第3話:崩壊と再生
世界が軋んでいる。
私の脳の許容量は、とうに限界を超えていた。
魔王の間。
視界の端で、またカイルが首を刎ね飛ばされた。
――ザザッ!
直後、時間が巻き戻る。
「……くそっ、また駄目か。パターン4,208。魔法使いの展開速度が0.2秒遅い」
巻き戻った世界の開始地点で、カイルが小さく舌打ちをする。
彼の白銀の鎧は、まだ傷一つついていない。
けれど、私の脳内には、彼がこの部屋で積み重ねた四千回以上の「死」の記憶が、腐った泥のように堆積していた。
四千回だ。
ある時は焼かれ、ある時は凍らされ、ある時は仲間を庇って身体を食いちぎられた。
そのすべての苦痛、すべての断末魔が、私の頭の中で反響している。鼻からツーと垂れたものが、赤い血であることにも、もう驚かない。
「次はパターン4,209でいこう。みんな、僕の合図に合わせて動いてくれ」
カイルが爽やかに指揮を執る。
誰も気づいていない。彼が、たった一つの「無傷の勝利」を掴むために、数千の屍を積み上げていることに。
(もう、やめて……カイル)
彼の求める「完璧」は、どこにもない。
魔王は強大すぎる。誰かが傷つくことを許容しなければ、この戦いは終わらない。
けれどカイルは、誰かが擦り傷一つ負うことさえ許さない。「あ、僧侶が転んだ。美しくない」――そんな理由で、彼は自分の心臓を突き、世界をリセットする。
私の愛した人は、もう英雄ではない。
彼は、終わりなき迷路に囚われた、孤独な子供だ。
誰にも相談せず、誰にも頼らず、たった一人で数千年の時を繰り返し、「誰も傷つかない世界」という絵空事を探し続けている。
(私が……終わらせなきゃ)
聖杖を握る手が震える。
彼をこの無限地獄から救い出す方法は、たった一つ。
彼が「取り返しがつかない」と絶望するほどの、決定的な「傷」を現実に刻み込むこと。
「――来るぞ! 散開!」
魔王が黒い瘴気を纏った大剣を振り上げる。
カイルの予測通り、それは魔法使いを狙った一撃だった。
カイルが動く。彼は魔法使いを突き飛ばし、自分がその刃を受ける軌道に入る――そして、被弾の瞬間に「死に戻り」を発動するつもりだ。
私は、走った。
足がもつれる。肺が焼ける。
それでも、カイルが「死」を選ぼうとするその座標へ、私は身体を滑り込ませた。
「え――?」
カイルの驚愕の顔が見えた。
彼の計算にはない動き(バグ)。
次の瞬間、視界が真っ赤に染まり、私の左半身から感覚が消し飛んだ。
ドサッ。
何かが床に落ちる重い音。
遅れてやってくる、灼熱の激痛。
「あああああああああっ!?」
私の口から絶叫が迸る。
左腕がない。肩から先が、無惨に切断され、床に転がっている。
傷口から噴き出す鮮血が、カイルの純白の鎧を汚した。
「エ、エリス……!?」
カイルが顔面蒼白になり、私を抱き起こす。
彼の瞳が激しく揺れ、焦点が定まらない。
「なんてことだ、失敗だ……! こんなのダメだ、やり直さないと……すぐに戻って、君が走らないように……!」
彼は震える手で短剣を取り出し、自分の首に当てようとした。
思考停止。条件反射的なリセット。
私の腕が切断されたという「汚点」を消去するために。
「させ……ないっ!」
私は残った右腕で、カイルの胸倉を掴んだ。
ありったけの力で彼を引き寄せ、その唇を塞ぐ。
口づけではない。これは、接続だ。
私の脳を蝕む「死の記憶」の奔流を、その発生源である彼に叩き返すための、魂のパスの強制開放。
(思い出して、カイル! あなたが捨ててきた、すべての「生」を!)
ドクンッ!!
二人の心臓が重なり、跳ねる。
ダムが決壊したように、私の中に溜め込まれていた数千回分の「時間」が、カイルの脳内へ逆流した。
「が、ぁ……!? あ、あガガガガッ!?」
カイルの身体が弓なりに反る。
彼の脳裏に、彼自身が「なかったこと」にした数千の人生が、走馬灯となって暴れ狂う。
――泥だらけで辛勝し、死んだ戦士を囲んで涙を流した世界。
――「勝ったな」と笑い合い、片目を失った魔法使いと肩を抱き合った世界。
――全身に火傷を負いながら、それでも生きて帰れたことを喜び、祝杯を挙げた世界。
――そして、頬に消えない傷を負った私が、「生きててよかった」とカイルに微笑みかけ、愛を告げた世界。
それらは全て、カイルが「0点」と断じ、リセットボタンを押して消去した世界だ。
不格好で、泥臭くて、痛みに満ちていて――けれど、確かに体温のあった「生」の輝き。
(見てよ、カイル。これが、私たちが生きた証だったの)
(傷つかないことが幸福じゃない。傷つきながらも、今日まで歩いてきた道のりこそが、私たちの人生だったんじゃないの!?)
私の心の叫びが、直接彼の魂を殴りつける。
カイルの瞳から、ボロボロと涙が溢れ出した。
「あ……ああ、あ……」
彼は見たのだ。
自分が「ゴミ」として捨ててきた時間の山の中に、かけがえのない笑顔や、尊い涙が埋もれていたことを。
完璧な世界を作ろうとして、自分が最も大切な「人間の営み」を殺し続けてきたことを。
「う、お、えええええええっ!!」
カイルが私を突き飛ばすように離れ、床に手をついて嘔吐した。
自己嫌悪。罪悪感。数千回分の死の感触。
それらが内臓を裏返しにするような勢いで、彼の喉から噴出する。
彼は気づいてしまった。
自分が「救世主」などではなく、誰よりも多くの仲間を殺し、誰よりも多くの未来を摘み取ってきた「虐殺者」であったことに。
「僕、は……なんてことを……うっ、げぇええっ!」
物理的な吐き気と、精神的な拒絶反応。
彼は自分の手が血に塗れている幻覚を見て、狂ったように床を掻きむしる。
パリンッ。
その時、甲高い音が空間に響いた。
カイルを縛り、私を縛っていた因果の鎖。
「完璧な世界」への執着という名のシステムが、彼の心の崩壊と共に砕け散った音だった。
時間が、止まらない。
カイルが嘔吐し、私が腕を失って血溜まりに沈んでいる、この最悪で残酷な「現在」が、もう二度と巻き戻らない現実として固定される。
魔王が、ゆっくりとこちらへ歩を進めてくる。
リセットはもうできない。
私たちは初めて、やり直しのきかない「たった一度の命」で、この絶望と向き合うことになる。
薄れゆく意識の中で、私は思った。
痛い。寒い。怖い。
……ああ、やっと「生きて」いる。
ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全4話完結済み】です。
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