14:56 「新校舎2階廊下にて決戦 -4-」
はっきり言えば、投げ出したい。あんな常識外の相手なんてしたくない。
しかし、諦めれば死。圧倒的な数の鉄の塊が校舎を破壊し尽くすだろう。桐渕と一緒にペシャンコになる。そんな最後はごめんだ。
幸いにして、まだ手遅れではない。桐渕の姿は変化したが剣は現れていない。今の桐渕は代償を先に支払い、スタンバイしている状態だ。いつでも大質量の剣を作り出せる。だが、その状態で止まっているのだ。なぜ発動させないのか察しはつく。僕がいるからだ。
「桐渕、馬鹿なマネはよせ! 僕を巻き込む気か!?」
僕という存在が桐渕に行動を躊躇させる要因となっているはず。いくら自分の死を理由とした自爆であろうと、僕を殺すことに変わりはない。桐渕はそれを理解している。彼女はその理解を否定した上でさらに否定を重ねなければならない。自分の意識とは矛盾した行動を取らなければならない。大変な困難だ。
僕は桐渕に呼び掛ける。僕の存在をより強く、桐渕に意識させるのだ。忘れさせてなるものか。僕にできることはそれくらいしかない。とにかく時間がないが、やるしかない。
「こぬれ、くん……確かに、君を、巻き添えには、できない、かな」
見た目相応の高く幼い声だった。表情は気丈だが、血の気が失せて今にも倒れそうだった。息も絶え絶え、やっとのことで喉の奥から絞り出したかのような声。しかし、立ち続けていた。ひとえに気力のなせる業としか言いようがない。桐渕はまだ、倒れない。
サイズが合わず、ずり下がった制服。そのポケットから、桐渕は指のない手で携帯電話を取りだした。携帯は桐渕の足元に落ちる。
「2分、あげよう。逃げるといい」
譲歩が提示された。絶望の淵に差した一条の光だ。たった2分。されど2分。新校舎から出るくらいのことはできる。校舎の構造上、新校舎とつながる他の施設に行くには渡り廊下を通らなければならない。狭く細い道だ。
おそらく、剣の侵入をある程度、阻める。タンクから水を他の容器に移し替えるとき注ぎ口が小さければ、注ぎ終えるのに時間がかかる。サークル棟なんか絶好だ。今いる新校舎とつながる渡り廊下は一か所しかない。
無論のこと、絶対に安全である保証はない。剣が新校舎内の空間に収まりきらなければ、余分が余所へ行くことは必然だ。だが、助かる可能性もゼロではない。桐渕は逃げろと言ったのだ。逃がしたのに結局最後は潰してしまいました、なんて余計に質が悪いではないか。悪意を持てない桐渕なら、攻撃を加減してくれる可能性はあるのだ。
もう悩んでいる暇はない。桐渕は条件を僕に提示してきた。2分というタイムリミット。それは僕への猶予でもあり、桐渕自身の決意の表れでもある。何が何でもあと2分。それ以上はない。限界ギリギリまで引き延ばして引き延ばして、もう譲れないであろうライン。それが2分なのだ。そこまできたら自動的に爆発するようなもの。時限爆弾のカウントダウンが始まった。
桐渕はきっかり2分後に能力を発動させるだろう。たとえ僕が近くに残っていようとだ。僕の能力があるから大丈夫、なんて楽観は捨てるべきである。
他の手を模索する時間なんてなかった。それでいくしかない。逃げるんだ。僕は運よく生き残り、桐渕だけ死ぬという結果だって起こりうる。桐渕を倒す方法がなかった僕からしてみれば、逆に千載一遇のチャンスではないか。泣いても笑っても1回きり。失敗は許されない。
僕はわき目も振らず走り出す。そのつもりだった。
「ま、待って!」
腕をつかまれた。思わず立ち止まる。すがるようにくっついて来たのは、向坂だった。悪いが、こいつに構っている場合ではない。その手を振り払う。
「どうしてそんな冷たい態度をなさるのですか? 私たち、愛をささやき合った仲ではありませんか。どうか、私を見捨てないでくださいまし、ね? なんでも言うことを聞きますから……」
蝿のごとくまとわりついてくる向坂。なんだこの尻軽女は。
