ソ連のアフガン侵攻(1979–1988) “中華では調停者、アフガンでは帝国者”という二つの顔
Ⅰ. 発端(1978–1979年)
ソ連が「中国には軍事介入しなかった」理由
• 中国は広大すぎ、民族も多層
• 日本・米国が沿岸部に利権を保持している
• 統治コストが 帝国を破壊する可能性 があった
→ だから “調停者”の立場を得る ことで利益を最大化した
しかし、アフガニスタンは条件が違った
要素 中国 アフガン
面積・人口 巨大 低密度
利害関係国 日・米・欧・印・東南アジア ほぼイラン・パキスタンのみ
ソ連からの距離 長距離補給 国境隣接
想定される占領コスト 極大 ソ連指導部は 「小規模で済む」 と誤認
つまりアフガンは「帝国の限界を試すには小さい舞台」だと思われた。
これが致命的な読み違いとなる。
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Ⅱ. 侵攻の「名目」と実際の目的
表向きの理由
• アフガン革命政府内の内紛を「安定化」する
• イスラム急進派の影響を南部中央アジアに入れない
本当の目的(軍部・KGBの視点)
• 対イスラム防波堤の構築
• 軍の威信維持(ベリア暗殺後の権力再編の副作用)
• “中国調停による温和化” に不満を持つ強硬派への処方箋
参謀本部の誤算
• 山岳戦は「制圧」ではなく「消耗」になる
• 部族は国家より古い共同体である
• イスラム聖戦思想は近代軍事力に容易に屈しない
「勝てる戦争」と考えたのは、都市の論理で砂漠と山を理解していなかったから。
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Ⅲ. 作戦序盤(1979–1981年):電撃戦と誤った成功
• ソ連空挺軍がカブールと主要空港を制圧
• 共産系暫定政権を樹立
• 首都・幹線道路・油田地帯・ダム・行政区画を「地図通り」に掌握
しかし——
• それは「地図の上の勝利」であり、地形上の勝利ではなかった。
アフガンは都市を支配しても 山と谷間の道 を支配しなければ統治できない。
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Ⅳ. 戦争の本質(1981–1986年):山岳ゲリラ戦と消耗
ムジャヒディンは、軍隊ではなく 地形そのもの だった。
ゲリラ戦の特徴
• 谷 → 伏撃
• 峠 → 寒さと飢え
• 住民 → 情報網
• 退路 → 国境の向こう(パキスタン)
ソ連軍は機甲力と航空力では優れていたが:
ソ連の弱点 内容
兵は都市型・正規戦訓練 山に適応できない
戦車と装甲車が谷で使えない 機動力と火力が封じられる
補給線が一本しかない 破壊・遮断され続ける
現地協力者を作れない 勢力は部族ごとに分裂
そして何より:
ソ連兵は「なぜ我々はここにいるのか」を理解できなくなった。
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Ⅴ. 国内に広がる亀裂(1984–1987)
兆候
• 従軍経験者の帰還兵が 精神外傷を持ち帰る
• 母親の会(戦死者遺族団体)が反戦運動化
• 経済負担が重くなり、工業生産に滞りが生じる
• ソ連の若者の間で「この国は何を目指しているのか」という根源的疑問が広がる
アフガンは 帝国の精神を摩耗させる戦争 になった。
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Ⅵ. 撤退(1988)
ソ連は勝利宣言とともに撤退した。
だがそれは “名目上の勝利”で、“実質的な撤退” であった。
• アフガンには統一国家は結局成立せず
• ソ連の威信は低下したが崩壊には至っていない
• 「中華で賢く振る舞い、アフガンで無駄に出血した帝国」 という評価が定着
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総括
中華では、ソ連は“秩序の保証者”だった。
アフガンでは、ソ連は“帝国の影の過去”へ戻ってしまった。
その結果、1980年代以降の国際秩序はこう変わる:
地域 影響
欧州 ドイツ共産圏は弱体化を意識しはじめる
東アジア 日本が「安定の軸」としてさらに強まる
ソ連内部 軍と民衆の距離が開き、改革圧力が高まる
つまり:
ソ連はまだ崩壊しない。
だが“帝国としての寿命が縮み始めた”のがアフガンである。




