4.試合と家事
タンギンさんと走って家に帰っていたと思ったのに、玄関のドアを開けた時には彼はもういなかった。肩透かしを食らったようで悲しくなりつつも、あのままずっと実体化されていたら、家に二人で過ごすことになって気まずくなったから助かった、と私はとりあえず一人分の夕飯を用意した。
一人暮らしには広すぎるこの家は、叔母さんの親戚の人が住んでいたらしい。リビングと廊下と畳の間と二階、と家族で暮らすのに丁度いい間取りだ。家賃は叔母さんたちが負担してくれているけど、お金のことを工面してくれていることに対しての感謝半分、そこまでして私と離れたかった気持ちがくみ取れて悲しい半分で、私は手放しで喜べなかった。目の端に、溜まりっぱなしの洗濯物と、宿題が入った鞄が見える。あんなにお腹が空いていたのに味が感じられず、まだ半分以上残っているコンビニ弁当の容器に持っていた箸をおいた。
テレビはかろうじてあるけれど見る気になれず、しんとした空間が訪れる。学校が賑やかで明るい分、家の静けさが堪えた。今までは慣れるのに必死で家のことまで意識がいかなかったけど、こうしてみると、一人で生活をやりくりする大変さが感じられる。
「・・・・・・タンギンさん。いるなら、出てきてほしい」
後ろに話しかけてみるけれど、すぐには姿を現してくれない。しばらくして、声が聞こえた。自分の体の中から別の人の声がして、すごく違和感がある。
「・・・・・・何だよ。俺寝てたんだけど」
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
「別に。で、何の用事?」
「え、えっと。別に、特に用事があるわけじゃないんだけど」
「はあ?なんだ、構ってほしかっただけか?」
彼の発言が図星で、口をつぐんでしまう。彼ははあ、とため息をつき、姿を見せないまま喋り続けた。自分の中に他人の声が反響して聞こえるのは違和感があるけど、タンギンさんの声はなぜか心地いい。
「あのなあ、俺たちは実体化するとクソ疲れんの。それぞれの式神の体力にもよるけど、限界が来ると力が薄まって消えちまうわけ。だから主の元で眠って、体力回復すんだよ。俺も実体化し続けたのなんて久しぶりだったから、忘れてたわ」
「なるほど、だから、急に見えなくなっちゃったんだね。あれ、じゃあもし除怨する時に、タンギンさんが疲れ切っちゃってて実体化できなかったらどうするの?」
ただ会話を交わしているだけなのに、彼が寝っ転がりながら腕を頭の後ろで組んでいる様子がありありと浮かんでくる。これは、彼が私の中に入っているからなのだろうか。
「そん時は、一巻の終わりだな。主が『廃絶』を目撃しても、人間だけが何かできるってわけでもねえし、俺らも奴らに認識されちまった主を守れねえ。除怨する時に実体化する必要はねえが、実体化もできねえほどに疲れてんなら、除怨なんて無理だな」
「・・・・・・じゃあ、除怨が一番体力を使うんだ。どっちにしろ、むやみに実体化しない方がいいってことだよね。ごめんね、今日は無理をさせて」
「あ?別にてめえに言われたからやってたんじゃねえよ。すぐ謝んな、なんか腹立つ」
「わ、分かった・・・・・・よし、お風呂入って課題やらなきゃ」
「てめえ、飯残すのかよ。ちゃんと食い切れよ」
「だって、もう8時半だし。今日は洗濯物も干さないといけないから・・・・・・私、睡眠不足になると熱出しちゃうんだよね。だから、やることやって、早く寝たいんだ」
「・・・・・・」
黙ってしまったタンギンさんを置いて、私は脱衣所に向かった。山盛りの洗濯物が目に入り、ため息が出そうになる。セーラー服のネクタイに手をかけた所でふと思い立ち、私は彼に聞いた。
「・・・・・・ねえ、タンギンさんって私の後ろにいるの?それとも中にいるの?」
「あ?俺はお前の後ろにいるけど。ほれ」
「うわ!!」
少し回復したらしいタンギンさんが、ひょっこりと私の後ろから姿を現した。鏡越しには彼は映っていないけど、後ろを振り返るとばっちり見える。彼は私を見下ろすと、ニヤニヤしながら平気で顔を近づけてくる。綺麗な顔が横にいると落ち着かない。
「んだよ、相変わらず鉄面皮な奴だな。今更悲鳴なんて上げて、俺が怖くなったか?」
「違うけど、私今からお風呂入るから、どっかに行ってて」
「はあ?なんでだよ」
「なんでって・・・・・・」
私が言葉に詰まると、彼は勘づいたのか、一気に顔を真っ赤にして私から離れた。私とは対照的に、タンギンさんは意外と顔に出やすい。
「はああ!!?別にてめえの裸なんてなんとも思わねえよ!つうか、俺らは主と離れる距離にも限界があんだから、勝手にどっかに行ける分けねえだろうが!!」
「そ、そうなの?このシステム、どうにかならない?」
「システムっつうな!わーったよ、この部屋から出て行きゃあいいんだろ!?」
そう言って、彼は急いで扉をすり抜けていった。本当ならまだ疲れているだろうから、私の中で休んでいた方が良いのかもしれない。
でも、彼に裸を見られてるかもしれないままお風呂に入るのはさすがに恥ずかしすぎる。というか、彼に出会ってから今まではどうしていたのだろうか。会話もないままだったので、なにも考えず普通にお風呂に入っていたけど、その時も彼は私の後ろにいたのだろうか。私は内心ドキドキしながら、考えまいと急いで服を脱いだ。
気が付いたら朝だった。
明るい光に信じられない思いで勢いよく起き上がり、時計を見る。7時半だ。いつもならご飯を食べ終わっている時間だ。目覚ましをかけ忘れたのか、鳴っていたことに気が付かなかったのか、とりあえず私は飛び起きた。カーテンを開けると、珍しくどんよりと曇っていた。帰るころには雨が降っているかもしれない。
時間割も適当に確認して教科書を鞄に突っ込み、階段を駆け下りる。朝ごはんを考えるのも面倒くさくなって、私は洗面所に走って髪の毛をまとめ、水道の取っ手を上げた。
「お、起きたか。よう」
後ろから声が聞こえて、心が跳ねる。誰かと朝に会話を交わすなんて、いつぶりだろうか。タオルで顔を拭き、私は後ろを振り返った。すっかり元気になったのか、ひらひらと浮いたままのタンギンさんがこちらを見ていた。
「お、おはよう、タンギンさん。元気そうだね」
「まあな。俺ほどにもなると、一晩ありゃあこの通りよ。つうか、昨日覚えてねえのか?布吊ってたまま、てめえは寝ちまったんだぞ」
「ぬ、布?ああ、洗濯物ね。そうだったんだ・・・・・・」
歯ブラシを持っていた手が止まる。洗濯物を干しながら寝落ちしてしまったらしいが、驚くくらい記憶がない。でも、テーブルには昨日の残したご飯もなかったし、洗濯物籠には何もなかったし、さっきまで私はベッドで寝ていた。
「もしかして、タンギンさんが全部やってくれたの?」
