第8話 正しさは、命令の前で止まる
王都からの使者は、昼前に到着した。
馬車は一台。護衛は二名。装飾も誇張もない。
だが、胸元の紋章だけが、はっきりと「中央」を名乗っていた。
「ユリウス・フェルナー」
男は名乗った。
「王国財務監査局より派遣されました」
エマの肩が、わずかに強張る。
「……来るとは思っていましたが」
「想定より早い」
レオンはそう返した。
ユリウスは淡々と続ける。
「貴領で行われている財政情報の全面公開について、確認と是正を命じられています」
是正。
その言葉が、重く落ちた。
執務室。
誓約書の写しが、机の上に置かれる。
「この文書は、領主個人の責任で発行されたものですね」
「そうだ」
「王国法に照らし、違法ではありません」
エマが少し息をつく。
だが、ユリウスは続けた。
「しかし——」
視線が、誓約書の一行に落ちる。
「緊急時の定義が、存在しない」
レオンは、内心で小さく歯噛みした。
「災害、反乱、戦時——」
「いずれも、誰が判断します?」
ユリウスは即座に遮った。
「領主ですか? 中央ですか?」
沈黙。
それが、誓約書の“抜け”だった。
「王国としては」
ユリウスは事務的に言う。
「財政の安定を最優先します。よって——」
紙を一枚、差し出す。
臨時徴税命令
対象:辺境伯爵領リューン
理由:王国全体の財政補填
「……中央命令です」
ユリウスは視線を逸らさない。
「緊急時として、処理されます」
エマが声を上げた。
「それは……誓約書に反します」
「反していません」
ユリウスは静かに言う。
「“緊急時”の定義がない以上、中央判断が優先されます」
正論だった。
完璧な、制度の刃だ。
その夜。
館は、重い沈黙に包まれていた。
「……撤回しますか」
エマが聞く。
「誓約書を。今なら、“中央命令だから”で済みます」
それは、逃げ道だった。
ガルドも黙っている。
住民の反発。未納率の逆転。
どれも、現実的な未来だ。
レオンは、しばらく考えた。
——撤回すれば、制度は守れる。
——だが、信用は死ぬ。
「……やらない」
レオンは答えた。
「中央命令を拒否する?」
「正面からは、しない」
エマが眉をひそめる。
「では、どうやって」
レオンは誓約書を手に取った。
「これは、俺個人の誓約だ」
そして、別の紙を取り出す。
「中央納付分を、俺の給与と資産から補填する」
室内が凍りついた。
「それは……」
エマが言葉を失う。
「違法ではない」
レオンは淡々と続ける。
「俺の私財だ。領地の税ではない」
ユリウスが、ゆっくりと息を吐いた。
「……正気ですか」
「正気だ」
レオンは視線を上げた。
「誓約書は破らない。だが、命令にも背かない」
制度の隙間。
そこに、自分を差し込む。
翌日。
掲示板が、再び書き換えられた。
中央臨時徴税:実施
領地からの追加徴収:なし
不足分:領主私財より補填
ざわめきが、爆発した。
「……本当か?」
「嘘だろ」
「そこまでやるのか」
ミラは、掲示板の前で立ち尽くしていた。
「……そこまでしなくていいのに」
彼女は小さく呟く。
レオンは答えなかった。
これは、善意ではない。
信用を制度に定着させるための、代償だ。
夜。
未納率の速報が上がった。
未納率:35% → 29%
数字が、大きく動いた。
エマが震える声で言う。
「……これで、もう後戻りできません」
「最初から、そのつもりだ」
レオンは帳簿を閉じた。
誓約書の抜けは、塞がれた。
だが、その代わりに——
領主自身が、制度の一部になった。
ユリウスは帰り際、言った。
「あなたは、危険です」
「光栄だ」
「王国は、あなたを放っておかない」
「望むところだ」
馬車が去り、夜が戻る。
レオンは窓の外を見た。
この領地は、まだ弱い。
だが——
もう、簡単には壊れない。
第2章は、
「中央」という明確な敵を得て、
次の局面へ進んだ。




