3.呼び方
「君たちは、もう少し信頼関係を築いてもいいのかもしれないね」
転校してきてから一週間ほど経ったある日の早朝、誰もいない教室で、瀬名高君が私の机の前に来て、いい知らせを持ってきたかの如く自信満々にそう言った。後ろにはバンシキさんもいて、ゆっくりと頷いている。
「・・・・・・瀬名高君、おはよう・・・・・・・君たちっていうのは、私とタンギンさんのこと?」
「ああ!ここ最近は『廃絶』の姿を見ていないが、また奴らが仕掛けてくるかも分からない。その時のため、新しく主となった君とタンギンは連携し、互いに慣れて、信頼するべきだと思うんだ!」
彼の言う通り、萌ちゃんの一件以来、私は黒い霧を見ていない。私は私で、学校では勉強、家では家事に追われていたり、レイちゃんとおしゃれの話で盛り上がったり(私が疎すぎて教えてくれた)、萌ちゃんとご飯を食べたり、学校生活を謳歌していた。タンギンさんもあれっきり姿を見ていないので、正直忘れつつあった。
「なるほど。でも、私最近タンギンさんに会ってないんだけど、それはどうしたらいいのかな。私、嫌われてる気がする」
「ん?タンギンは、君の後ろにいるはずだよ。おーい、タンギン!椿君のためにも、出てきてやってくれないか?」
結構な大声で瀬名高君がそう呼ぶと、私は不思議と背中が温かくなっていくのを感じた。後ろから光が差し、段々と大きくなって、すぐ私たちの目の前に移動する。
「・・・・・・おい、そんな馬鹿でけえ声で呼ぶなよ。全く、ゆっくり寝てたのに起こされちまった」
タンギンさんは相変わらず口が悪く、眠そうに大きなあくびをしてこちらを見た。久しぶりの式神に、私は忘れかけていた緊張感を思い出す。本当に人とは思えないくらい、どこもかしこも整っている。しかも彼は今、私の中から出てきたのだろうか。
「寝ていた?そんなことあるのか?椿君、君はタンギンをここ最近で呼んだことがあるかい?」
「え、いや、ないけど・・・・・・だって、その『廃絶』もいなかったし、呼んでも特に用もないし・・・・・・」
「・・・・・・ふむ。これはまずい。なあ、バンシキ」
珍しく瀬名高君が腕を組み、難しい顔をして、自分の相方の式神と顔を見合わせた。何がまずいのかと私はタンギンさんを見るけど、彼は私と顔を合わそうともしない。そっぽを向いて、見るからに私を避けている。
試しに、彼が肩にかけている大きな白のジャケットを引っ張ってみる。すると、私の手は完全に空を切った。それに気づいたのか、タンギンさんはにやっと笑って、マントのようにジャケットをはためかせて私に見せびらかしてくる。思いっきり馬鹿にした顔をしてくるので、ちょっとイラっと来る。
「あ?これに触りてえのか?残念ながら、てめえには無理だよ。ほら、出来るもんなら触ってみろよ」
「・・・・・・・」
「ふむ、非常にまずい!!」
私が彼の言動に黙りこくると、瀬名高君がバン!!!と机を叩いた。私含む全員が飛び上がる。
「タンギン!君は主のことを尊敬しなさすぎだ!『廃絶』の除怨には彼女の力が欠かせないというのに、君はその時力を搾取するだけで、彼女を守らないつもりかい!?」
「!」
びしっと演技さながら指を指す瀬名高君に、タンギンさんは虚を突かれたように目を開けて苦い顔をした。呆気にとられていると、その矛先は私にも向けられた。
「椿君も、主が式神を忘れるようなことがあってはならない!それでは信頼関係も築けないし、『廃絶』に出くわした時に苦しみ続けるのは君なんだぞ!!」
「!」
彼の指摘に、はっとする。転校してからここの生活に慣れることに必死で、私は自分のことしか考えていなかった。タンギンさんを呼ばなかったのも、呼んだら嫌みを言われそうだったのもあるけど、純粋に初めての一人暮らしで、家事の多さに追われていたからだ。仕方ない、と言いたいけれど、あの苦しみはもう味わいたくない。
「・・・・・・椿は、新入りだ。『廃絶』に認知されていない可能性もある」
