12:18 「檻の中の現実 -2-」
赤い液体。何かの汁。どろどろと流れている。ゆっくりと床の上に広がっていく。
ほんの5メートル先、階段に入る曲がり角で。
そこで何が起きているのか。とても確認になど行けない。足がすくむ。
ぱたりと音がして白い小さな物が、角の向こうから倒れて見えた。
手だ。
人間の手。
僕の視界に入ったその手から、鎖が伸びて僕の胸につながる。
生きている。よく注意して見ないとわからないが、わずかに動いている。
助ける、べきだろうか。
死にかけの人間が目の前にいれば、普通は助ける。だがそれは自分に不利がないときの話だ。この状況、近くにプレイヤーがいてもおかしくない。例の殺人鬼かもしれない。それがあの角の向こうに潜んでいたらどうするんだ。
その逡巡がいけなかった。考えるよりも先に逃げるべきだったのだ。
ぬらりと影が廊下に出てきた。目に飛び込んできた色は赤だった。全身、血でずぶぬれ。大きく破れ、血で染まった学生服。180センチは超えているのではないかと思われる身長、筋肉質の巨漢だ。体格から見ても男とわかる。本当に高校生か。
が、それ以前の問題として、学生とか男とか、人間とかいう範疇の存在ではなかったのだ。
体中に突き刺さった、いくつもの突起物。それがひょこひょこと出たり入ったりしていた。うまく説明できない。何か短い刃物のようなものが、男の体の中から飛び出している。刃を外側に向けてだ。体のいたるところから刃が、にょきにょき生えている。
尋常じゃない。モンスターだ。こんなものは人間とは呼べない。
十中八九、プレイヤーだ。それもおそらく、高い戦闘能力を持つタイプ。
もし相手が単なるパワー馬鹿だとすれば、僕の能力との相性はそこまで悪くない。相手の攻撃を封じることは可能。
しかし、それはすべて頭の中での計算だった。現実問題、猛獣を目の前にして僕はその迫力に押され、何もできず、ただ立ち尽くすしかなかった。
男が、僕の姿の方に目を向けた。血まみれの顔は表情が読み取りにくい。だが、かろうじてわかった。憔悴と混乱、そして強い怒り。完全に正気を失っている。
「あ、うべぅ……おが、んごがああああ!」
言葉になっていない、うめき声。それが叫びに変わり、僕へと押し寄せてきた。
こちらに走って来ようとしている。挙動で察することができた。男の動きが、やけに鮮明に見えた。まるで自動車がぶつかってくるかのような威圧感だ。奴と僕との距離は、たったの5メートルほど。男は、その距離を一心不乱に潰そうとしている。
反応が遅れた。なにもかも、やることなすこと後手に回る。僕は男から伸びる鎖を見る。周囲にいる人間は、僕と男と角先の怪我人のみだ。探すまでもない。意外なことに鎖はそこまで汚れていない。いや、今はそんなことどうでもいい。とにかく鎖をつかむ。
やっとそこまで終えた。それまでに男は僕の眼前にまで迫り、右腕を振り上げている。素人の僕にでも横から大ぶりのパンチが来ると予測できた。それだけ隙が大きく、それだけ威力の高い攻撃だ。殴られればただでは済まない。男の拳の先には正体不明の刃物が突き出ている。打撲傷と裂傷で済めば御の字、もしあの刃物が攻撃の直後にさらに長く飛び出すような仕掛けでも隠されていれば、致命傷になりえる。絶対に当たりたくない。
もう相手は攻撃のモーションに入っている。今から悪意を吸い取ったところで遅すぎる。自力で避けるしかない。
そう頭の中で考えるのは簡単だ。足を一歩、後ろに下げる。敵のパンチを寸前で華麗にかわす。敵のボディはガラ空き。そこへカウンターを打ち込む。敵は吹っ飛ぶ。死ぬ。僕勝利。
できるわけない。一歩もその場から動けなかった。殺されるという恐怖が、どうしようもなく僕の心を支配する。足が震える。崩れ落ちそうになる。そして、腰が抜けた。
計算とかではなく、たまたまの偶然だったが、それが命を救った。尻もちをついて倒れた僕の頭上を拳が通過する。風を切る音が耳元をかすめる。続いてみしゃりという甲高い音が響いた。男の拳が空を切り、僕の横にあった窓ガラスに当たったのだ。一撃でクモの巣のようにヒビが広がっている。手加減なんて1ミリもない、全力で僕を壊すために練り上げられた殴打だったのだとわかる。
落ち着いている暇はない。僕はすぐさま男の悪意を吸い取った。人を殴る。それは明確な悪意ある行為だ。普通なら大量の錆が鎖から検出されることだろう。
しかし、この男の場合は違った。悪意がないわけではない。だが、少なかった。あれだけのことをしでかしたというのに、拍子抜けするくらいの悪意しか持っていない。僕は入ってきた悪意の性質を確かめる。
この男の悪意、そのほとんどは「破壊衝動」だった。とにかく目の前のものを壊したいという原始的な、動物的な暴力。殺意すらない。なんと弱々しい悪意。だというのに、これほど僕にとって厄介なものはない。
理性を失い、本能のままに暴れまわっているのだろうか。それがこの男の【武器】の副作用、のようなものなのかもしれない。この男が噂の殺人鬼なのだとすれば、その行動の理由も理解できる。理由なんてなかったのだ。ただ暴れた、人を殺した。それだけ。まさに正真正銘の殺人鬼である。
男は、うつろな目で僕を見ている。僕に対する破壊衝動を奪われたことで、興味関心をなくしたようだ。まるで路傍の石でも見ているかのような、ぶしつけな視線である。ただ、攻撃してくる様子はない。一安心だ。
いや、いやいや、それは早計だ。安心などまだできない。この男には理性がない。錯乱状態なのだ。何をきっかけに暴れだすかわからない。慎重に行動すべきだ。
もし森でクマに遭遇した時、どう対処するか。死んだふりはダメだが、クマを極力刺激しないようにするという方針は間違っていない。荷物を捨て、クマに背を向けないようにして、ゆっくりと後ずさる。
それに倣おう。僕は震えが抜けない脚に鞭打って中腰の姿勢になる。荒い呼吸、ばくばくと早鐘を打つような心臓、それらを抑えつけてできるだけ静かに。少しずつ、緩慢な動きで男から離れていく。こいつはいずれ倒さなければならないプレイヤーだが、今は引こう。撤退して作戦を練り直すんだ。殴り合いで決着なんて、どう考えても僕のキャラじゃない。
男に追ってくる様子はない。黙ってこちらを見てくるだけだ。とにかくここは生きた心地がしない。男の目が届かないところまで逃げよう。
刺激しない、それに尽きる。走って逃げたい衝動を抑え、細心の注意を払って後ろに下がる。だが、渡り廊下に戻り、もう少しで男の視界から逃れるというそのとき。
僕の後ろから、リズミカルな音が聞こえた。シューズが床を素早く蹴る、誰かがこちらへ走ってくる音だった。




