第2話 誰も逃げていないのに、人がいない
翌朝、領主館の食堂はやけに広く感じられた。
長机の端に置かれた皿は三つだけ。使用人の姿はない。黒パンと、具のほとんど見えないスープ。味は悪くないが、気遣いもない。
「……少ないですね」
レオンが言うと、向かいに座るエマは平然と答えた。
「無駄を出さないように、と前任者が」
前任者、という言葉が軽い。
「人員は?」
「使用人は最低限です。給金が遅れたこともあります」
「……なるほど」
エマが書類を差し出した。
「人口の再確認です」
レオンは目を通す。
登録人口:五百二十七人
実働人口:推定三百人前後
「“推定”?」
「出入りの記録が機能していません。把握する気も、されていませんでした」
されていなかった、ではない。
されなくなったのだ。
「逃げた記録は?」
「ありません。徴兵も、災害も、強制移住も」
レオンはパンをちぎる手を止めた。
人が減るには理由がいる。
理由がない減少は、組織として異常だ。
「……視察に行こう」
「今からですか」
「今がいい」
エマは一瞬だけ黙ったが、否定はしなかった。
街路は、音が少なかった。
人はいる。だが話さない。挨拶はするが、目を合わせない。商店は開いているが、呼び込みはしない。
「活気がない、というより……」
エマが言いかけて止まる。
「期待がない」
レオンが続けた。
エマは頷いた。
農村に入ると、畑は耕されていた。作物は育っている。だが広げる様子がない。余剰を作ろうとしていない。
「飢えてはいないな」
「はい。最低限は回っています」
だからこそ、おかしい。
畑の端で、若い女性が作業していた。ガルドが声をかける。
「ミラ」
「……あ、ガルドさん」
彼女はレオンを見ると、少し緊張したが、逃げなかった。
「生活はどうだ?」
「……普通です」
その言葉に、レオンは違和感を覚えた。
「“普通”とは?」
「食べられます。寝られます。畑もあります」
「将来は?」
レオンが聞くと、ミラは一瞬だけ黙った。
「……考えていません」
それは拒否ではなかった。
考えるという発想がない顔だった。
「誰かを呼ぼうとは?」
「来ません」
即答だった。
「なぜ?」
「……どうせ、また変わりますから」
また、という言葉が刺さる。
「何が?」
「領主様の考えが。税が。約束が」
ミラは淡々と続けた。
「前も、支援がありました。でも次の年には、なくなりました。だから……」
畑の向こうに並ぶ空き家を見る。
「ここは、そういう場所です」
怒りも悲しみもない。
ただの“前提”だった。
館へ戻る途中、商人の一団とすれ違った。
中年の男が前に出る。
「ローゼン・クライツです。商人ギルドを代表して」
エマの空気が一瞬、張る。
「新しい領主様が来たと聞いて。歓迎しますよ」
笑顔は柔らかい。
「では、取引を」
レオンが言う。
「条件次第ですね」
「融資は?」
「難しい」
即答だった。
「理由は?」
「ここは——」
ローゼンは言葉を選ばなかった。
「見捨てられた土地ですから」
レオンの中で、何かが僅かに軋んだ。
「それは誰が決めた?」
「市場です。信用です。感情ではありません」
正論だった。
腹が立つほど、正しい。
「前任者が約束を破った。その責任を、今のあなたが背負う」
「合理的だな」
「ええ。だから我々は、現金取引しかしません」
ローゼンは一礼し、去っていった。
敵意はない。
だが、助ける気もない。
夜。
帳簿の前で、レオンは黙っていた。
税収は落ちている。
支出は削られている。
借金は、ほとんどない。
「……逃げてない」
レオンが呟く。
ガルドが酒を持って現れた。
「何がだ」
「人だ」
ガルドは少し考え、椅子に腰を下ろした。
「昔はな。みんな“戻るつもり”で出ていった」
「……戻らなかった?」
「戻る理由が、なくなった」
レオンは目を閉じた。
人が減ったのではない。
未来が削られたのだ。
「改革は……」
エマが言いかける。
「逆効果だ」
レオンは遮った。
「今、何かを“与えた”ら——また奪われると思われる」
エマが理解したように息を吸う。
「……信用がない場所で、善意は疑われる」
「そうだ」
レオンは立ち上がり、窓の外を見た。
灯りはある。
生活はある。
だが誰も、先を見ていない。
「まずやることは一つだ」
「改革ではない?」
「違う」
レオンは帳簿に新しい紙を挟んだ。
――信用回復計画(暫定)
「まず、“疑われる”ところから始める」
エマは小さく頷いた。
「……税の使途公開ですね」
「それだけだ。今は」
数字は嘘をつかない。
だが、
数字を信じる理由を、人は失っていた。




