南イタリア ― 「カエサルなきローマ」の崩壊(1968〜1974)
Ⅰ. ムッソリーニ体制の延命と変質(1945〜1960)
史実では処刑されるムッソリーニは、この世界では
**南イタリア(ナポリ〜ローマ)に後退し、連合国支援で“緩やかな独裁国家”**として生
き延びています。
• 彼は「ファシズム」そのものを保持するのではなく、
**「イタリア民族による対共防衛国家」**として再定義する。
• 日本・英国は、北イタリアの赤化を抑えるため、あえてムッソリーニ政権を黙認。
結果:
• 南イタリアは “反共保守国家” となる。
• しかし、経済基盤は弱い農村部と観光に偏り、恒常的な財政不足に苦しむ。
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Ⅱ. 支配の正統性の崩壊(1960年代)
1. 南北格差の固定
• 北イタリア(トリノ・ミラノ)は工業化し、社会的福祉も充実。
• 南イタリアは失業・貧困・移民依存のまま。
→ 若年層は「北こそ本来のイタリアだ」「ミラノに働きに行かせろ」と不満を募らせ
る。
2. ムッソリーニの政治手法の疲弊
老いたムッソリーニは、
• カリスマによる動員
• 軍・憲兵・バチカンとのバランス統治
で政権を維持したが、
→ 彼が個人として弱り始めると、そのまま国家が揺らぐ構造になっていた。
3. 国際環境の変化
• フルシチョフ期の「秩序ある社会主義」によって欧州の戦争は一時終息。
• 世界が安定した結果、
“ムッソリーニの存在意義(反共の盾)”がなくなる。
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Ⅲ. 1969年:ムッソリーニ死去
公式記録:
• 1969年7月、ローマ近郊の別荘にて脳卒中で死亡。
• 国葬が行われるが、参列者は高齢官僚と軍人が中心。
民衆の反応:
• ローマ:静かな葬列。敬意はあるが熱狂はない。
• ナポリ・シチリア:国家よりパンを求める声が高まる。
• 若者:冷ややか。「新しいイタリア」を求める。
最大の問題:
ムッソリーニは後継者を指名していなかった。
政党も軍も官僚組織も、
「総統の個人的権威」ひとつで繋ぎ止められていたため、
国家は即座に権力の空白に陥る。
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Ⅳ. 南イタリアの分裂(1969〜1973)
勢力 支持基盤 目標 性質
軍部保守派 陸軍・旧ファシスト官僚 現状維持 弱体
王党派 貴族・教会・中産階級 王政復古 政治力弱い
民主化自由派 都市若者・労組 議会制民主化 分裂気味
マフィア勢力 シチリア・南部農村 地域自治 影響力強い
→ 国家意思が存在しない状態に陥る。
政権は権威を喪失し、地方ごとに独自行政が成立しはじめる。
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Ⅴ. この混乱を見た北イタリアの判断(1972)
北イタリア(社会主義共和国)はこう分析する:
「南は統治能力を失った。
いまや“イタリア”を代表するのは我々である。」
• 経済は北が圧倒的に優位
• 政治は北が安定
• 国民人気も北が高い(特に若者層に)
→ “再統一は歴史の必然である” と結論づける。
そして 1972年、トリノ政府は宣言する。
「イタリア民族は再びひとつになるべきである。」
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Ⅵ. 1974年:イタリア戦争開戦の論理
北イタリア政府は侵攻の大義名分として:
1. 南イタリアの腐敗と無政府状態の是正
2. 国民生活の統一と福祉の再分配
3. 「ラテン文明圏の再生」
を掲げ、国際社会に向けて次のように発表する。
「これは侵略ではない。
失われた国家を救うための、
兄弟による救出である。」
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総括
南イタリアは… 北イタリアは…
ムッソリーニの個人統治で延命した国家 党・産業・労働者階級が支えた構造国家
彼が死んだ瞬間に空洞化 彼が死んでも体制は持続
経済も政治も不安定 経済優位と政治的自信
統合できず分裂へ 統合を“歴史的使命”と考える
ゆえに戦争は不可避であった。
戦争は起こったのではなく、
ムッソリーニが死んだ瞬間に始まっていた。