「はあ?なにを勘違いしてんのか知らねえが、てめえのためじゃねえぞ。飯が腐るのも見てらんなかったし、てめえに風邪を引かれて困んのはこっちなんだよ・・・・・・おい、口から垂れてる」
まだ完全に意識が起きてないのか、ぼた、と口から含んでいた水が落ちる。甲斐甲斐しくも、彼は丁寧にタオルで拭いてくれた。まるでお母さんのような面倒見の良さに、ふと気が緩みそうになる。心なしか、涙腺までも緩む。
「おい、馬鹿面引っさげてないで支度しろや。遅刻すんぞ」
「あ。タンギンさん、ありがとう。凄く助かったよ」
「うるせえ、てめえのためじゃねえ。それと、髪くらい梳かせ。パン焼いて来てやるから、その間に着替えとけ」
ぶっきらぼうに言って彼はタオルを洗濯機に入れると、足音を立ててキッチンへと向かっていった。実体化は疲れるからしない方が良い、と昨日話したばかりなのに、こうして面倒を見てくれていることが嬉しくて、私はもう一度タオルに顔を押し当てた。
時間は少し遅かったけど、寝坊したのにほぼいつも通りの状態で、私は家を出た。鍵を閉めたかの確認や火の元の点検、終いには結局、彼が私の髪を梳かしてくれた。おかげでいつも通りに学校に着きそうだ。大分慣れた通学路を歩きながら、私は横で浮きながら付いてくるタンギンさんに話しかけた。
「ありがとね、タンギンさん。私お母さん居なかったから、いたらこんな感じなのかなって思っちゃったよ」
「・・・・・・へえ。そう言えば、何でお前は一人であんなだだっ広い家に住んでんだ?」
「小さい頃に両親がいなくなっちゃって、叔母さんたちに面倒を見てもらってたの。でも、ちょっと・・・・・・色々あって、今はあそこで暮らしてるんだ。家賃とか光熱費も負担してくれて、良くしてもらってるよ」
そう言って、私は笑う。実際に、お金の面は全て叔母さんたちに任せっきりだ。申し訳ないけど、学生の今の私には、自分で払える程お金も体力もない。こうして学校に通えること自体、ありがたいのだ。
「何が良くしてもらってるだよ。体よく追い出されてるだけじゃねえか」
「!」
彼の言葉に、喉がぐっと締まるのを感じる。タンギンさんは不快そうに顔を歪めていた。
「てめえの感情はある程度リンクされるから、お前が本当にババアたちに感謝してんのも伝わる。でも俺には理解できないね。家族を追い出す理由も、てめえがそいつらに引け目を感じてる理由も。向こうも勝手してんだから、てめえも勝手すりゃいいじゃねえか」
足を止めて、横にいる式神を見る。一点の曇りもない宝石のような瞳がこちらを真っすぐ見ていた。彼の姿は後ろで揺れている落葉樹に少し透けているのに、白い学生服が反射した鏡のように眩しい。
そんな単純な事情じゃない、軽く言わないで、と反発心が湧き上がる。でも、いい意味で肩の荷を下ろしてくれた彼の言葉が、自分は味方だと言ってくれているような気がして、私は何も言えず、彼を見続けた。
「ほら、行くぞ」
そう言われるまで、私はそこに根を張ったかのように動けなかった。
今日は天気が悪いのか、アスファルトの湿った匂いが鼻をかすめる。今日も何事もなく校門をくぐり、教室に向かう。課題をやり忘れたから、朝のうちに仕上げてしまおうと思った。
2階まで着くと、男子生徒が何人か走りながら何か騒いでいる。元気だなあとは思いつつ、ぼんやり見ていると、どんどんと人が増えてきた。すると、ぞろぞろと廊下を歩いている集団の中に、見たことがある顔がこちらに向かってきた。
確かあの人は、同じクラスの森林君だ。身長が高くて、いつも教室の入口をかがんでくぐっている。すごく無口で、話しかけられても一言しか返さない、で有名だ。あと、マスクを外した姿は誰も見たことがない、でも有名だ。目元ははっきりした目鼻立ちをしているので、密かに人気はあるらしい。そんな彼がこんな騒がしい集団にいるなんて、意外だった。不意に彼と目が合ってしまって、急いで逸らす。
「なあ、今日の1on1ヤバかったな!俺のゴール見たか?切れがいつもと違かっただろ!」
「やっぱ彼女できたからかー?いいなあ、俺も彼女作りてえー」
「じゃあ、誰が一番早く彼女ができるか競争しようぜ!!」
不意に立ち止まってしまったのがいけなかった。バスケットボールを手に持った人たちがおよそ朝には出せなさそうな大声を張り上げながら、ぞろぞろと大名行列のように廊下と階段を占領していく。森林君も確かバスケ部だったし、きっと朝練が終わったのだろう。私は壁に張り付いて、流れが立ち消えるのを待った。体育館から渡り廊下を経由して2年生の教室に繋がり、ここの階段を使って下に行くとが1年、上に上ると3年の教室に行ける構造だから、必然的に行列の人数は減っていくはずだけど、うちの学校のバスケ部は強いらしく人数もかなり多いので、中々人の流れが落ち着かない。さっさと教室に行っちゃえばよかったな、と私は後悔した。横で流れてくる人を的にして、当たらないのをいいことにジャブをくり返していたタンギンさんが呟く。
「こいつら邪魔だな。全員吹き飛ばしちまうか」
「だめだよ、タンギンさん。今は耐え忍ぶしかない」
「つうか、敬称鬱陶しいんだけど。タンギンでいいっつってんだろうが」
「あれ?椿さんじゃん!そこで何してんの?」
声が飛んできて見上げると、見覚えのある好青年そうな男子が目の前にいた。横には森林君もいる。彼らが盾のようになってくれたので、流れていくバスケ部の人たちと少し距離ができて、一息つく。そして必死で、配られた名簿の名前を思い出す。
「おはよう、えっと、同じクラスだよね。確か・・・・・・しおあじ君?」
私の挨拶に、二人はキョトンとした後、盛大に吹き出した。森林君も顔に手を当てて笑いを堪えている。何かまずいことを言ったか、と私は記憶を遡った。すごいしょっぱそうな名前の子がいるな、背が高いなというぼんやりした印象だったのが良くなかった。正直、まだクラスメイトのことを完全に覚えているとは言い難い。名前を間違ってしまったかもしれない、と一人で焦っていると、笑いを抑えるようにしおあじ君が目尻を拭いた。
「はーあ、笑った。俺、しおあじ、って書いて、しおみって読むんだ。漢字は一緒なんだけどね」
「!!ご、ごめんね、間違っちゃって。そうだよね、苗字で塩味とは読まないよね・・・・・・」
「だっはっはっは!お前、しおあじって、あっははは!!」
恥ずかしくて下を向く。隣でタンギンさんがお腹を抱えて爆笑しているのが見える。ぼんやり漢字だけで覚えていたのがいけなかった。この学校の人は変わった漢字の人が多いので、ちゃんと読み方も確認しておかなければ。
「いや、いいって!超笑ったから大丈夫だよ!!なあ、森林!」
塩味君は明るくそう言って、森林君に振った。私は彼の読み方も『しんりん君』ではないかと疑っていたので、ちゃんと『もりばやし君』だったことを知れて、ほっとした。