静かに、バンシキさんが付け足す。彼の涼やかな声に交じって、窓から風が吹き込んでくる。彼の綺麗な長髪がざあっと稲穂のように波打ち、私は自然と冷静になれた。
「ふむ、確かに。前回の襲来も、気配が濃かったとはいえ、奴らが直々に現れたわけでもないだろう」
「・・・・・・あの。私、白い手袋をしてる人を見たんだけど、その人って、『廃絶』の人だったりする?」
納得した様子の彼らに私がそう言うと、二人とも目を見開き、瀬名高君が怒涛の勢いで机に突っかかって来た。一人タンギンさんは、まずい、とでも言いたげに苦笑いをしたまま、口笛を吹いている。
「椿君、それは本当かい!!?そいつは、顔に痣みたいな模様があったかい!?」
「う、うん。男の人か女の人かまでは分からなかったんだけど、ショートカットだった。目が合って・・・・・・黒い煙の中にその人の手が見えて、それに気づいて、私は本庄さんたちを助けることができたの」
「・・・・・・・タンギン。君ならばと思って任せたが、奴との接触を許しているとは」
いつもより低い声で、バンシキさんはタンギンさんを振り返った。顔は変わらず無だけど、オーラは確実に怒っている。当人は慌てたように手を振って、私の横に飛んできた。
「いやいや、接触っつったって、こいつが奴らの姿を見ただけだろ!?その前に、俺はこいつを助けてやったんだって。いやー、ほんと、間に合ってよかったわー。なあ?」
「・・・・・・私が苦しんでる時に、つま先で顎をすくわれたけど」
「つま先!!!???」
瀬名高君の絶叫が廊下中に響き、バンシキさんがしー、と唇に指を当てる。隣からは、よくもチクりやがったなオーラを感じるけど、私は無視した。振り返ってみると、中々の仕打ちを受けたものだ。瀬名高君が顔をりんご並みに赤くしながら頬を抑えている。本当に分かりやすい人だ。
「な、な・・・・・・そんなこと、あっていいのか?いや、あってはよくない?ん?よくないくない?」
「・・・・・・タンギン。光も言った通り、お前は椿への尊敬心がなさすぎる。『廃絶』に彼女が認知されてしまった以上、お前が彼女を守るべきだ。今日は彼女の傍で仕えていろ」
「な、なんで俺が」
「いいな?」
有無を言わさぬバンシキさんの目線に、私もぞっとする。普段優しい人が怒ったら怖い、とはよく言うけど、実際に目の当たりにして、しかも殺気を感じるなんて思わなかった。
タンギンさんも彼の圧に押されたのか、しぶしぶ黙って頷いた。大混乱している瀬名高君をなだめようとすると、バンシキさんがこちらを向いて、ポン、と頭に手を乗せてきた。冷たくて、優しい手だ。
「・・・・・・椿。どうか、私たちを忘れないで。君を守れるのは私たちしかいない。私たちを助けてくれるのは君たちしかいない」
椿、という自分の名前がくすぐったく感じるほど、彼の言葉は空気に溶けていった。気が付くと、式神の二人は消えていて、教室には瀬名高君と私だけだった。
「・・・・・・顎ですくう、って・・・・・・そんな、破廉恥な」
「瀬名高君、大丈夫?私なら平気だから、そんな気にしないで」
「お、なんだ、二人とも来てたのか。早いな、結構なことだ」
ガラガラ、と引き戸の音がして、台心先生が立っていた。彼は私たちにひらりと力なく手を振ると、その成り行きで手を顔に持って行って大あくびをした。こっちもこっちで相変わらずだ。
「おはようございます」
「おはよー、ん?瀬名高、大丈夫か?なんか顔真っ赤だぞ?」
「あ、ああ、台心先生。おはようございます、良い朝ですね。僕は今日という朝を迎えられたことを光栄に思います」
「お、通常運転だなー。さーて、授業のプリントでも配りますかなー。誰か暇な人が手伝ってくれればいいんだけどなーーー?」
「・・・・・・お手伝いしますよ」
こうして、何とか朝のミニ騒動を乗り切った私は、なんとか無事に一日を終えられるように祈った。
祈りは全く通じなかった。
