第1話 数字しか残っていなかった領地
この物語には、派手な戦闘も、万能な英雄も出てきません。
出てくるのは、
失敗する領主、
間違えない役人、
そして、正しさに疲れていく人々です。
もしあなたが、
「なぜ正しいはずの制度が、現場を壊すのか」
「なぜ成功事例は、再現できないのか」
そんな疑問を一度でも持ったことがあるなら、
この物語は、きっと合います。
これは、
世界を救う話ではありません。
世界が、どうやって静かに間違えていくかを、
記録する物語です。
任命状の封蝋は、やけに丁寧だった。
赤い蝋に刻まれた王印は、まるで「これは正式な処分だ」と言いたげで、レオンはそれを指で弾く気にもなれず、机の上に置いたまま眺めていた。
「辺境伯爵領管理代行。任期三年。収支改善が認められない場合——」
文官の声が淡々と続く。読み上げる口調は、役所の掲示板を読むのと同じだ。そこに善意も悪意もない。だから余計に、決定事項の重さだけが響く。
レオンは頷いた。
頷ける理由があったわけではない。頷かない選択肢が、最初から存在しないのだ。
「……質問は?」
「ありません」
自分の声が思ったより平坦で、レオンは少しだけ安心した。感情を見せると、そこから交渉が始まる。交渉が始まれば、負けが確定する。今の立場でそれをするのは愚かだ。
文官は紙を巻き直し、羽根ペンを置いた。
「では、署名を」
レオンが名前を書くと、書類はすぐに封筒に戻され、机の引き出しへ消えた。まるで彼の人生の一部が、役所の書庫へ仕舞われたようだった。
部屋を出ると、廊下の空気が冷たい。
窓の外では王都の屋根が整然と並び、遠くの尖塔が薄い霧に沈んでいる。人は多い。市場は賑わい、馬車は走り、税も噂も恋も、ここでは循環している。
その循環から外れた場所が、辺境だ。
そして今、レオンはそこへ送られる。
「……三男に、ちょうどいい仕事ですね」
後ろから聞こえた声は、同情でも励ましでもなかった。事実の確認だ。
振り返ると、若い女文官が立っていた。淡い灰色の制服、髪はきっちりとまとめられ、目だけが鋭い。名札には《エマ・リーヴェン》とある。
「あなたが……」
「新任の領主館書記官です。王都から派遣されました。以後、書類・契約・税関連の実務は私が担当します」
「……よろしく」
そう言った瞬間、レオンは気づいた。
彼女は「よろしく」と言われ慣れていない。微かに眉が動いた。感情ではなく、手続きとして返事を受け取った顔だ。
「先に言っておきます。リューンは、数字が壊れています」
「……数字が?」
「帳簿上の数字です。現地に着いたら見せます。覚悟を」
覚悟。そんな言葉を役所の人間が使うのは珍しい。
レオンはそれ以上聞かなかった。聞けば不安になる。不安になれば余計なことをする。余計なことが一番危ない。内政は、感情で動いた瞬間に負ける。
——そう、頭では分かっている。
けれど馬車に乗り込んだ後、王都の城壁が遠ざかるにつれ、胸の奥が少しずつ冷たくなった。
数日後。
辺境伯爵領の門は、門として機能していなかった。
木製の柵は半分が倒れ、見張り台の上には誰もいない。門番に相当する老人が椅子に座っていて、レオンの馬車を見ると、ゆっくり立ち上がった。
「……ああ。新しいお方かい」
「レオン・アルヴェルト。今日から、この領地の管理を任される」
「そうかい。大変だねえ」
それだけ言って、老人は門を開ける仕草をした。仕草だけだ。実際には門は既に開いている。閉めようがない。
馬車が中に入ると、街路が続いていた。続いてはいるが、歩く人が少ない。店が少ない。窓が閉まっている家が多い。
空き家だ。
しかも空き家が「最近」増えたのではない。木の歪みと屋根の苔が、放置された時間を語っている。
「……人が」
エマが言う。
「はい」
レオンは短く返した。
人がいない。
その事実は視覚で痛いほど分かるのに、不思議と絶望は湧いてこなかった。代わりに、別の感覚があった。
——違和感。
村や街が衰えるとき、普通はまず「乱れる」。争いが起き、盗みが増え、怒鳴り声が飛ぶ。人間は追い詰められると、いきなり静かにはならない。
だが、ここは静かすぎる。
音がないわけではない。風の音はある。馬の蹄の音もある。遠くで子どもが笑う声もした。
それなのに、街が「諦めている」ように見えた。
領主館は丘の上にあった。石造りの建物で、外観だけは立派だ。だが近づくほど、修繕されていないのが分かる。壁の亀裂、割れた窓、雨漏りを誤魔化した板。
扉を開けると、中はさらに現実的だった。
「ようこそ。……お久しぶりです、領主様、と呼べばいいですかね」