当人は何を言うわけでもなく元の真顔に戻り、こくりと頷いて終わった。微妙な沈黙が訪れるけど、塩味君はまだ可笑しそうに笑っていた。香って来るシーブリーズの匂いも相まってか、すごく爽やかな印象を受ける。
「はは、ごめんな、こいつ誰にでも不愛想だから。って、もしかしてここにいたのって、俺らが進むの邪魔してたからだよな。ごめん!」
「う、ううん。大丈夫だよ」
「それならよかった!良かったら、一緒に教室行こうよ!」
森林君と肩を組みながら、塩味君は階段を上っていく。私は目の前の壁がなくなって明るくなった視界の元、彼らの数歩後を上った。
「しおあじ君はいい奴じゃねえか。で、隣の奴は不気味だな。んで、お前は馬鹿。ぶふっ」
「た、タンギンさん、いつまで笑ってるの。ちょっと間違えちゃっただけじゃない・・・・・・もう、そんなこと言うなら、呼び捨てで呼ぶから」
「だからそうしろつってんだろ」
「ん、何一人で喋ってんだ?」
急にこっちを向いてきた塩味君に、私はつんのめりそうになる。二人の視線が刺さって来て、私は焦って、二人の横に移動した。足早にその場から離れる。
「な、何でもないよ。課題やり忘れちゃったから、先行くね」
「へー、意外。俺らもやってないよな」
「・・・・・・いや」
「え、お前やってんの!?見せて見せて!!」
仲が良さそうな声を前から聞きつつ、私は教室に入った。もう大分人が集まっていて、教壇近くで喋っていたレイちゃんと萌ちゃんがこちらに手を振ってくれる。
「あ、おはよう、夕陽ちゃん!今日は遅かったね?」
「おはよう、二人とも。寝坊しちゃって」
「そっかー。夕陽ちゃんって意外と抜けてるよねー」
そんな会話をしているうちに先生が来てしまって、私はホームルーム中大急ぎで課題を解いた。幸い先生の話が長かったので、なんとか1限が始まる前までには間に合った。
一息ついていると、目の前がパッと明るくなった気がして、顔を上げる。そこには、瀬名高君とバンシキさんが笑顔で立っていた。心が軽くなって、私もつられて笑ってしまう。
「おはよう椿君!今日も会えて嬉しいよ!昨日は大丈夫だったかな?」
「おはよう、瀬名高君。うん、大丈夫。タンギンさ・・・・・・タンギンが守ってくれたから」
二人はキョトンとした後、互いに顔を見合わせてにっこりと笑った。隣にいたタンギンがちっと舌打ちをする。瀬名高君は他の人にバンシキさんの気配を悟られないようにするのに慣れているのか、式神の存在を感じさせないくらいごく自然な行動だった。
「そうかそうか、大分仲良くなれたみたいだね!!僕としても嬉しい限りだよ。この調子で互いを支え合い、信頼し合い、『廃絶』を打ち倒そうではないか!!」
普通の人には見えない式神の存在を隠す行動は自然でも、声量は調節する気はないようだ。かなりのボリュームで話す彼を、隣の席で萌ちゃんとお喋りしていたレイちゃんが凄い目で見てくる。ばっちり敵の名前を明かしてしまっているけど、そこも彼らしいな、と安心した矢先だった。
ぐうううううう、と地鳴りのような音が鳴り、一瞬クラスが凍り付いた。音源はどこだ、とみんながキョロキョロする。私は顔を隠そうとしたけれど、瀬名高君が顔を近づけてきて囁いた。
「大丈夫だ、君は他の人には表情を動かしていないように見えるんだろう?なら、いつも通りにしておけば問題ない」
そう言って、瀬名高君はさっと私の机の上に、こんがり茶色に焼き目の付いたデニッシュを置いてくれた。一体どこから出したのか、と聞く前に、先生が教室に入って来て、みんなぱらぱらと席についていく。
「お前、腹にサイレンでも飼ってんのか?」
「か、飼ってない・・・・・・」
「やっぱ食パン一枚じゃ足りねえか。おい、今日買い物して帰るぞ」
タンギンの声に頷き、私は隠れるようにして、瀬名高君からもらったパンにかじりついた。バターの香りが鼻に突き抜け、上品な甘みが広がる。彼に感謝しつつ、私は食べ物が美味しい、と感じるのは久しぶりだ、と気づいた。
朝少し話したからかもしれないけど、授業を受けていて、塩味君、森林君が目につくようになった。瀬名高君は、知り合いでなくても目に付くけど。
だから、塩味君が英語が得意なこと、森林君が授業中かなりの頻度で寝ていること、体育の時間ではやっぱりすごい身体能力で女子の黄色い歓声が上がっていたこと、二人は一緒にお昼ご飯を食べていることなど、意識して見ると人柄が分かって来る。
「どうしたの、夕陽ちゃん。塩味たちの方見て。あ、もしかして気になってる感じ!?」
レイちゃんがニマニマしながら、ひそひそと顔を近づけてくる。美味しそうなウインナーを箸でつまみながら、きょろきょろとあたりを振り返った。今日は萌ちゃんは陸上部の子とご飯を食べているらしく、レイちゃんと二人で、黒板側の隅っこで体育座りをしている。私もなんだか楽しくて、声を潜めて話す。
「そんなんじゃないよ。でも、どんな人たちなのかなって」
「なるほどね。実はこれ噂なんだけど、塩味ってここをバスケの推薦で入ったらしいよ。全国から優秀な選手を集める大会にも選ばれてるし、やっぱりすごいよねー。あとイケメン!」
「・・・・・・レイちゃんは、イケメンが好きなの?」
「そりゃそうよ!!やっぱり女子高生と言えば、彼氏作って、帰り道デートとかしたいじゃない!はーあ、うちの学校もイケメンは多いんだけど、中々そこまで発展しないんだよねー」
「そうなの?うちのクラスとか、付き合ってる子とかいないの?」
「それがいないのよー。まあ、一か月しか経ってないのに付き合ってるっていうのも、ちょっと違うもんなー。台心がいるから、女子はみんなそっちになびいちゃうのかもね?」
「・・・・・・台心先生か」
頬を赤らめて楽しそうにはしゃぐレイちゃんを見つつ、私は先生の名前を呟いた。いい先生なのには変わりないんだけど、何か引っかかるものがある。気にかけてくれるのは嬉しいけど、自分で言うのもなんだけど、特別扱いされ過ぎて、他の女子から反感を買いそうで怖い。
「え、やっぱり夕陽ちゃん、台心好き?」
「え?全然。先生としてはいい人だけど・・・・・・」
「えーーー、そうなのー?じゃあ、このクラスの中では誰が一番イケメンだと思う?」
「ええ?そうだな・・・・・・もしかしてレイちゃん、恋バナ好き?」
「めっっっちゃ好き!!!」
「ふふ、私も楽しい」
こうして友達と話したことがないからか余計実感するのかもしれないけど、レイちゃんは明るくて、すごく女の子らしい子だ。見た目は少し派手だけど、話してみると優しくて、表裏がなくて付き合いやすい。男女ともに良く話しかけられている理由がよく分かる。
「はー、ごちそうさまでした。ね、ちょっと廊下行こ!この学校のイケメン紹介する!」
「ええ?なんかツアーみたいだね」
「あははっ、イケメンガイドのレイでーす」