朝のホームルームを皮切りに、タンギンさんは私の横で、ずっと胡坐をかいて座って来た。椅子もないのに、だるそうに足を組んだり、貧乏ゆすりをしたり、視界の端っこでずっと彼の落ち着きのない行動が見える。
何を言うでもなく、私が目線を送っても、彼はつん、とそっぽを向いてしまう。終いには彼が窓の縁に座ったせいで、中途半端に見える彼のジャケットがカーテンのようにたなびいてきて、振り払うのに必死だった。触れもしないのに、視界に湯気のように入って来るのだ。後列の窓際はよく虫が来るから、ということでなんとかクラスのみんなには見逃してもらっていたが、瀬名高君のおろおろとした視線と、バンシキさんの虫一匹殺せそうな鋭い視線が突き刺さって来て、私はお昼休みにはもう汗びっしょりだった。
私はチャイムと同時に席を立つと、レイちゃんたちに断りを入れて、誰も来なさそうな場所へと足を進めた。特に何を考えるでもなく、別棟の4階まで行きついてしまう。階段の踊り場辺りで息をつき、タンギンさんを呼んだ。
「タンギンさん、いる?いたら出てきてほしいんだけど・・・・・・」
背中に控えていたのか、案外すっと出てきた彼を、私は睨んだ。彼もまた、むすっとした顔で私を睨んでくる。
「んだよ。つうかここ、どこだよ」
「ねえ、どうしてそんなに邪魔するの?もうあなたたちのことは忘れないから、生活を妨害するのは止めてよ」
「はあ?妨害なんてしてねえよ。盤渉が言ってた通り、てめえの傍にいるだけだろうが」
彼は心外そうに顔をしかめる。思えば、今まで彼の怒った顔しか見ていない。私が怒らせていると思うと、私も悲しくなった。
「でも、あなたがいると落ち着かないんだけど。特に、そのジャケット。触れもしないし当たりもしないけど、ちょっと邪魔・・・・・・」
「はああ?なんでてめえにんなこと言われなくちゃいけねえんだよ。触りたかったら触らせてやるよ。ほれほれ」
「うっ」
彼は階段の手すりを乱暴に掴むと、一気に現実味を帯びた存在へと変化した。くるりと翻り、彼の足元まである長いジャケットが、私の顔に思いっきり当たる。楽しそうにけらけら笑う彼に、私はひりひりと頬と胃が痛むのを感じた。
「・・・・・・もういい。傍にいなくてもいいから、邪魔しないで」
「おい、どこ行くんだよ」
彼を振り払って、私は階段を降り、教室に戻ろうとした。こんなに意地悪をされていては、信頼も何もない。私は仲良くしたいのに、向こうが聞く耳を持ってくれない。
永遠さんみたいに、私も誰とでも仲良くなれるような話術でも持っていたら良かった、と思いつつ、3階へと降りる。
しかし、廊下から視線を感じ、振り返った。
つい、足を止める。そこには、一人の人が立っていた。
黒いスーツに、腕だけじゃなく、体中あちこちに腕章を付けている。その人は白い手袋と頬に痛々しい痣を付け、まん丸な可愛らしい目をきゅっと細め、不気味な程にこにこと笑っていた。廊下が嫌に長く、遠く感じる。彼の口から赤い隙間が見えた瞬間、私は一気に血の気が引くのを感じた。
「あれ、僕にすぐ気が付くなんて、さすが、勘が良いですね!ひょっとして、僕のことも覚えていたりして?ねえねえ、あの時、あなたを引きずり出したの、覚えてます?」
「・・・・・・引きずり出す?」
かろうじて喉を動かす。彼が何を言っているのか分からない。萌ちゃんたちの悪意が増幅していった時にその場にいた彼は、そんな風に私に喋りかけた。彼は足取りもふらふらの状態でこちらにゆっくりと近づいてきて、得体の知れなさに後ずさる。
「なんのこと?萌ちゃんたちを操っていた時のことじゃなくて?」
「えーー!操るだなんて言い方は心外ですー!・・・・・・そっか、覚えてないですよねー。まあいいですよ。僕はこのポジションが気に入ってますし!」
「お前は後ろに下がってろ」
タンギンさんが、私と彼の間に割り込み、背中で守るように立ってくれる。あれだけ邪魔だった白いジャケットが、私に『廃絶』を見せないよう、大きくたなびく。
「あれ、断金さんじゃないですかー!お久しぶりですー、僕のこと覚えてますかー?」
