1990年代:東欧大蜂起とドイツ革命国家の終焉
Ⅰ. 直前の状況(1989)
国 状況
ソ連 ペレストロイカの結果、支配ではなく「緩衝と均衡の帝国」へと変質
イタリア 再統一に成功し、西欧の安定核へ
日本 中国沿岸経済圏を掌握、アジアの安定軸へ
東欧 表向きは平静、だが社会は沸騰寸前
ドイツ共産政権 「革命の守護者」から「過去に取り残された政権」へ転落
そして決定的な差が生まれる:
ソ連は“持続する帝国”へと変わった。
ドイツは“自己保存のために革命を強制する帝国”のままだった。
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Ⅱ. 導火線:ポーランド・スロバキア同時蜂起(1990年3月)
両国のスローガンは同一だった:
「我々はドイツの盾ではない」
• ポーランドでは 自由労組が非合法スト を指導
• スロバキアでは 大学から始まったデモが都市封鎖 へ拡大
ドイツ政府は再び 「友好防衛条約」 を口実に介入を宣言。
だが今回は違う:
ソ連は公然と 不支持声明 を出す
「ドイツは独自判断で行動している。
ソ連はいかなる軍事行動にも関与しない。」
→ ドイツは外交的に孤立した状態で侵攻を開始することに。
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Ⅲ. 軍の分裂(1991年)
チェコ・ポーランド・スロバキアでの治安出動は泥沼化。
兵士が現地住民と 言語・宗教・生活を共有している ためだ。
現場で何が起こるか
ドイツ軍前線兵士 ドイツ共産党指導部
「なぜ我々は自分と同じ人間を撃つのか?」 「革命は妥協した瞬間に死ぬ」
民衆と交流、同情、交友 イデオロギーの純度に固執
反乱に同調 武装継戦命令
→ 前線部隊で脱走・投降・地域側への合流が発生。
歴史上最大の「政治的士気崩壊」。
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Ⅳ. 決定的瞬間:ライプツィヒ市民蜂起(1991年10月)
ライプツィヒは、ドイツ共産革命の象徴都市。
しかしその大聖堂で、司祭は告げる:
「革命を守ることは、革命に従うことではない。」
市民10万人デモ → 武装警察の鎮圧命令 →
だが 警察部隊が命令を拒否。
大聖堂の鐘が鳴り響き、
人々は 静かに、しかし圧倒的に中央政府へ逆流を始める。
革命は、革命自身によって否定された。
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Ⅴ. 崩壊(1992年)
政権崩壊の形
• 暴力で倒れるのではなく、命令が発せられなくなる
• 中央委員会は内部分裂 → 亡命・拘束・隠退が連続
• 国境は開き、政治亡命者が逆流ではなく「帰国」し始める
新体制の成立
• 「ドイツ連邦共和国」復活
• しかし西欧への完全合流ではなく、中部ヨーロッパの独立的中規模連邦国家として再出
発
• NATOにもワルシャワ条約にも属さない 第三極の文明国家 となる
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Ⅵ. 歴史的意味
国家 変化
ソ連 武力ではなく 秩序の管理を優先する帝国として再定義される
ドイツ 「革命国家」から「歴史・文化・諸都市の共同体国家」へ
東欧 民族と市民による自発的自治圏が再生
欧州 米ソ二極ではなく、「多極文明圏としての大陸」へ移行
冷戦は、勝敗ではなく、
“革命の終息”という形で終わった。
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総括
• ドイツは 軍事的に負けたのではない。
• 理念の孤独に負けた。
• そして世界は イデオロギーではなく、自治と都市と共同体を軸とする秩序へ向かった。