笑いながら廊下に出ようとすると、丁度教室に入ってこようとした塩味君と森林君にばったりと会った。レイちゃんは屈託ない笑顔で手を振ったけど、私にそんな勇気はない。
「あ、塩味じゃん!森林君も!やっほー」
「おー碁色。相変わらず元気だな、お前。椿さんと一緒にいるの、なんか意外だわ」
「えー、そう?大人しい子だなって思ってたけど、話したら案外面白いよ!マジの天然っぽくて可愛いし」
「あー分かる。養殖のお前とは大違いだな」
「はー?何よそれー!」
二人が楽しそうに言い合っている横で、私はちらりと森林君を見る。塩味君の側近のように後ろに控えている彼は、ぼんやりと明後日の方向を向いていた。ふと、また目が合ってしまって、私はつい顔ごと逸らす。
「ん?椿さん、どうしたの?」
「あ、もしかして夕陽ちゃん、そういうこと・・・・・・?」
「え、そういうことって何だよ、碁色」
レイちゃんが私と森林君を見比べて、あ!という顔をするのと同時に、塩味君が大きな身長をかがませて私を見てくる。圧の強い二人からの視線に、私はいたたまれなくなって、塩味君とドアの隙間に向かった。これくらいの隙間なら、逃げられる。
「何でもない。ちょっとトイレ行ってくるね」
早口に言って、私はそそくさとその場を後にした。女子トイレは人が並んでいて入れなさそうだったので、とりあえず廊下を渡る。突き当りに美術室があったので、ひとまずドアの前にしゃがみ込んだ。
「はあ・・・・・・」
「お前、困ったら逃げる癖があんだな。あいつらと恋バナしなくて良かったのか?」
「た、タンギン・・・・・・私、上手く話せてたかな?友達とあまりしゃべったことないし、ましてや男子となんて・・・・・・緊張した」
「はーん。男慣れどころか、人間慣れしてないんだな、かっわいそうな奴。しかもお前、あの空気だとあの森林って奴のこと、好きみてえになってたけど」
「え!?何でそうなるの!?」
「だって、お前があいつと目ぇ合った時、分かりやすく逸らして下向くから。高校生なんて、思春期真っ盛りだろ?誰が誰を好きかなんて、格好の話題だろ」
自分はさも大人かのように、タンギンは余裕の笑顔でこちらを向いた後、窓の向こうの空を見ていた。そう言えば彼は何歳なのだろう。
「タンギン・・・・・・」
口を開きかけた時、丁度チャイムが聞こえ、私は立ち上がる。空はすっかり真っ黒で、雷でも鳴りそうな雰囲気が立ち込めていた。
放課後、教室の掃除をこなして、鞄に荷物をつめていた時、別の教室の掃除から帰って来たレイちゃんがうきうきで話しかけてきた。
「ねえねえ夕陽ちゃん、この後暇!?一緒に体育館行こ!今日、うちのバスケ部が他校と試合やるらしいよ!!」
友達と放課後、試合を観戦するという響きに、心が浮き立つ。嬉しくて、つい二つ返事で了承してしまった。
「え、う、うん。いいよ」
「やったーー!!ほらほら、早く支度して!!」
今にもバウンドしそうなほど浮かれている彼女に連れられ、私は階段を降りて体育館に向かった。途中2年生の教室を通り過ぎらなくちゃいけないので、内心おどおどしていたけど、先陣を切るレイちゃんがあまりにも堂々としていたので、特に視線も気にならなかった。
集会でしか来たことのない体育館は、今改めて見ると圧巻だ。いろんな色のテープが貼られているニスの艶めく茶色の床、何枚も均等に並ぶ窓、首が痛くなりそうなほどの高い天井、ぶら下がった数々のバスケゴール。容赦なく降り注ぐライトに目をやられ、数回瞬きする。
私たち以外にも今日の試合の観客がいるのか、2階にはテンションの高い女子たちが手すりから身を乗り出している。ここから見上げるとスカートの中が見えそうで冷や冷やする。
もうウォーミングアップを始めているのか、部員たちの足音やボールを突く音が反響している。『光影高校』と印字されているので、紫のユニフォームを着ている方がうちの生徒なのだろう。
「うわー、向こう、星状高校だって。結構強いとこだよね。うちも全国行くけど、あっちも県内でナンバーツーくらいじゃないのかな」
観戦可能な場所がある2階への階段を上りつつ、レイちゃんが教えてくれる。濃い緑色のユニフォームを着た人たちが、切れのある動きでボールをネットに収めていく。相手校にも観客がいるのか、違う制服の女の子たちが応援の声をあげていた。
「・・・・・・確かに、こうして平日に他校と試合するって、すごいよね。よっぽど力の入れてる所じゃないと」
「ねー。あ、塩味だ!すごーい、背番号5番って、スタメンじゃない!?おーーい!!」
彼女が指差した方向には、ユニフォームで汗を拭っている塩味君がいた。ちらりとお腹が見えて、女子からの歓声が上がる。レイちゃんが勢いよく手を振って呼びかけると、彼は気付いたらしく、笑って手を振り返してくれた。悲鳴にも似た声の音量がさらに上がる。
「・・・・・・確かに、これはかっこいいかも」
「でしょでしょ!?やっぱ、これが青春ってもんよ!!」
紫の人たちを目で追っていると、隅に床を拭くモップを持った森林君が立っているのに気が付いた。というか、一度気にしたら目を離せない。彼ははしゃぐ女子のいるこちら側を、とんでもない目で睨みつけている。邪魔だ、帰れという感情がありありと伝わって来て、私は居心地の悪さを感じて下を向いた。
「お、あいつは今朝のだんまり君じゃねえか。ははっ、『廃絶』と見間違うほどの目つきしてやがんな」
隣でタンギンが面白そうに手すりに身を乗り出す。実体化はしてないから床に立っているかは分からないけど、こうして隣にいると背が高い。そういえばこの前、肩を担いでもらった時も思った。
「でも、この前会ったマクモさんは、にこにこしてたよ」
「あー、まあ確かに、『廃絶』の中で目つきがやべえ奴の方が少ねえからな。でも、ヤバいかどうかは、目の奥を見ればわかる。てめえも、審美眼を身に付けな。例えば、ここの中で、『廃絶』が手を付けそうな悪意をくすぶらせてやがる奴はどれか分かるか?」
「え?マクモさんがいるの?」
「違えけど、なーんか怪しいんだよな。奴らが現れてもおかしくねえ空気だ。てめえがここに来るのに反対しなかったのも、こうして待っとけば奴らが寄って来るかなって思っただけだ」
「・・・・・・どうして反対するの?」
「今日くれえは、あの底抜け馬鹿と莫目対策してもいいんじゃねえの?っつうか、今日買い物するっつっただろうが。てめえは一人暮らしで疲れてんだから、早めに休むべきだろ」
私以上に私のことを考えてくれている彼に、申し訳なくなる。タンギンの言う通りだ。彼がある程度伝えてくれたとはいえ、こんな呑気に構えていないで、瀬名高君にマクモさんに会ったことを報告するべきなのかもしれない。でもこうして友達に誘ってもらえたことが嬉しくて、つい付いてきてしまった。買い物をする約束もしていたのに。
