ローマ解放戦(1979年9月〜1980年3月) 永遠の都は、包囲を破り、自ら呼吸を取り戻した
Ⅰ. 戦況の決定的転換点(1979年9月)
ナポリ解放により、状況は根本から反転した。
要素 北イタリア包囲軍 南イタリア+英米軍
補給 限界(山越え・長距離輸送) 海と鉄道で安定供給
士気 統一理念が曇り始める 「ローマを取り戻す」という確信
軍隊構造 機械化は維持されるが人員が摩耗 再編成により質が上昇
民衆支持 占領軍扱いされ始める 都市共同体と教会が結束
つまり:
まだ戦えるのは南側だった。
北側は“勝てない戦争”を続けている状態に入った。
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Ⅱ. 連合軍の作戦計画
作戦名:Operazione Roma Libera(ローマ解放作戦)
目的
• ローマ市街に直接突入しない
• 包囲網の“首”を切る
つまり:
(北軍)
↓ 包囲 ↓
[ローマ] ←正面攻撃せず
↑
[南軍+英米軍] → 包囲軍背後の補給路を切断する
攻撃目標は ローマではなく、補給線(オルヴィエート〜ヴィテルボ〜シエナ方面)。
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Ⅲ. 反攻の開始(1979年11月)
1. トスカーナ断層突破
• 英陸軍と南イタリア義勇軍が シエナ周辺の山岳回廊を突破
• 北軍補給中枢の輸送車両が破壊されはじめる
2. ローマ包囲軍の分断
• 米海兵隊と機械化部隊が ヴィテルボ高原を急進
• 包囲線は 東西で二つに裂ける
3. ローマ市内での“内側からの反攻”
• 市民義勇団が、包囲軍が薄くなった路地に対して 局地蜂起
• 司祭と修道士が避難経路と連絡を統制
• 教会の鐘が狼煙として使われる
ローマ市民は、解放軍を外から待つのではなく、内から勝利を迎えにいった。
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Ⅳ. ローマ解放(1980年2月14日)
その日の情景
• ローマ北門 ポルタ・デル・ポポロ
そこに最初に現れたのは米海兵隊ではなかった。
→ 南イタリア市民義勇軍だった。
• 続いて英軍・米軍・イタリア王党派部隊が入城
• 北軍の撤退は組織的で、崩壊ではなかった
※ここが戦争の“次の章”につながるポイント
バチカンの振る舞い
サン・ピエトロ大聖堂前で法王は短い言葉を発した:
「ローマは殺されなかった。ローマは耐えた。」
この言葉は後に 戦争の精神的結語 とされる。
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Ⅴ. なぜローマは落ちなかったのか
要因 説明
都市共同体が崩壊しなかった 市民・教会・地方ネットワークが持続した
象徴は軍より強い 「ローマを失う=イタリアの死」という意識
南の社会は“戦争国家”ではなく“都市国家” 軍が弱くても社会が戦った
北軍は理念を失った “統一”が“占領”へと意味転倒した
→ 戦争において、強い軍隊は都市を奪えるが、
都市を生かし続けることはできない。
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Ⅵ. ローマ解放の意味
影響領域 内容
イタリア国内 北の統一思想が決定的に後退
欧州 「赤いイタリア」の拡大構想は終焉
宗教 バチカンは“信仰ではなく社会を守る力”を証明
国際秩序 ソ連と西側の境界線がイタリア南北で固定されることになる
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総括
ローマは武力で勝ったのではない。
ローマは都市としての記憶と共同体が、生き残る形を選んだから勝った。
北は 軍事的敗北 ではなく、
理念の敗北 を経験する。




