12:30 「檻の中の現実 -6-」
なぜだ。なぜ、そんな行動を取る。
僕は女生徒から腕をつかまれた。非常に弱い力だ。振りほどこうと思えば造作もない。だが、ここで重要なことは、彼女がいかなる経緯で僕の腕をつかもうと思い至ったか、その理由である。
彼女は極度のきれい好き、潔癖症であると推測する。ちょっとでも他人から触られるだけで我慢ならないほどの重症だ。そんな人間が自分から誰かに触れようとするとは考えられない。現に、彼女の心中には僕の腕をつかむという行為により、ただならぬ不快感が生じている。
単に体調が悪くて助けを求めた、そう考えるのが普通かもしれない。しかし、鎖を通して僕に流れ込んでくる悪意を鑑みるにそうは思えないのだ。一瞬でも触っていたくないと思うはずなのに、依然として僕を触り続けている。行動の矛盾だ。
「ど、どうかしました?」
「……」
どんな行動にも理由はある。それがわからないということは、僕の思考が相手の立場で物事をとらえていないということだ。限られた情報の中で、いかに推論を組み立て、より確からしい解を導き出すか。そう言うと大仰だが、要するに多面的に可能性を洗い出していくことが大切という話である。
多面的。
そう、僕は能力により彼女の感情のすべてを理解した気になっていた。よく考えれば、それは誤りだ。僕は彼女の『悪意』しか読み取れないのだから。それ以外の感情は、さっぱり不明なのである。人間の感情が悪意に満ちているとしても、悪意以外の感情が全くないわけではない。
僕の趣味は人間関係計算だ。相手にとって好ましい行動をとればプラス、その逆はマイナス。その感情の変動を数値で表す。
本来ならこの数値は他人との交流の中でしか変化しない。プラスになるにしろマイナスになるにしろ、出会わなければ会話をしなければ、そう変わるものではない。
だが、僕は特殊な能力を手に入れた。相手の悪意を常に「ゼロ」にできるのだ。これによりマイナスのポイントを記録することがなくなる。
そこでこう考える。
今までは相手の感情を一つの変数として扱っていた。人間はプラスかマイナスか、あるいはゼロの好感度しか持たないと。その見方を改めよう。プラスの感情とマイナスの感情は、互いに独立した二つの変数なのだ。一方が高く、一方が低いということもあり得る。
そして、両者は完全に独立しているということもない。何らかの関係はしている。その総合的な評価として、全体としての感情が決定されると仮定しよう。
僕は能力により悪意を持たれない。つまり、マイナスの感情を抱かれることがない。すると、僕が他人から持たれる印象は最悪でも『無関心』にとどまるだろう。悪意も好意もない本当にゼロの状態だ。それ以上、僕の評価が下回ることはないのだ。あとは上に登るだけ。
要約しよう。つまり、僕の能力はマイナスの感情のみをゼロにするものであって、プラスの感情をもリセットするものではないのだ。もっと言えば、僕の取るあらゆる行動は、他人の目から見て好意的に映るのである。プラスにはなれど、マイナスになることはない。最悪でもゼロ。
すなわち、女生徒が取った僕の体に自分から触れるという行動は、僕が彼女に対し多少の信頼を勝ち取ったという証と言える。確かに彼女は潔癖症なのだが、その悪感情は僕がすべて吸い取っているので表面化することはない。よって、彼女には僕に対する好意的感情しか残らない。
これは愚考かもしれないが、今まで誰に触られても嫌悪感しかなかった彼女にとって、僕の存在は衝撃的なのではないだろうか。なにしろ、触られても嫌だと思わないのである。さらにこの異常事態が引き起こす吊り橋効果により、一歩踏み込んだ好意を抱いているという可能性も、
いや、その思考は蛇足だ。取り消し。
とにかくそういうことである。
僕はそこであるひらめきを得た。僕はひとまずの第一目標としてカッターナイフに代わる武器を入手しようと動いていた。プレイヤーという強力な【武器】を持つ相手に対して、少しでも有効にはたらく武器がほしい。ではその最たる例とは何か。
それすなわち、プレイヤーだ。この上なく明快な答えである。僕の腕をつかむこの女生徒を僕の武器にすればいいのだ。僕にはそれを可能とする能力がある。警戒を抱かせず、協力関係を結ぶことができる。このゲームの性質上、ありえないはずのプレイヤー同士の協力という現象を起こすことができるのだ。
彼女の能力は防御一辺倒の偏った性能をしている。この場合は武器と言うより盾と言う方がふさわしいか。戦闘能力が皆無の僕からしてみれば、それだけでも十分頼もしい装備である。
この関係、協力という言葉でごまかすのはよそう。これは一方的な利用である。世間一般には外道と呼ばれてもしかたない行為であることは承知している。だが、やめる気はない。僕の道徳心が充足されたところで、死んでしまえば元も子もないのだ。
どうすれば、いかに彼女という武器を効率よく扱えるか、シュミレートしていく。
……あれ、いや、でも。
仮に都合よく彼女の懐柔が成功したとして、僕と彼女以外のすべてのプレイヤーの打倒を成し遂げたとして、その後はどうなる。
彼女の能力は言うまでもなく堅固な防御力である。その壁をどうやって破壊すればいいというのだ。最終戦で敵と相討ちになってくれれば万々歳だが、それを期待するのは虫がよすぎるというものだ。
少し準備が足りない。武器というからにはその機能と使い途を正しく理解しなければ、使用者にとっても危険なシロモノである。彼女の能力をもっとよく知る必要がある。メリットとデメリットを。必ず弱点はあるはずだ。
しかし、それにしても疲れた。
思えば、あの大男と遭遇してから脳みそをフル回転で作動し続けていた気がする。気を抜く暇がなかった。少し休みたい。
生徒の大部分は新校舎東棟の教室に避難していることだろう。ここには僕たちしかいない。また大男がこの場所に近づいてこないとも言い切れないし、人間嫌いな僕だが、今このときばかりは多少の喧騒というものを聞きたい気分だった。教室の近くに戻ろうと思う。
「あ」
そこで僕は何となく大男が出現した階段の角を目にし、血だまりの中に見える誰かの白い手に気付いた。
そういえば、ずっとあの場所に人が倒れていたのだった。忘れていたわけではないのだが……いや、すいません、忘れてました。
どうも、この異常事態にあたり、僕の精神もだいぶ狂ってきたようだ。大男とか女生徒との対応で頭がいっぱいで、怪我人らしき存在を放置してしまっていた。
「ちょっとここで待ってて」
僕は女生徒の手をやんわりとはずして、階段に向かって駆け足で近づく。鎖はまだ見えるので、死んではいないと思う。意識があれば、大男に関する情報が得られるかもしれない。
死角になっていた角を曲がり、その先の光景を目にする。グロテスクなものを見せられるかもしれないと覚悟していた僕だったが、現実はその遥か上をいく異常さだった。
青白い人間の腕が、床に転がっている。それ以外に何もない。それが誰なのかすらわからない。肩から先の体は存在せず、腕だけしか残っていないのだ。
にもかかわらず、その手は助けを求めるように指を動かしていた。