ごめんねと言おうとした時、隣にいた女の子から、訝し気な視線を送られていることに気が付く。よく考えたら、私はタンギンと話していても、傍から見たら私の真横にいる人に話しかけているようなものだ。レイちゃんが微妙な空気に気づいてくれたのか、袖を引っ張ってくれる。
「ほらほら夕陽ちゃん、もうすぐ試合始まるよ!!」
下を見ると、選手たちが5人ずつ向かい合って並んでいた。怒号にも似た低い挨拶が響いた後、選手たちがコートに散らばる。審判らしき人が笛を吹き、ボールを投げる。
すると、ジャンプボールを取った瞬間、一気にボールがゴールへと近づいていく。早すぎて一瞬理解が遅れたけど、ボールを取ったのはうちのチームのようだ。
ドリブルして敵を追い抜き、ガードにぶつかりそうになった手前で他の人にパスする。スポーツは全く分からないけど、そんな私にでも、うちのチームの連携はすごいのだと分かった。
ボールが塩味君に渡る。彼はジャンプしてボールを放ると、それは吸い込まれるようにパッと音を立ててゴールに入った。一気に笛と歓声が轟く。
「わーーー!!すごいすごい!!塩味くーーん!!」
レイちゃん含め、アイドルさながらに周りが色めき立つ。私も感動はしているけど、多分顔には出てないので、手で口元を覆った。感動している風に見える、私の必殺技だ。
《・・・・・・うるさいな。ただ男を見に来てるだけの女どもが》
「!!」
低い声が頭に反響して、私は辺りを見回した。まだ熱の冷めやらない様子のみんなが騒いでいる。気のせいかと、私は試合に向き直った。
けれど、塩味君が活躍する度、地を這うような声は反響し続ける。邪魔だとか、消えろとか、うざいとか、聞いていて嫌になる言葉ばっかりだ。隣にいるタンギンに目線をやると、彼は私に頷いた後、ゲームを真剣な顔で見続けていた。きっと、誰が『廃絶』に影響されそうな人か観察しているのだろう。
私も探す。今、負の感情を持っている人は誰か。試合が白熱する中、冷めている人は誰か。
すると、自然と隅に目がいく。氷のような目が、こちらを射貫いていた。
《・・・・・・邪魔だなあ》
「!森林君!!」
私の声は、レイちゃんの歓声にかき消されてしまう。けどタンギンには伝わったようで、彼は弾かれたように、手すりから勢いよく飛び降りた。驚いてつい、下を見下ろすけど、彼は重力など全くないかのようにごく自然にコートに向かっていった。私はすぐ、森林君に視線を戻す。
彼の声はあまり聴いたことがないからすぐに誰だか判別できなかったけど、間違いなく声の主は彼だ。点を取って笑い合う選手たちと対照的に、彼の顔はどんどん曇っていく。ずっとマスクをしているから、口が見えないのも怖い。
次の瞬きをした瞬間には、彼から黒い煙が立ち上っているのが見え、私は咄嗟にその場から離れた。主とその式神は離れる距離には一定の限界がある、とタンギンが言っていたことを思い出す。除怨が一番体力を消費する行動なら、私が近くに行かなければと思った。
《邪魔なだけのただの羽虫が。全員消えろ、欲に塗れた醜い女》
階段を駆け下り、ベンチに座っていた選手たちをかきわけ、煙の元へ行こうとする。けど、試合中コートを横切ろうとする私を、他の選手が止めてきた。
「ちょっと、君。危ないから、こっちに来ちゃダメだよ」
「と、通してください。どうしても行かないとなんです」
「ダメダメ。ほら、戻って」
押し返してくるその人の背中越しに、膝をついた森林君が見える。私は一気に背筋が凍って、喉が詰まった。
次の瞬間だった。
ドン!!!!
地面が揺れるほどの振動と、黒い霧が一瞬で充満し、他の生徒たちが悲鳴を上げてこちらに向かってくる。出口の扉に捕まり、何とか身を押し戻そうとするけど、体当たりされて床に手を突いてしまった。
「いたっ」
誰かの足が当たって痛い。私を邪魔そうに避ける人たちが見える。でも私は、身体的な痛みよりも、私の頭の中に流れてくる苦い声に、頭を抑えた。
《馬鹿みたいに騒ぎやがって》
「う、うう・・・・・・」
《気持ち悪い。脳みその欠片もなさそうな奴のくせに》
「止めて・・・・・・」
不快な感情が一気に押し寄せ、体の中を駆け巡っていく。止めて、と身をよじっても、血液に混入した異物のように止まってくれない。
彼の呪いの呟きが、自分の体の中でパズルのピースのように繋ぎ合わさっていく。ただの悪口じゃない。だからこそ、苦しい。
《碁色レイ。あいつがいるだけで、不快だ》
「止めて、森林君・・・・・・」
鉛のように重い体を引きずりながら、私は誰もいなくなった体育館の隅で頭を抱える森林君と、睨み合っているマクモさんとタンギンの方へ向かった。黒い煙が火事のように充満して見て前が良く見えないけれど、一色触発の緊張感が走る中、先にタンギンが声をあげる。
「よくもまあこんな頻繁に来やがって、お暇なこって。こんな人間を苦しめて、楽しいか?」
マクモさんはニコッと笑いながら、森林君に白い手袋を付けた手をかざす。すると、私の中に反響してくる呪いの声が一層強くなり、私は思わず歩みを止めた。
「だーかーら、心外ですって。僕は特に何もしてないですよー。負の感情を持っていたのは、この人間です!僕がいなくても、彼はこの思いを抱き続けたまま生活することになったんですよ?こうして発散できる場所を作ってあげただけでも、感謝してほしいですねー」
《関係ない奴が試合を邪魔するな。塩味の集中を削ぐな。醜い奴が、視界に入るな》
やっと彼らの元に辿り着き、胸の疼きを抑えながら、私は森林君の元に行って、背中を揺さぶった。彼はずっと下を向いたままだ。
「森林君、しっかりして!そんな悲しいこと言わないでよ!」
腕を引っ張っても、顔を上げさせようとしても、彼は背中から黒い煙を吐き出し続けている。どうしたらいいのかと焦っていると、ポン、と肩に手を置かれた。タンギンが来てくれたと期待を込めて振り向く。
「そんな奴、ほっときましょうよー」
そこには、マクモさんの怪しい笑顔がすぐ傍にあった。背筋が凍り、急いでタンギンを振り返ると、彼は苦しそうに、床に這いつくばっていた。置かれた手を振り払おうとするけど、生暖かい感触がぐっと体にめり込んでくる。怖くて、目の前の顔を見れない。
「君のこと、どう呼んだらいいんですかね?馴れ馴れしい!ってボスに怒られちゃったんですけど、初志貫徹!ということで夕陽ちゃんでいきましょう。ねえ、僕たちに付いてきてくれる気になりましたか?見てくださいよ、彼。あんな大口叩いておきながら、こんなにも弱いんですから。でも、彼が弱いのは君のせいでもあるんですけどね?」
「・・・・・・え?」
森林君の悪意の声が反響する中、私はマクモさんを見る。彼は私を見ると、眉を下げ、頬を赤く染めながら、甘いものでも食べた時のように頬に手を当てた。ぞっと鳥肌が立つ。