出迎えたのは、筋肉の落ちた壮年の男だった。片足を少し引きずり、腰に下げた剣は飾りに近い。だが目だけはまだ死んでいない。
「ガルド・バルツ。元領兵隊長です。今は……雑用係みたいなもんです」
「護衛はいないのか」
「護衛する相手がいねえんで」
乾いた笑い。
レオンは館内を見回した。使用人は少ない。廊下は掃除されているが、磨かれていない。最低限の維持で限界だと分かる。
「帳簿を見せてください」
レオンが言うと、エマは一瞬だけ目を細めた。
「到着早々に?」
「まず現状を把握したい」
ガルドが肩をすくめ、奥の部屋へ案内した。
執務室は広い。だが家具は古い。机の上には紙束が積まれ、蝋燭の煤が天井に薄く残っている。そこに「領主が代わる」という緊張はなかった。書類がただ積み上がっているだけだ。
エマが鍵付きの箱を開ける。中から取り出された帳簿は、紙の端が擦れていた。
「こちらが、過去五年分の税収と支出」
「……五年」
レオンは椅子に座り、帳簿を開いた。
最初のページ。
税収——前年対比、マイナス。
次の年も、マイナス。
さらに次も、マイナス。
滑らかな下降線。まるで誰かが丁寧に「終わり」を描いたみたいに、一定の角度で落ちている。
支出のページに目を移す。
……増えていない。
むしろ削られている。修繕費、治安維持費、予備費。必要なものが削られ、削られ、削られた結果、最低限しか残っていない。
「……使ってない」
思わず声が漏れた。
エマが頷く。
「はい。使えていません。正確には——使う前に消えています」
「消える?」
「中央税です。王都が定めた納付額が、年々増えた。にもかかわらず領地の税収は下がっている。結果、領地の中で回す金がなくなる」
レオンは計算した。
税収が下がって、納付額が上がる。領地は赤字になる。当然だ。だが、それなら支出は「増える」のが普通だ。赤字を埋めるために借金が増える。どこかから金を持ってくる。
だがこの帳簿は違う。
借金の欄が、ほとんどない。
「……借りてない?」
「借りられないんです」
エマの声が少しだけ硬くなる。
「この領地は信用がない。融資を断られています。取引も縮小しています。商人は現金取引しか受けない。契約が成立しない」
信用。
その単語が出た瞬間、レオンの違和感が形になった。
街の静けさ。諦めた空気。未来の話を誰もしない感じ。
貧しいからではない。
——信じられないからだ。
レオンは帳簿を閉じ、机の上に置いた。
「エマ」
「はい」
「この領地の税収が減っている理由を、住民の“怠け”で説明できるか?」
「できません」
「なら、理由は別にある」
ガルドが鼻で笑った。
「理由なら簡単だ。人が出ていった。若いのが消えた。働き手が減った。終わりだ」
「人が出ていった理由は?」
「そりゃ——」
ガルドが言いかけて、止まった。
答えが一つではないからだ。
レオンは立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音がやけに大きい。
「まず確認する。税の流れ。契約の流れ。人の流れ」
「……改革は?」
エマが聞いた。表情は相変わらず冷静だが、そこに「試す目」がある。
レオンは首を横に振った。
「まだしない。改革は、信用がない場所でやると——ただの餌になる」
「餌?」
「良いことをしても、奪われると思われる。だから人は戻らない」
言い終えたとき、自分の声に微かな震えが混じっているのを感じた。怖いのだ。ここが、自分が思っているより深く壊れている可能性がある。
しかし、恐怖は手続きに変えるしかない。
レオンは窓の外を見た。
丘の下に、静かな街が広がっている。誰も叫ばない。誰も期待しない。なのに、完全に死んではいない。
なら、やることは一つだ。
「——帳簿は嘘をつかない」
レオンは机の上の帳簿に手を置いた。
「使われていない金は、どこへ行った。誰がそれを“消した”。そして、どうすれば——“未来を計算できる領地”に戻せる」
エマが一拍遅れて答える。
「……調べましょう」
ガルドは呆れたように笑い、けれど視線だけは少し真面目になっていた。
「好きにしろ。……ただし、期待はするなよ」
レオンは頷いた。
期待されないことは、慣れている。
だが。
——数字だけは、期待を裏切らない。
帳簿の紙は冷たく、そこに並ぶ数字は、やけに整っていた。
まるで、崩壊の手順だけが完璧に管理されてきたみたいに。
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