「覚えてるわけねえだろ、てめえみたいな雑魚。何しに来た」
「えー、冷たいじゃないですかー。何しに来たって、それはもう、そちらに新しい式神を従える方が現れたようなので、ご挨拶に伺ったまでですー!こんにちは、夕陽さん!夕陽ちゃん、って呼んでもいいですか?」
「いいわけねえだろ。早くどっか行け」
「うーん?僕は夕陽ちゃんと話してるんですー。ねえ、夕陽ちゃん?」
息をのむ。タンギンさん越しに聞こえていた声が、真後ろからした。私は即座に振り返る。そこには、さっきまで前にいた彼が、楽しそうに笑って立っている。光が少しも宿っていない、可愛らしい丸い目がきゅっと細まり、こちらを見ている。背筋が凍るのと、ジャケットが視界を遮るのが同時だった。
「うわっ!!危ないなあ。何ですかー、断金さん。邪魔しないでくださいー」
「邪魔はどっちだ。こいつに触んなよ」
「・・・・・・なんかさっむいこと言ってますがー、かっこつけても無駄ですよー。ねえ、夕陽ちゃん、知ってます?式神が見初めた主で、一番死亡率が高いのは、彼なんですよー。彼に目を付けられたら、終わりなんです!!どうです?死ぬ前に、僕たちの方に来ませんか?」
愉快そうに半月の形に口を開く彼の言葉に、私は目の前のタンギンさんを見た。端麗な彼の顔が、不快そうにぐっと歪んでいる。今まで見た中で一番怖い顔だ。あはは、と笑って、『廃絶』の人は続けた。
「実はですね、僕たちのボスから、君に直々にオファーが来てるんですよ。一緒に僕たちと、この世界を壊して回らないか、って!世界は、大言壮語過ぎるので、千里の道も一歩より、ってことで、まずはこの町から破壊開始、ってわけです!夕陽ちゃん、一緒に来る気はありますか?」
目の前がじわじわと暗くなる。何か言葉を出そうとしても、出てこない。手を見ると、震えていた。彼の纏う空気が、あまりにも苦しくて、悲しくて、涙が出てきそうになる。それでも何か言わなきゃ、と私は踏ん張った。
しかし、言葉を紡ぐ前に、ぐっと肩を掴まれる。見ると、タンギンさんが私を引き寄せて、倒れそうな私を支えてくれていた。彼の厚さが真横に感じられる。
「戯言言ってんのも大概にしろよ。こいつは俺の主だ!もうちっとマシな誘い文句考えてから出直してこい!!」
自然と、体の震えが収まっていく。上を見ると、真っすぐな銀色の瞳が、光を持って敵を見据えていた。不覚にも惚れてしまいそうだ。
「・・・・・・へーーー。あなたの主、ですか。残念ながら、ボスは諦めないと思いますよー。ボスの諦めの悪さと言ったら、もう僕ですら嫌になっちゃうくらいですからー。全く、上からの命令をこなせなかったら、怒られるのは僕なんですからねー?」
彼は一瞬、笑みを消して、冷たい真顔でタンギンさんを見た。またふっと笑い、まあいいでしょう、と彼は私たちに背を向けた。もう一度くるりと振り返って、私をまっすぐに指差す。
「邪魔が入った挨拶でしたけど、僕のこと、覚えてもらえました?僕はマクモです!莫大のバクに、目です!じゃあ、また会いましょうね!」
彼は階段に一歩足を乗せると、途端に消えてしまった。その空間だけ切り取られたように、気配すら残していない。私はしばらく唖然としていたけど、掴まれたままの肩の感触に、ちらりとタンギンさんを見る。
彼はまだ前を見て、悔しそうに唇を噛みしめていた。マクモさんの言ったことが蘇ってくる。『断金に選ばれた主が最も死亡率が高い』
主は式神に力を貸して、除怨の間人の悪意に触れるだけ、とは言うけれど、やっぱり悪意にさらされるのは、すごく怖い。この前に経験した、この世の悲しみすべてが凝縮され、悪口があちこちに飛び交い、失神手前の咆哮が響くような地に、突如として置いて行かれた気分だ。私の場合、叔母さんたちや他無県での経験がぶり返してきて、とても辛い。主の死亡、という言葉が過言ではないことを実感し、私は下を向いた。