「はああー、そのぼろっぼろな顔、いいですねー・・・・・・これは、癖になってしまいそうです。僕たちの仲間になってくれたら、一生その顔を見続けられるんですかね?だったら僕、今よりも頑張っちゃおうかなって思います!」
伸びてきた手を振り払えなくて、ぎゅっと目を閉じる。その時、一気に空気を浄化するような、透明な声が聞こえた。
「・・・・・・させない」
「ぐわっ!?」
マクモさんの声が遠くなり、私は顔を上げる。頭痛が少し収まり、目を開くと、そこには二人の人物が、手を差し伸べてくれていた。後ろから差す光に彼らの顔は見えなかったけど、そのシルエットだけで、一瞬で誰か分かる。
「待たせたね、椿君!!遅くなってしまってすまない!」
「・・・・・・大丈夫?」
二人の存在が温かすぎて、涙が滲んでくる。私はぐっとお腹に力を込めて、二人の手を取った。
「・・・・・・うん。ありがとう、来てくれて」
「それには及ばないよ!!僕は毎日走り込みをしているからね、学校にとんぼ返りするのもやぶさかではないさ・・・・・・っと、こんな話をしている場合じゃなかったね。バンシキ!!」
「・・・・・・うん」
瀬名高君が鋭い声でバンシキさんを呼び寄せると、彼はすっと静かに目を閉じた。すると、バンシキさんの体が光り始め、神聖な光が彼の体から漏れ出した。彼はゆっくりと目を開くと、口を結んだまま、ゆったりと舞い始めた。
それは、夜中の花火ともオーロラとも違う、美しく、眩しいものだった。瞬きももったいないくらい優雅で、心が落ち着く舞だ。瀬名高君はそんな彼に力を送るように、静謐な顔で見守り続けている。
すると、段々周りの空気が明るくなっていった。立ち込めていた黒い煙が静まり、仄かに消えていく。バンシキさんが両手を揃え、ピタッと止まる。次の瞬間、さあっと霧が晴れ、夕日が窓から差し込む、元の体育館に戻っていた。森林君も強張っていた体を床に寝かせ、静かに寝息を立てている。タンギンもまだダメージは残っているようだったけど、ゆっくりと起き上がっていた。
「・・・・・・・よし!今回も素晴らしい舞だったな、バンシキ!やはり君は天才だ!さすが僕の相棒!」
「・・・・・良かった」
ハイタッチをして笑い合う彼らを唖然と見ていると、拗ねたような声が飛んできた。彼はうつ伏せに這いつくばっていたけど、深いダメージは負っていないようだった。
「ちぇー、また君たちですかー。手強いですねー、邪魔ったらありゃしませんよ。特にそこの人間!!君は何なんですか!何で悪意に感化されないんですか!」
マクモさんがびしっと瀬名高君を指差す。当の本人はびっくりした顔をした後、いつものように、パッと明るく笑った。隣にいるバンシキさんの分まで誇るように、胸を反らしている。
「何でも何も、これが僕だからさ!どれだけ君が僕たちに仕掛けてこようと、僕たちは負けない!!ここにいる椿君も、僕も、バンシキとタンギンが守ってくれるし、僕らも彼らを信頼しているんだ!!」
夕日を目いっぱい浴びて輝く瀬名高君が眩しくて、私は目を細めた。彼が式神との信頼関係を強調する理由が分かった。こうしてお互いを信じあっていると、背中を預けたまま敵に挑めるからなのだ。私とタンギンも前よりは連携は取れてたけど、彼らには及ばない。
「ふーん、別にいいですけどねー。君がダメなら、繊細な夕陽ちゃんに仕掛ければいいだけの話ですから。彼女はボスからもウォンテッドが掛かってますし、彼女の驚愕する顔はすっごい可愛いですし。丁度いいですね?」
じろりと移されたマクモさんの視線に、私は全身が震えた。次の瞬間、タンギンが彼の胸倉を掴んでいる光景が目に入り、私は思わず彼がいた場所を二度見した。彼は今にもマクモさんに嚙みつきそうなほど眼光鋭く睨んでいる。
「ふざけんなよ。次こいつにちょっかいかけてみろ、そのニヤついた顔面ぶっ壊してやる」
「きゃーー、こわーい。でも、ぐしゃぐしゃに地面に転がっていたあなたに言われたくないですねー。まあ、そうなってしまったのも、夕陽ちゃんのせいなんですけど。僕が言うのもあれですけど、夕陽ちゃん、もう少し体力付けた方がいいですよ?」
「・・・・・・体力?」
「あーーー、その無垢で愚鈍な顔で聞き返しちゃう感じも可愛いーーー!!」
「うるせえ!!さっさと消えろ!!!」
「あーはいはい、じゃあ、今日はひとまずこれにて失礼しますね。じゃあね、夕陽ちゃん!」
そう言って、マクモさんはその場にいなかったかのようにふっと消えてしまった。肩透かしを食らった様子のタンギンがふう、と息をつき、眉間に皺を寄せたまま私に近づいてくる。私は少し後ずさりしようとしたけど、急に視界がふらついて、後ろに倒れそうになった。咄嗟につぶった目を開けると、間一髪でタンギンが支えてくれていた。背中に回った手にぐっと力がこもったのを感じる。私は起き上がろうとしたけど、踏ん張りが効かず、彼に背中を預けてしまった。彼は何も言わず、むっとした表情で私を床に降ろしてくれる。
「・・・・・た、タンギン、ありがとう・・・・・・私どうしちゃったのかな。力が入らない・・・・・・」
「・・・・・・あのなあ。お前、単純に飯食ってなさすぎだ。エネルギー切れてる状態で式神なんて扱えるわけねえだろ」
呆れたようにため息をつくタンギンに、瀬名高君が瞬時に反応する。既に、両手にはパンが抱え込まれていた。毎回どこから出しているのだろう。でも確かに、最近ご飯に意識を向けたことがなかった。お腹が空いていたから調子が悪かったのか。
「何!?椿君、ご飯を抜いていたのかい?それは聞き捨てならないね、僕という者がありながら!!でも最近は、君と十分に話をする機会もとれてなかったしね」
「・・・・・・ごめんね、瀬名高君。本当はマクモさんに会った時から、ちゃんと対策を話し合っておくべきだったのに」
「いやいや、君が謝ることじゃないさ。僕も実家の方を手伝わないといけなかったし、君と一日中一緒にいるわけにもいかないしね・・・・・・ふむ、男女と言うのは、厄介だな」
考え込む彼に、何が、と聞こうとしたけど、森林君のうなり声が聞こえて、私たちは駆け寄った。タンギンだけ実体化して、私を支えてくれる。
「・・・・・・ここは・・・・・・」
「やあ、森林君!紫色のユニフォームが似合っているね。ところで気分はどうだい?」
「・・・・・・瀬名高?なんでここに?椿さんも、ここはコートだけど・・・・・・あれ、みんな、なんで倒れてるの?」
森林君は突然の人物の出現に混乱しているようだったけど、試合中煙騒ぎがあって他の人は外に避難したこと、森林君はその場に倒れてしまったことを、上手く伝えた。彼に『廃絶』のことをわざわざ話さなくてもいい。ましてや、レイちゃんに対する思いもだ。
「・・・・・・なるほど。で、椿さんが瀬名高を呼んでくれたのか・・・・・・でも、確か俺・・・・・・」
