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第11話 【過去編】ノーベル賞候補の教授は、その配信に「宇宙の真理(ゆらぎ)」を見た

深夜1時。 国立大学の第3研究棟、最奥の部屋。 黒板とホワイトボードで埋め尽くされたその部屋は、チョークの粉とコーヒーの香りが充満していた。


「……違う。これでもない」


男が一人、頭を抱えていた。 彼の名は、如月きさらぎ 恭介きょうすけ。 若くして量子物理学の権威であり、次のノーベル物理学賞の最有力候補と囁かれる天才学者だ。


しかし、今の彼はただの憔悴しきった男だった。 彼が挑んでいるのは『大統一理論』の完成。 この宇宙を支配するあらゆる法則を、たった一つの美しい数式で記述するという、物理学者の悲願だ。


「計算は完璧なはずだ。なのに、なぜ『現実』とズレる?」


数式上では完璧な世界。 だが、現実の観測データには、常に微細なノイズ――「予測不能なゆらぎ」が混じる。 この「ゆらぎ」を計算式に組み込めない限り、理論は完成しない。


「カオスだ。不確定性だ。……ああ、この宇宙はなんて不完全で、醜いんだ」


恭介はチョークをへし折った。 完璧主義者の彼にとって、計算通りにいかない世界など、ストレスの塊でしかなかった。


「……少し、脳を冷やすか」


彼は息抜きのために、手元のタブレットを起動した。 普段なら論文を読むところだが、今は文字を見るのも嫌だった。 無作為に動画サイトを開き、思考を停止して眺める。


おすすめ欄に、場違いなほど緩いサムネイルがあった。


『同接1人』 タイトル:『【実写】トランプタワー作ります。息を止めて見守ってね』


「……トランプタワー? アバター配信者が実写で? 非生産的な」


指が止まる。 不安定なカードを積み上げる行為。それは重力と摩擦、そして空気抵抗との戦いだ。 物理学者として、その「バランスの崩壊」を見るのも悪くない。 彼は皮肉な笑みを浮かべて、その配信を開いた。


   ◇


画面には、ワイプ(小窓)に銀髪の狐耳アバター、小狐ルルが映っている。 そしてメイン画面には、黒い布が敷かれたテーブルと、トランプを積む「手元」だけが映し出されていた。


「あー、揺れる揺れる! 息しないでねみんな!」


その映像は、異様だった。 映っている「手」は、指先までぴったりとした黒いゴム手袋で覆われている。 さらに、手首から先は分厚いジャージの袖を限界まで伸ばしており、肌の露出は1ミリもない。 背景も、黒いカーテンで完全に遮断されている。


(……徹底しているな)


恭介は感心した。 これは「身バレ防止」――性別や年齢を特定させないための偽装工作なのだが、学者の恭介には違って見えた。


(皮膚の油脂による摩擦変化を防ぐゴム手袋。気流の乱れを抑えるための袖の固定。そして視覚情報を遮断する暗幕……。この配信者、実験環境エンバイロメントの変数を極限まで減らそうとしているのか?)


素人の遊びではない。 純粋な「物理現象」だけを抽出するための、ストイックな実験に見えたのだ。


だが、その手つきは実に危なっかしかった。 震える黒手袋。重心の取り方が甘い。 恭介の計算では、あと2段積んだ時点で、右側から崩壊するはずだった。


(……イライラする。環境は完璧なのに、施工者がポンコツすぎる。そこは右じゃない、左に重心を……)


そして、運命の瞬間が訪れた。 ルルが、最後の頂点のカードを置こうとした時だ。


「……へくちっ!」


ルルが、盛大にくしゃみをした。 その衝撃で、マウスを持つ手……ではなく、実写の方の黒手袋の手が大きく痙攣した。


(終わったな)


恭介は画面を閉じようとした。 ゴム手袋のグリップ力が仇となり、タワーをなぎ倒す。 それが「エントロピー増大の法則」。覆せない宇宙の理だ。


しかし。


パサッ。


「……は?」


恭介の目が点になった。 崩れるはずだったタワーが、崩れていない。 それどころか、痙攣した黒い指先が、隣のカードに絶妙な角度で接触し、崩れかけていたバランスを「強引に修正」してしまったのだ。 結果、タワーは物理的にありえないような奇抜な角度で静止し、芸術的なアーチを描いて完成していた。


「あ、危なかった~! ……え、なんかすごい形になってない!?」


画面の中のアバターが、きょとんとしている。 黒手袋の手が、恐る恐るタワーから離れていく。


恭介は震える手で、その静止画をキャプチャし、解析ソフトにかけた。 重心、摩擦、ゴム手袋の反発係数。 計算結果が出た。


『存在確率: 0.000000001%』


理論上は「崩壊」が正解だった。 だが、ルルの「くしゃみ」という完全なノイズ(ゆらぎ)が介入したことで、奇跡的な安定構造が生まれたのだ。


「……そうか」


恭介は立ち上がった。 脳内で、止まっていた数式が激しく回転し始める。


「私は排除しようとしていた。『ノイズ』を、『誤差』を。……だが、違う! この『予測不能なゆらぎ』こそが、世界を崩壊から救い、形作っている因子ファクターなんだ!」


徹底して環境を管理(身バレ対策)してもなお溢れ出る、ルルの人間味。 その計算できない「愛すべきマヌケさ」が介在して初めて、宇宙は完成するのだ。


「見つけた……。これだ。私が求めていた『特異点』は、ここにあったんだ……!」


   ◇


彼は白衣を翻し、ホワイトボードに向かった。 数式に、新たな変数を書き加える。 変数『L(Lulu)』。 それは「確率を超越して、カオスを秩序に変える」魔法の定数。


数式が、美しく繋がっていく。 長年の苦悩が、嘘のように晴れていく。 彼は狂気じみた笑い声を上げながら、再びタブレットに向き直った。


「感謝しなければ。……この、偉大なる観測対象に」


彼はアカウントを作成した。 名前は、敬意を込めて『ドクター』。


そして、完成したばかりのトランプタワーを、黒手袋の両手でバンザイして喜ぶルルに、コメントを送った。


『スパチャ: ¥10,000』

『ドクター: 美しい。君のくしゃみは、エントロピーを凌駕した』


「えっ!? い、いちまんえん!? ドクターさん!? エントロピーって何!? わかんないけど、褒められてるのかな!? ありがとう!!」


ルルは慌ててお礼を言っている。 その無知さすら、恭介には「高次元の知性が、あえて愚者を装っている」ように見えた。


「……観察を続けよう」


恭介は冷めたコーヒーを飲み干した。 味は変わらないはずなのに、なぜか今日は格別に美味く感じられた。


「彼の行動原理アルゴリズムを解明できた時こそ、私は神の領域に達するだろう」


こうして、ノーベル賞候補の天才学者は、学会の定説ではなく、一人の配信者の「挙動」を研究テーマに定めた。 後に、彼が開発する数々のオーバーテクノロジー発明品が、全て「ルルちゃんの配信を快適に見るため」に作られることになるのは、学会にとって幸か不幸か――。

本日のメイン登場人物


小狐ルル:トランプタワーを配信に選ぶなかなかクレイジーなバ美肉Vライバー。


如月きさらぎ 恭介きょうすけ: 若くして量子物理学の権威であり、次のノーベル物理学賞の最有力候補と囁かれる天才学者。HN:ドクター。まんまである

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