僕に対して悪意はないのだろう。鎖を持っているのだからそのはずだ。ただ、助けを求めている。そりゃここにいればあと2分で桐渕の自爆に巻き込まれるのだから必死にもなる。彼女は懇願しているだけだ。悪意はない。気持ちはわかる。
だが、それがどうした。僕にとっては邪魔でしかない。僕は向坂を無視して走り出そうとしたが、振り返れば僕の後をついてこようとしている彼女がいる。そんなことをすれば桐渕に、
「あ……」
最悪の可能性が脳裏をよぎった。
桐渕が2分の猶予を設けたのは僕を逃がすためだ。能力の恩恵を受けた僕だけである。向坂を逃がす道理はない。能力を目の前で披露して見せた向坂は怪しすぎる。プレイヤーではないという言葉を素直に信じられるはずもない。とりあえず殺しておく。それが無難だ。向坂の逃走は許さない。
では、向坂が僕と一緒に行動したのであればどうか。それなら許されるのか。いや、そんな甘い話があるか。ただでさえ一触即発というこの状況で、向坂を見逃す。現実味がない。僕の能力でも向坂の安全はカバーしきれないのではないか。桐渕はどう判断するのか。
僕は桐渕の方へ目を向ける。
桐渕は僕の方を見ていた。
「だ、め」
否定。一層、笑顔を強くして吐かれる否定の言葉。
僕は何も言っていない。だが、桐渕は考えていることなどお見通しとばかりに答えを返した。まさしく子どものように無邪気な笑顔で。
ダメなんだ。連れて行くのはダメ。向坂は起爆スイッチと化していた。おそらく向坂がある一定の距離以上、桐渕がいる場所から離れると爆発させてくる。制限時間とは関係なく、すぐにでも。その距離がどれほどかわからないが、新校舎内から出ることは許さないに違いない。渡り廊下の向こう側には行かせまい。それもただの推測であり、あと一歩でも前に踏み出してしまったら即爆発、という可能性だってある。
爆発させる前に向坂に桐渕を殺させるという策も取れない。弱り切った桐渕が、むざむざ危険な向坂を自分のそばに近づけるはずがない。不審な行動を見せれば、やはり爆発。近づくこともままならない。
僕の逃走の邪魔になるから向坂を何とかしろ、と桐渕に言ったところで聞き入れてもらえるわけがない。桐渕だっていっぱいいっぱいなのだ。今の彼女にできることと言えば、爆弾の起爆のタイミングを計ることだけ。自分でなんとしろと言うに決まっている。
僕が向坂を振りほどいて1人で逃げ切らなくてはならない。
「く、来るな! ついて来るな! あっちへ行け!」
「そんなひどいことを言わないでださいまし! お願いですから!」
離れない。離れてくれない。この土壇場で、まさかの足止め。止まらざるを得ない。
たぶん口汚く罵ろうが殴りつけようが、この女は僕について来る気だ。引き下がる気配がない。向坂は馬鹿ではない。さっきの桐渕の話から得られた情報により、僕の能力について理解しているはずだ。だから、現状で僕のそばが最も安全な場所であることもわかっている。
蜘蛛の糸だ。お釈迦様が天から地獄に蜘蛛の糸を垂らす話がある。そんな感じ。この場合は向坂を助けようとしたところで僕に救いはないのだから、より絶望的展開だ。
理で詰められた。桐渕により、何重にも張り巡らされた予防線。それが僕の行動を封じてくる。理で殺せないはずの僕を理で殺しに来た。桐渕は、きっとこうなることを予想していた。でなければすんなりと逃走猶予なんか与えない。理由づけの上に理由づけを重ね、本来の目的をかすませる複雑な構造を作り上げる。しかたなく、やむを得ず、だが限りなく僕が死んでしまう状況を作り上げたのだ。
僕は、どうすればいい。汗が止まらない。
時間を見ようと携帯を取り出そうとして、思い直す。そんなことをしても無駄だ。どれだけの時間が経過したかなんて確認してもわからないし、確認する時間が無駄というもの。携帯電話を取り出すというわずかな行動さえ無駄。
無駄。
一度、自分の行動を否定してしまうと、驚くほど精神が弛緩した。もう何をやっても無駄なんだと思えてくる。じわじわと諦めの感情が心の中に広がっていく。
それが桐渕の策略とわかっていながら、僕は全く動けなくなってしまった。