顎に手を当てて考え込む彼に、私は慌てて手を振った。わざわざ苦い記憶を思い起こす必要はない。隣でタンギンが瀬名高君たちに、あの時何が起こったかを耳打ちしていた。
「と、とにかく、森林君が起きてくれて良かったよ。元気になったみたいだし、一応保健室の先生に診てもらおう」
こうして、森林君とふらふらの私、ついでに除怨で疲れ切っていた瀬名高君も、保健室に向かった。三人とも命に別状はなしだったけど、私だけ先生に呼び止められた。頻繁にここに来ているから軽く注意されるのかと思ったけど、先生はもっと深刻そうに眉をひそめていた。ふっくらした手を頬に当てて、眉に皺を寄せている。
「椿さん、ちゃんと三食食べてしっかり寝てる?あまりにもふらふらよ。生活が大変なら、家政婦さんを雇ってみてもいいんじゃないかしら」
お母さんがいたら、こんな感じだったのだろうか、と無駄に感傷的な気持ちが襲ってきて、私は黙って頷いた。先生は担任の台心先生に伝えようとしていたので止めたけど、きっとバラされてしまうだろう。
そんなこんなで、森林君と私たちはその場で別れることになった。一応体育館まで見送ろうと、勢ぞろいで渡り廊下に立つ。もうすっかり日が陰って、暗いオレンジが廊下を支配している。光が漏れた体育館の扉の中から掛け声が聞こえるので、詳しくは分からないけど、練習は続けているようだった。彼は表情こそ隠れているものの、中身は優しいようで、懇切丁寧な態度で何度もお礼を言ってくれた。瀬名高君にお礼を伝えた後、森林君は私と向き合った。彫りが深い分、顔に影ができて、表情がなおさら読み取れない。
「ありがとう、椿さん」
「大したことはしてないよ。森林君が無事で良かった」
「・・・・・・俺、倒れてる時、何か言ってた?というか、聞いてたでしょ?」
彼の発言に、私は咄嗟にガラスに映った自分の顔を確認する。表情は相も変わらず真顔のままだ。なのにどうしてバレたのだろう。
「ふっ、椿さんって、分かりやすい。首ごと相槌打ってれば、誰にでもわかるよ」
表情の確認を図星の反応と捉えたのか、彼は屈んで、静かな声で呟いた。距離が近くなり、つい一歩下がりそうになる。
「碁色さんと友達なのに、ごめん」
「・・・・・・森林君は、記憶はあるの?」
「いや。でもおぼろげに、あいつの悪口を吐き出したことは分かる」
「・・・・・・そう」
姿勢を正した森林君の目が見える。闇があるようで光のともった彼は、過去に何かあったのだろうか。マスクを触って、彼はふっと息を吐いた。
「人には合う合わないがあるから、俺にとってはそれが碁色さんだったってだけだよ。関わらないようにするから安心して。じゃあ、俺は部活に戻る。また明日」
「ああ!思う存分部活動に励んでくれたまえ!!」
瀬名高君の声援に応えるように軽く手を振ると、彼は行ってしまった。どっと疲れが溢れてきて、私はその場にしゃがみ込んでしまう。
「おっと、椿君、大丈夫かい?これでも食べて栄養補給してくれ!」
「・・・・・・てめえは何でいつもパンを持ち歩いてんだ。つうかどこから出してんだ」
瀬名高君が渡してくれたアップルパイを受け取りながら、私はタンギンを見上げる。彼と目が合うと、私は改めて謝った。
「ごめんね、タンギン。私が力不足だったせいで、タンギンも上手く動けなかったんでしょ」
「はっ、力不足っつうか、単にエネルギー切れなだけだ。てめえがろくに飯も食わず、疲れがとれねえような寝方ばっかするからだよ。もっと食って寝ろや」
「・・・・・・彼は君のせいではない、と言っている」
「はあ!?うるせえぞ盤渉!!」
言い合っている式神を横目に、私は瀬名高君がくれたアップルパイを齧る。優しい甘みとさくさくしっとりとした味わいに、彼に一番最初に出会った時を思い出した。不意に、今までの感情が急に押し寄せてくる。
「ん?ど、どうしたんだい、椿君!どうして泣いているんだい!?」
瀬名高君が私を見て、目を見開く。滲んだ視界に、彼が私の傍でしゃがんでくれたのが見えた。彼の優しさには、いつも甘えてしまいそうになる。
「・・・・・・ごめんね。なんか、疲れちゃって。一人で生活するのも、新しい環境に慣れるのも。みんなに良くしてもらってるのに、贅沢な話なんだけど・・・・・・でも、一番最初に手を差し伸べてくれた瀬名高君と会った時のこと、この味で思い出して・・・・・・なんか、じーんと来ちゃった」
自然と言葉が零れるように出てきて、ようやく今の自分の状態を実感する。そうだ、私は疲れているのだ。こんな優しい環境、考えもしていなかったのに、それでもやることは色々ある。活動的に動きたいけど、純粋に体力が追い付かない。
「・・・・・・今、そいつは泣いてんのか」
「・・・・・・涙は零していないように見える。ただ、感情の堰が切れているのは分かる」
式神たちが私をまじまじと見てくる。泣いている姿をじろじろ見られるのは恥ずかしい。でも、こんな感情も今、初めて知ったことだ。私が泣いているのに気が付いてくれた人なんて、永遠さん以外いなかったから。
「僕は君の役に立てたという事かな?それだったら嬉しい!でも、無理はいけないよ、椿君。もし学校と日常生活が両立できそうになかったら、タンギンは一旦うちで預かろう。君はマクモにはもう認知されているから、君が僕の傍にいさえすれば、彼に襲われても安心だろう」
彼を見上げると、彼は普段とは違う優しい笑いを返してくれた。不意に心臓が跳ねる。横から、口角泡を飛ばして突っかかるタンギンが見えた。
「はあ?誰がてめえと一緒にいるかよ!!元気過ぎて疲れるわ!!」
「はっはっは、何を言うんだ、タンギン!僕は君と一緒にいれて嬉しいよ!それに、バンシキもいるから大丈夫さ!!」
「俺は嬉しくねえ!!つうか、お堅いこいつがいた方が嫌だわ!!」
元気な二人が言い合っている内に、私は目元を拭う。確かに濡れた手を見て、私の悲しい思いも分かってくれる人はいるのだ、と私は心が温かくなった。
「おい、夕陽」
タンギンの声に、私は顔を上げる。初めて名前を呼ばれた。彼はガラスに差し込む夕日を透かせながら、ぐっとこちらに屈んだ。あれほど緊張した彼の顔が、今はとても美しく、はっきりと見える。
「飯、洗濯、掃除。これだけはやってやる。それ以外は、てめえがやれ。あと、買い物はてめえな。実体化して人間どもがうじゃうじゃいる店に行くなんてめんどくせえ」
「・・・・・・え。やってくれるの?」
「勘違いすんな。この元気100パー野郎といるくらいなら、てめえといた方がまだマシってだけだ」
心にぶわっと込み上げてくるものがあり、私はつい立ち上がった。追い出されるのではなく、迎え入れる。言葉にならない喜びに、ついタンギンの手に手を伸ばす。一旦空を切ったけど、実体化してくれたのか、冷たくて大きい感触が伝わる。
