目の前の敵を殺すことしか考えていなかったときとは比べ物にならない。突き動かされる。借り物ではない、心中から湧きあがる欲望に。

 

 最悪を考えろ。

 僕にとって何が最悪であるか。もちろん、死ぬことだ。そしてそれが桐渕の望みであり、彼女にとっての最良なのだ。

 なぜ僕が死ぬことが桐渕の目標となっているのか。簡単だ、それにより桐渕は勝利を得る。それ以外に望むことなんてない。桐渕は勝ちたいと思っている。負たくないのではなく、勝ちたい。桐渕ならそう思う。

 

 であれば、足りない。巨大なあるいは大量の剣でもろとも押しつぶして一緒に死ぬなんて結果では足りないのだ。

 まるで傍観者のように戦いを横で見ていただけの僕は忘れていた。確認するまでもなく当然のこと、これはゲームで僕はプレイヤーだったのだ。桐渕が勝つということは、僕が負けるということ。言いかえれば、桐渕が生き残り、僕が死ぬということ。

 

 桐渕は僕より先に死ぬことができない。桐渕はまだ策を隠している。自分だけが生き残る最後の策を。

 露骨に自分だけが確実に助かる方法ではダメだ。手加減はできない。本当に死ぬ気でなければ、僕を巻き込んだ自爆なんて手段は取れない。自分が死ぬ危険を残しつつ、かつ助かる可能性も残された一手。そんなものがあるのか。いや、助からなくてもいいのだ。要は、僕より1秒でも長く生き残ればいい。もとより桐渕は致命傷を負っている。最初から死ぬ気でいる。あとは、僕より先に死なないという一点の問題のみ。

 

 そこまで思い至れば、答えはすんなりと浮かび上がった。能力だ。桐渕はもう1つの能力を使ってくる。

 その勝負において致命傷を受けたとき、死ぬ運命を書き換える。使用条件の例外として桐渕が挙げたのは「逃走中に受けた追撃」と「不意打ち」である。おそらく、自殺は使用条件の例外に当たらないのだ。これは僕が死ねば桐渕の勝ち、桐渕が死ねば僕の勝ちという明確な勝負。

 けれども、桐渕にとっては相手を僕だけに限定する必要もない。敵は“どこの誰かもわからないプレイヤー”である可能性もあると思いこめばいいのだ。向坂のようなイレギュラーな経緯の人間だっていたことだし、僕がプレイヤーである疑いは高いものの、プレイヤーではない可能性も全く考えられないことはない。どこに潜んでいるかわからない相手だと仮定して、死ぬ間際のやけくそ校舎全体破壊で根こそぎ始末。そういう思考の逃げ道も残せる。

 さらに運命を書き換えたところで桐渕が助かる保証はない。『負けなくなる』と言ってもそれがどんな運命なのか、桐渕にもわからないのだ。瓦礫の下敷きになってしまえば、たとえ生き残ったとしても遅かれ早かれ死ぬことになる。ただ、確実に言えることは相手より先に死ぬことはないということのみだ。そして桐渕はそれさえクリアできれば問題ない。

 

 考え抜かれていた。僕の憶測でしかないが、そのくらいのことはしてきておかしくない。僕に思いついたのだから、真実だとすれば当人である桐渕が気づいていないわけがない。

 あまりにも高い壁。きっと数分前の僕なら絶望していた。そこまでされたら手も足も出ないとさじを投げただろう。そこで諦めた。考えることを止めた。何もできずに桐渕の術中にはまった。圧倒的脅威だと、突破口などないと決めつけた。

 

 今の僕はその先に進める。桐渕の策はわかった。ならばそれを受けて、できることをする。1%でもいいから僕の有利になる状況を作る。何が最悪かって、ここで何もせずに指をくわえて立ち尽くしてしまうことが最悪。そうだろう、行動するんだ。最悪を回避しろ。

 

 様々な案が僕の頭の中を駆け巡る。とにかく数だ。どんなにくだらないことでもいいから思いつく限りのアイデアを搾り出す。ぐちゃぐちゃになった。自分がこの場所にいることすら忘れそうになりそうなくらい感覚が希薄になる。思考の処理に集中する。そして思考は収束していく。1本の線が紡ぎだされる。

 

 答えが出た。

 僕は両手を広げると、ゆっくりと静かに、警戒させないようにやさしく。

 桐渕を抱きしめた。

 

 くつくつと桐渕の体が震える。嗚咽のようなその反応は、しかし違った。笑っているのだ。臓器を引き裂かれ血反吐を口から溢れさせながらも、桐渕は心底おかしそうに笑っていた。

 かすれた声で何か言っている。空気が漏れるような、かすかな雑音。ほとんど聞きとることはできなかった。だが、伝わった。抱きしめる形で体が触れていた僕には、彼女の声がわずかに響いてきた。

 

 楽しかった、ばいばい。

 また明日、と友達に別れのあいさつをするような気軽さで、そう言われた。

 

 携帯のアラームが鳴り響く。時限爆弾の信管に火がともる合図だった。破壊は瞬く間、僕の意識は黒く沈んだ。

 


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