14:24 「新校舎2階廊下にて殲滅 -6-」
前後不覚。おかしなことに、僕は願ってやまなかった自由を手に入れたというのに、頭が真っ白になっていた。
そう、自由だ。僕はもう、魅了の炎に毒されてはいない。完全にいつもどおりの感覚が戻ってきた。
島井の鎖をつかんだ瞬間に、そうなった。
混乱する。なぜ、こうなった。
硬直する僕の背後から、誰かが僕の体に触れた。
僕と手をつないでいた桐渕がすぐ後ろまで来ていた。僕が立ち止まっていたから、彼女が前に進んだ。そして僕の背中に迫る位置まで来ている。
おぞ気が走った。夢から覚めたように現実に帰ってくる。考える間もなく、僕は一歩、前に進んでしまった。魅了も何も関係なく、自分の足を踏み出していた。
『……定規、見損ないましたわ。しかたがありません。あなたができないというのなら、私がやります。桐渕伴が焼け死ぬ様を、そこで見ていなさい』
僕は考えていなかった。確かに魅了の炎の幻惑から脱することは生き残るために必須だった。しかし、その先はどうするのか。
僕がここで1人だけ、何食わぬ顔をして逃げ出す。それはあまりに異常だ。他の生徒たちは軒並み殺されたというのに、僕だけ助かり難を逃れる。異常すぎる。その助かり方がおかしい。さっきまで魅了の効果覿面、あわや火だるまかというところだったのだ。なんでそこから急に助けられたんだ、という話になる。
また一歩、踏み出した。自分の意思で前に進む。体は自由になったというのに、さっきまでと同じ危機感。いや、なんだか得体の知れない恐怖すら感じる。よりひどく、僕の精神は憔悴していた。
何か、おかしい。
なんなんだ、この能力は。そもそもどういう原理で、この能力は働いている。
能力者は明らかに向坂。しかし、島井の鎖をつかむことでその効果が消滅した。どうなっている。
冷静に、一つずつ、考えていくしかない。
まず、この魅了能力は効果範囲にいる人間全てに無差別に働くというものではなかった。でなければ、悪意を消し去ったところで影響を受けなくなるわけがない。任意に対象を指定し、その相手に効果を発揮するタイプだ。考えてみれば、能力者の向坂は当然として、島井も思いっきり炎の近くにいたのに平気そうだった。魅了効果を与える相手は選べるのだ。
だが、それではおかしい。向坂の鎖をつかんだときに、なぜ効果はなくならなかったのだ。何か、制約のようなものがあるとか。たとえば、そう、向坂の能力は自分の意思だけでは発動できないなど。他の誰かと共同で発動の決定をしなければならない。つまり、能力の発動に関しては島井の同意が必要だったのだ。
……いやいや、何をたわけた妄想を。あまりにも見当違いな推測だ。説明になっていない。それだと結局、どちらかの意思が欠けたときに発動しなくなるはずではないか。
こう考えるのはどうか。元凶は島井だった。これが島井の能力なのだ。人の精神を操るタイプの能力者なのだ。僕と同系統である。その力で向坂を操っている。言いなりにされているように見せかけているのは全て演技で、本当は自分が主導権を握っている。
なるほど、そう考えれば向坂の異常な行動にも納得がいく。自分の命を犠牲にしてまで恋人を助けるなんて、ありえない。普通はそんなこと考えない。であれば、そうせざるをえないよう仕向けられたのだ。
向坂は島井に命令されて攻撃している。だから、島井の悪意を封じたときに魅了効果がなくなったのだ。
……。
本当にそうだろうか。
向坂は意思を持たない操り人形、それこそ三本が作り出した分身体のような存在だとでもいうのか。
考えがまとまらない。
また一歩。
ダメだ。このままではいけない。何か、大事なことを見落としていないか。このまま何も考えず、ただ逃げ出すことが正解なのか。
重要なのは、やはり島井なのだ。島井の関わり方が最もおかしい。
仮に島井が向坂を操っているとして、この茶番は何のために必要なのか。意味はあるはずだ。整理して考えろ。
誰からも慕われる生徒会長、桐渕。
その付き添い、僕。
桐渕を殺そうと企むストーカー、向坂。
そして2人の女の間で優柔不断に揺れる男、島井。
操られている向坂の意思は関係ないのだから、ここでは除外。僕もたまたま居合わせただけの存在なのだから、除外。すると、残るのは島井と桐渕。2人の関係だ。
桐渕は元生徒会長で、島井は現生徒会長。どちらも生徒会に所属していた時期があり、互いのことを知っている。島井は桐渕に懸想していた。だからできれば殺したくないと思っている。
しかしそれも“できれば”の話。ゲームの制限時間も残り少ない今、彼は強硬手段に打って出た。プレイヤーをあぶりだすため、一般人もろとも大量殺人を行った。そこまでしておいて、今さら後には退けない。桐渕は客観的に見て、プレイヤーと疑われて仕方がない行動を取ってきた。殺しておくべきだ。そう考える。
だから向坂の能力を利用してこの階にいる生徒たちを殺し、桐渕も殺そうとしている。
いや、しかしそれなら桐渕が魅了効果に囚われた時点で、剣にて殺してしまえば手っ取り早いではないか。なぜ殺し渋る必要がある。どうせ最後は殺すのに、演技までして自分の印象を良くする必要はない。それとも単に、自分の手を汚したくないだけか。
否定しても否定しても、可能性は頭に浮かぶ。僕はそれを考えずにはいられない。
わからない、わからない。頭が混乱する。吐き気がする。苦しい。狂いそうだ。
火柱との距離は近づいていた。だらだらと煩雑な思考に陥っているうちに、距離だけが無為に縮まっていく。
桐渕は僕の手を握っていた。しっとりと汗ばんだ、不快な感触。強くつかんで離さない。その力強さはつい先ほどまで頼もしかった。転び落ちそうになる僕を崖の上へ引き上げ、支え続けてくれた。
それが一変して荷物となった。まるで逃がさないと主張しているかのように、僕の手にまとわりつく。僕が前に走りださないように引っ張ってくれていたはずが、なんの皮肉か、じわりじわりと僕を前に進ませる役割に変わっている。
まるで谷底へ落とされようとしている死刑囚。槍で追い立てられながら、崖っぷちに張り出された板の上を歩かされているよう。さっきと何も変わっていない、地獄への道へ進まされている。それは幻想だ。自分に言い聞かせる。
黄金の火柱はすぐそこまで来ていた。あと数メートルという距離。轟々と音を立てて燃え上がっているというのに、まったく熱を感じない。だからと言って、これ以上、流されるままに炎の中まで突っ込むことなどできない。
このまま歩くのか、それとも逃げ出すのか。どうすればいい。何が正解なんだ。わからない。そもそも正解なんてあるのか。すでにして、この状況というものが、
僕にとっての最悪ではないのか。
足が止まった。
桐渕が僕の背後に迫る。ぴったりと、体がくっつく位置まで。
その手がゆっくりと僕の腰に回され、彼女の抱擁に包み込まれた。
「もう、進まなくていいのかい?」
顔の横でささやかれた。