「ありがとう・・・・・・一緒にいてくれようとしてくれて。家事も・・・・・できる範囲で、私も頑張る」
「は、はあ!?だから、別にてめえのためじゃねえって、何回も言ってんだろーが!おい、手ぇ離せ!!」
「ふむ。椿君の家事を代行するのは、間違いなく椿君のためだろう!なあ、バンシキ!」
「・・・・・・驚き。あの断金が、こんなことを言うなんて」
顔を真っ赤にして手を振り払おうとする彼に、精一杯の笑顔を向ける。見放さず、私と向きあおうとしてくれる人たちの存在に、一気に力が湧いてくる。幸せなこの時を噛みしめようと、私は周りを見回す。
笑い返してくれる3人の仲間が、オレンジの夕日に染まっている。確かに私は体力もないし、敵の標的になるには格好の餌かもしれない。でも、この人たちがいれば、きっと大丈夫だ。そんな根拠のない自信が、私を奮い立たせてくれる。私は口から息を吸って、感謝を込めて言った。
「みんな、ありがとう!」
「当然さ!さあ、帰るとしようか!良ければ椿君、またうちに寄るかい?ちょうど今新作のパンを作っている最中なんだ!」
「おい、それより買い物が先だ。今日の飯は栄養あるものじゃねえとな」
「・・・・・・断金、料理できるのか」
「当ったり前だろ!?俺の腕は、勝絶より上だっての!!」
式神たちの聞きなれない単語を聞きつつ、私たちは校門へと向かった。もう外はほとんど日が暮れて、一定に立つ街灯が眩しい。丁度、鞄を持った台心先生と出くわす。
「やあ先生!これからご帰宅ですか?お疲れ様でした!!」
「お、お前ら仲いいなー・・・・・・ん?」
ひらりと手を上げた先生の腕が固まる。私の方をじっと見ているような気がして、私はひっそりと瀬名高君の後ろに隠れた。もしかしたらタンギンたちを見ていたのかもしれないけど、先生に別棟に行ったことを注意されて以来、なんとなく先生と話すのが気まずい。
「俺らは普通の人間には見えねえよ。カンの良い奴はたまーにいるけどな」
私の思っていることを読んだのか、タンギンが耳打ちしてくる。じゃあ別にひそひそ声で話さなくてもいいのに、と言おうとした時、ネクタイが目の前にあるのに気が付いて、私は飛び上がった。
「椿、ぼんやりしてどうした?」
「せ、先生。何もないですよ」
「へー。そういやお前ら、バスケ部の試合見に行ってたのか?なんか爆発騒ぎがあったらしいけど」
「ああ、行きましたよ!僕は途中からでしたけど、接戦でしたね!」
瀬名高君の適当な返事をよそに、私は少し考える。ちょっと状況を整理しようとした。
マクモさんが所属している『廃絶』という組織は、人の悪意を増幅して騒ぎを起こす。それを取り除く『除怨』をできるのは、タンギンやバンシキさんの式神だけ。式神が除怨するのは、彼らに認められた私と瀬名高君の主が力を貸す必要がある。
つまり、騒ぎには必ず悪意を持った人が被害者になってしまう。それに、主は式神に力を貸せるほどのエネルギーが必要だということだ。私はこれから、苦しそうな人を発見する力と、純粋に体力を付けなきゃいけない。
「おい、椿?」
その場にいた全員の目線がこちらに向いていて、私は慌てて意識を戻した。先生の氷柱のような目線が刺さる。瀬名高君は不思議そうに、私たちを見比べていた。
「椿、本当に大丈夫か?今日も保健室に行ったんだろ?本気で心配なんだけど」
「だ、大丈夫です。家政婦さんを雇う予定なので。そ、そうだ、これから買い物に行かないといけなかったんだ。お先に失礼します。瀬名高君、じゃあね。今日はありがとう」
「あ、ああ!気をつけて帰ってくれ!」
早口でまくしたて、私はその場を去った。瀬名高君の良く通る声が後ろから聞こえる。完全に夕日が沈み、薄暗い道を走って駆ける。後ろからタンギンが付いてくるのを確認して、私は学校が見えなくなる角まで行き、息をついた。
「お前、良いカンしてんな。あの教師に違和感もってんだろ?」
タンギンが私より先を行き、振り返って話しかけてくる。すぐ目の前にはスーパーがあって、ネオンの看板が眩しい。田舎だからか、一文字電池が切れている。
「う、うん・・・・・・なんか、先生が怖くって。叱られたからとかじゃなくて、嫌に気に掛けられてるというか・・・・・・」
「まあ、高校生で両親も死んでて一人暮らししで転校生で、挙句の果てに病弱なんて、気に掛けねえわけがねえけどな」
「お母さんは死んでないし、私は病弱じゃないよ・・・・・・ここ最近、インフルエンザかかってないし」
「そういう問題じゃねえ」
そういいつつ、タンギンは実体化したのか、一気に光と影のコントラストを体に浮かび上がらせながら、自動ドアの近くまで行った。反応したドアを通り過ぎ、横にあった籠を持つと、驚くほどの手際でぽいぽい野菜やらお肉やらを放り込み始めた。急いで私も彼を追いかけ、スーパー特有のエアコンの効いた寒さが全身に来る。周りからすごいイケメンがいると騒ぎ立てられているけどタンギンはフル無視して、5分も経たないうちに、レジの前に立った。
「・・・・・・タンギン、買い物のプロ?」
「はあ?んなんじゃねえよ。今日はまた夜遅くなっちまったからな。チンジャオロースと米と、豆腐と若布の味噌汁と、あとは・・・・・・」
ぶつぶつと、すごく健康で美味しそうな献立を呟きつつ、レジ台に籠を置いた。スキャンする店員さんの顔が真っ赤になっているのを見つつも、私は彼の代わりに会計を済ませた。スーパーを出た所で、不意に気づいて話しかける。彼はビニール袋を両手に持ってくれて、私が持つ分はなかったので、一つ彼から取ろうとしたけど、かわされてしまった。
「ねえ、タンギン。私、スーパーがここにあるって知らなかったんだけど、なんでタンギンは知ってるの?」
「・・・・・・別に何でもいいだろ。たまたま知ってただけだ。ほら、行くぞ」
そう言って、彼と家に向かう。誰かと一緒に同じ家に帰るって、こんなに温かいのか、と実感して、私は早歩きで彼に付いていった。
結局私はその夜、栄養たっぷりの絶品の晩ごはんを食べ、ゆっくりお風呂に入り、軽く課題を進めて、10時には毛布にくるまっていた。洗濯物も掃除も皿洗いも、タンギンがやってくれた。
申し訳ないと思いつつ、ベッドの端に腰かけてこちらをガン見しているタンギンの安心感に、私はすぐ眠気に襲われた。無意識に、彼に手を伸ばしてしまう。
「はあ?何だよ、餓鬼かよ」
「・・・・・・タンギン、ほんとにありがとう。ご飯、すっごく美味しかった。ご飯を美味しいって思えたの、久しぶりだよ」
「別にお前のためじゃねえ。お前に体力がねえと、俺が力を使えなくなるだけだ」
「うん・・・・・・でも、こうして誰かと一緒にいられるって、幸せだね・・・・・・」
感謝を伝えようと、声を出す。でも、私の意識はすぐに消えていった。手には冷たいはずなのに暖かい感触が、そっと優しく包み込んでくれていた気がした。