でも、肩に込められた力が、彼はそんなに悪い人ではないんじゃないか、と思わせてくれる。どういう経緯で彼が主を死なせてしまったのかは分からないけれど、少なくとも私の危機に、身を挺して守ってくれる人は、前には永遠さん以外いなかった。タンギンさんは邪魔ばかりしてくるけど、突っぱね続けるのも違う。萌ちゃんの時だって、結果的には私も萌ちゃんたちも守ってくれた。私は勇気を出して、黙りこくっているタンギンさんに向かって話しかけた。
「あの、タンギンさん。マクモさんから、守ってくれてありがとう。私はあなたのこと、そんなに悪い人だとは思ってないよ・・・・・・その、これから、あなたのことを知っていければ、仲良くだって・・・・・・」
途端に、両肩をぐっと掴まれる。タンギンさんは真剣な顔で、真っすぐ私を見つめた。私にも、自分にも言い聞かせるように、はっきりと断言した。
「次こそ・・・・・・今度こそ、死なせない」
その短い言葉が重すぎて、言葉に詰まる。一体、彼のこの決心は、何がそうさせているのか、私にはまだ分からない。でも、私と真剣に向き合おうとしてくれている人に、私は応えたい。私は彼が安心できるように、なるべく笑顔を作って、彼の手に触れた。彼の手は血が通っていないからか、驚くほど冷たい。
「・・・・・・うん。信じてる」
「てめえ、何笑ってんだよ。この状況で笑えるって、肝座り過ぎだろ」
「えっ。私が笑ってる・・・・・・?」
踊り場の壁にある鏡を振り返る。やっぱり腹立たしいほどの真顔だ。もう一度タンギンさんの方を振り返ると、彼も自分の言ったことに驚いたように口に手を当て、私をまじまじと見た。
「いや、笑ってねえよな・・・・・・なんか一瞬、てめえが口上げたように見えたんだが・・・・・・気のせいか?」
「・・・・・・ううん。私は今、笑ったよ。顔に出てなくても、あなたを安心させようとした」
「はあ?安心だあ?餓鬼じゃねえんだっつうの・・・・・・ほら、教室、だっけ?戻らなくていいのかよ」
「あ、もう授業始まってる。急がないと」
腕時計を見ると、もうお昼休みはとっくに終わり、5時間目に差し掛かっていた。初めて授業をサボってしまったという焦りの感覚はあるけど、それ以上に、タンギンさんへの信頼が生まれて良かったという安心感の方が強かった。
「だーかーら、焦ってるように見えねえんだよ・・・・・・ほら、掴まれ」
「え?」
「俺が送ってやるよ。ほら」
そう言うと、タンギンさんは私の首根っこを掴み、勢いよく前に押し出した。斜めった段差が一気に迫って来る。
「うわっ!!」
思わず目を瞑り、なんとか体勢を整えると、そこはもう1-Cの教室の前だった。彼が勝手に扉を開け、クラスのみんなの顔が一斉にこちらを向く。古典の先生が私を見た途端、黒板に走らせていたチョークをぽとりと落とした。
「あ、君、椿さん!?良かった、君がいないってクラスの子が連絡に来てね、保健室にもいなかったから、消えちゃったんじゃないかって、担任の先生が走り回ってるよ。職員室に行って、連絡してあげてくれ」
先生が困り顔をしている中、私は瀬名高君の姿を探した。彼の席だけが空白なのが見えて、私はこちらを見てくるみんなに話を聞いた。
「夕陽ちゃん、良かった!!」
「瀬名高が慌てて教室飛び出してったよ、何かあったの?」
「えっと、別棟で迷っちゃって・・・・・・」
「あー、あそこ迷路だよね。でもなんでそこに?」
みんなの声にほどほどに答えつつ、私は職員室に行って、丁度帰って来たらしい汗まみれの台心先生に謝った。走り回っていたというのは比喩じゃなかったらしい。先生は汗で色が一部変わったネクタイを緩めて、はあ、と髪をかきあげた。きゃー、と黄色い歓声が職員室に響き、慌てて髪を額に戻している。
「はあ。あんまり心配かけないでくれよ。一人暮らしだから親御さんにも連絡できないし・・・・・・瀬名高もさっき教室に戻ったみたいだし、まあ放課後、ちょっと残っておいて」
叱られるだろうな、と先生の笑顔の怒気を感じつつ、私はその後、クラスに戻って普通に授業を受けた。タンギンさんは終止黙って、大人しく私の後ろにいた。
ホームルームが終わり、掃除当番の人達が動き出す。私も今週は当番なので、黒板消しを持ってひたすら粉気を拭きとっていた。私は身長はそこまで低い方じゃないので、教室の後ろの黒板を何とか背伸びをして、上から下まで丁寧に拭いていく。前の黒板は先生が教卓で作業をしていて気まずいから行きたくない。
「台心ー、顔怖くない?何してんの?」
「・・・・・・あー、みんなのテストの点数が低いから、どうしたもんかなと思ってただけ。俺の授業って分かりにくいのかなーって」
「それにしては顔怖すぎない?大丈夫そ?」
そんな会話を聞きつつ、内心の冷や冷やを抑え、私は傍で黒板が綺麗になっていく様を見守っていたタンギンさんに耳打ちした。
「ねえ、私これから先生に怒られるから、先に瀬名高君たちに、お昼あったことを説明しておいてほしいの。お願いできる?」
「は?なんで怒られんだよ。当然のように言ってんな。慣れてんのか?」
「・・・・・・・先生に怒られたことなんて、数回しかないよ。もう帰りたい・・・・・・」
「・・・・・・まあ、分かった」
そうして、タンギンさんは素直に彼らの所に向かってくれた。掃除も無事に終わり、教室には静かに怒る先生と私だけが残された。すごく胃が痛い。
「別に怒ってるわけじゃないけどさ、なんで別棟なんかに一人で行ったんだ?誰かに学校案内でもされたか?」
先生の言葉に、私は眉をしかめた。そう言えば、どうして別棟なんて行こうと思ったのだろう。場所も知らないのに、まるで誘導されたかのように迷うことなく、私は歩いて、タンギンさんに話しかけた。それも、マクモさんに操られていたのだろうか。
「・・・・・・分からないです。歩いていったら、別棟でした」
「なるほど、とは言い難いな。別棟なんて校舎の奥の奥にあるし、立ち入り禁止の紙だって貼ってあるのに・・・・・誰かに呼ばれたのか?って、質問攻めしても仕方ないか」
外から運動部の掛け声が聞こえてくる。この学校は気まずい沈黙でも、誰かの青春の音がかき消してくれる。先生は私を見て、はあ、とため息をついた。ぐっと胃が引き締まる。私が一番苦手な行動だ。
「まあ、椿がこうして元気だったら、結果としてはいいんだけどさ。俺なりに、心配してるわけよ。保証人の名義は仮にあるとしても、今一人暮らししてるんだろ?課題やって家事やって、ってできてるのか?」
「・・・・・・洗濯と、掃除はしてます」
「俺も大学の時一人暮らししてたから分かるんだけどさ、意外と家事って時間かかるんだよな。手間もすげえし。それを、高校生の、しかも自分の生徒がやってるって思うと・・・・・・心労が・・・・・・・」
「お、大げさですよ。食事もちゃんと3食食べてますし、学業も・・・・・・課題だってしてます」
「その食ってるもんがコンビニ飯かカップラーメンばっかじゃないことを祈るよ。とにかく、何か私生活でも困ってることがあったら言ってくれ。出来る限り、力になる」
「あ、ありがとうございます・・・・・・」
先生の真摯な態度に、少し戸惑う。普段はだらしがなくても、やっぱり先生は先生だ。家事にまで手が回っていないことはバレていたけど、相談できる相手がいるだけで、気が楽だ。
夕日が傾き、教室を暗く染めていく。オレンジ色の空を見つつ、私は先生の切り上げの言葉を待った。
下を向いて、何か紙を見ている先生を見る。用がないならもう帰ってもいいのに、何か作業を始めてしまったようだ。
「あの、先生」
「あ、台心じゃん!!」
扉の方を振り返ると、見るからにギャルっぽい女の子たちが数人いた。顔は知らないから、きっと別のクラスだろう。手に紙パックのジュースを持ち、校則より明らかに短いスカートで、こちらに歩いてくる。
よく見ると、その後ろにタンギンさんが廊下の壁にもたれかかっていた。不機嫌そうにこちらを睨みつけている。待っててくれているのは分かるけど、何に対して怒っているのか分からなくて、一旦見ないふりをすることにした。
「ねえ、何やってんのー?女の子と二人っきりで、あやしー」
「丁度良かった。赤羽、ここにいてくれよ。俺が椿に変なことしてないって証人になってくれ」
「椿って、この子のことー?」
赤羽と呼ばれたツインテールをした女の子は、分かりやすく私をじろりと睨んだ。台心先生と二人でいたことを良く思っていないからこの態度になっているなら、分かりやすい子だな、と思う。
「何話してたのー?もう下校時間だよ、ほら帰ろ!!」
「それを言うんだったら、赤羽たちも帰りな。不審者が出ても知らないぞ」
「じゃあ台心が一緒に帰ってくれればいいじゃん!ね、ほら帰ろ!」
「俺は車だって。ガソリン代出してくれるなら別だけどな」
「あはは、何それー!」
女の子のアピールをかわすのが上手いなあと思いつつ、私はこの流れに乗じてこそこそと後ろの扉から出て行こうとした。泥棒みたいな恰好だったからか、廊下に出た瞬間タンギンさんが私を見て吹き出す。
すると、パチン、と急に教室の電気が点き、背後が明るくなる。赤羽さんたちのはしゃぐ声と共に、先生が教室から出てきた。
「ほら、赤羽たちも帰れよ。じゃあな、椿。明るい道を通って帰れよ」
「・・・・・・はい。ご迷惑をかけて、すみませんでした」
「あ、待ってよ台心!」
一礼して、私は逃げるように、もうすっかり暗くなった階段を気を付けて降りる。ずっと訝し気な顔をしながら付いてきたタンギンさんがようやく口を開いた。
「今の教師ってのは、女生徒をはべらすのが仕事なのかよ?」
「いやいや、はべらすって・・・・・・先生も、苦労してそうだよね。あんなにかっこいいと、変な噂立てられそうだもん」
「はっ、じゃあてめえはどうなんだよ。あの女子どもが来なかったら、どうしてたんだ」
「え、それはもちろんバレないように出て行こうとしたけど」
「・・・・・・お前、何か断りは入れろよ。なんでこそこそしたがるんだよ」
そんな会話をしつつ、私たちは校門を出て、歩道を歩いていた。車のライトが線を描いて視界に残る。横断歩道で信号が青に変わるのを待っていると、タンギンさんは実体化したのか、青く点滅する光を顔に受けながらじっとこちらを見てきた。ただでさえ青白い顔がもっと白く見える。
「そういえば、瀬名高君たちには伝えてくれた?」
「あ?まあな。莫目が現れるのは初めてじゃねえし。底なし元気野郎はてめえの元に走り出しそうだったけど、親に止められてたな。茶色い丸いもん運ぶの手伝ってた」
「そっか、お家の手伝いがあるんだね・・・・・・伝えてくれて、ありがとう」
「・・・・・・また盤渉に説教食らうのはごめんだからな」
照れたように先を歩く彼を追いかける。一歩一歩歩みを進めるごとに、何か不思議な階段を登っている気持ちになる。それが何の階段なのかは分からないけど、手を差し伸べてくれる誰かを追いかけるのは、不思議と心地よかった。鼻先を、涼しくて、葉っぱの匂いのする風が吹き抜ける。
「・・・・・・ねえ、タンギンさん」
「あ?んだよ」
「私、あなたを信頼するよ。『廃絶』にも立ち向かう。だから、タンギンさんも私を信じてほしい」
「・・・・・・」
式神や『廃絶』がいなければ、きっと繋がることのなかった縁がたくさんある。それは、私が今までで餓えていたものでもあって、人が傍にいることが当たり前でなかったからこそ、切りたくない。
タンギンさんははあ、と大きなため息をついて、頭に被っていた白い学生帽を、私の頭にぐっと被せた。つばのせいで何も見えなくて、どけようとする。
「断金でいい」
「え?」
「だから、呼び捨てで呼ばせてやるっつってんだよ!」
そう言うと、彼は私の手を引いて、急に走り出した。帽子が飛ばされないよう抑えつつ、彼に歩調を合わせる。
「な、なんで走るの!?」
「さっさと帰りてえからだよ!こんだけ付き合ってやったんだ、さっさと休ませろ!」
傍若無人な彼の笑った顔に、私も笑い返す。もう家に一人じゃない。一緒に家に帰る誰かがいる幸せを噛みしめつつ、私は歩道を駆け抜けた。




